orange.jpg (4728 バイト)ほんとうは恋

 

君と笑う

 君とうたう

  君と夢を語り

   君と雨のなかを駆ける

    陽の光 風のそよぎ

     時は自然の流れの中に

 

 

 けれど、ほんとうは恋

  私の時は静かに止まり

   さりげなくよそおう

    想いだけが立ちつくす

 

 

 ボサノヴァの、ベルベットの声に揺すられて、雅之はゆっくり目をこすり、朝陽の中で伸びをした。

 いつもの時間にタイムスイッチが働いて、オートマティックでカーテンが開き、光の中、いつものジョアン=ジルベルトの二曲目で目覚めた。

  低くけだるい声が、心に語りかける。夢の中でだけ満たされる、密かな、形にならない愛しい面影を惜しみ、ゆっくりと目覚めの感覚にひたる。

  自分が誰を夢に見ているのかは、あえて反芻しないけれど、微かな自覚はある。

  そして、曲が終わると、寝乱れた髪の毛に手をやって、頭を切りかえた。

「さて、今日もがんばるぞ」

 ぱんと、自分で顔を叩いて飛び起き、鏡に向かってすっきりとした笑顔を作り、パジャマを脱ぎ捨ててバスルームヘと向かっていった。

 

 

 関雅之、三十一歳、独身。総合商社を核とする関コーポレーション系列三十五社を束ねる二代目総帥。つい三年半ほどまえに、脳血栓で倒れた父に替わり、事業を全面的に引き継いだ御曹司で、モデルのように抜きんでた容姿で世間に知られているが、実業界では意外にあなどれない若造、という評判を得ていた。

 関西出身の先代から代替わりして、まず彼は巨額を投じて、本社ビルを最新鋭のインテリジェントビルに建て替えた。それまで弱かった海外不動産部門のプロジロジェクト拡充に乗り出し、みごとに成功させて、収益を飛躍的に伸ばした。

 

「あ、正江さん、今日はグレープフルーツジュースで頼みます。ベーコンエッグ、急いでくださいね」

 食堂の、二十人がけの長いテーブルの上座で、雅之は忙しく朝食をとっていた。ホワイトシルクのカッターシャツが光を弾き、とかしつけた豊かな髪が額にかかる。彼のきわだった美貌は、惜し気もなく光に晒されていた。

 今朝の雅之は、身仕度に時間がかかり過ぎ、いささか慌てて食事をしていた。

 一番離れた端の席では、この屋敷のもう一人の住人で彼専属の運転手である山口賢一郎が、新聞に目を通しながらコーヒーを飲んでいた。

 父が倒れてからは、屋敷の中で、この山口だけが同居人で、あとは皆通いの使用人だった。

「山口くん、今日は会議だから腹ペコだと辛い。も少し待っててくれ、なあ、頼むよ」

「はい、社長」

 彼はいかにも物静かに、答えた。

 二三人のお手伝いが白いエプロン姿で、広いダイニングルームを行き来する。二人で使うには勿体ないほどの空間に、溢れるほど朝の光が差していた。

 卓上に盛られた花の向こうで、山口はすでにサングラスをかけて黒い背広を着込み、端正に座っていた。雅之と同い年で、やはり雅之と同じ位の大柄でありながら、彼の挙動の一つ一つは静かで、まるで影のようなめだたなさがあった。

「あはん、賢一郎、待たせたな。じゃあ行こうか」

 ほどなく、まだ動かしている口の端を拭きながら、雅之は席をたった。美しく整った顔に、利かん気な子供のような表情を浮かべて、山口にウインクをして見せた。

「はい」

 山口は何の表情も作らず、彼に従って席を立った。一瞬雅之がちぇっと顔をしかめる。

 若いお手伝いが、その様子を見て、物陰でくすりと笑った。

 おしなべて、いつもの朝と変わりなく、関家の今朝の慌ただしさも、雅之ひとりの上に過ぎようとしていた。

 

 

 関コーポレーション本社ビル。大通りに面した正面玄関に、黒いベンツのリムジンが横付けされ、すぐに、山口が車から降りて回りこみ、後部のドアを開けた。

「ああ、すまない」

 そう声をかけて、サファイアブルーのスーツ姿の雅之が、軽い身のこなしで車を降りた。

「じや、賢一郎、例によってたのむよ」

「わかりました」

 無表情のまま短く礼をすると、山口は素早く車に戻り、地下駐車場へと車を回していった。

 雅之はふと足を止め、そんな彼をちょっと振り返り、いたずらっぽく微笑み、そして颯爽と本社ビルヘと足を向けた。

 

「おはようございます」

「おはようございます、社長」

 モダシなスティールのオブジェを配した吹き抜けの玄関ホールに入ると、居合わせた社員達が、声を掛ける。

「やあ、おはよう」

 彼はそれに笑顔で応えて、素早く軽快に白大理石張りのフロアーを抜け、するりとエレベーターに乗り込んだ。

 

「今日は月例社長会なのね、ほら、あの方のスーツ」

「ええ、そうよね。月例会の時は必ず、あのスーツ着てらして、スターサファイアのタイタックなさってるものね」

「アルマーニのオートクチュールですって。似合うのよねぇ…、あの着こなし、まるでモデルだわ。恵まれてるのよねぇ、彼。完璧すぎて憎たらしくなっちゃうわ」

「背が高くてハンサム。若くて颯爽としてらして、仕事が切れて、お金持ちの御曹司で、スポーツはすごいし、ねえ」

「まるでドラマみたいよねぇ、うふふ」

 受付嬢たちのひそひそ話も、賞賛と憧れの響きが満ちていた。しかし雅之はそんな声は知らぬかのように、仕事場へと足を向けていた。

 

 

「山口はん、お茶でも飲まんか」

 地下二階の駐車場には、いつになくたくさんの黒塗りの高級車が停められていた。その一角にある運転手詰め所で、運転手達は一服していた。

 車を停めてパーキングカードを取るために、詰め所に出向いた山口は、運転手仲間に声をかけられた。

「すみません。まだ、用事が残ってますので、のちほどいただきます」

 カードを手に、丁寧に礼をして去っていく背の高い後ろ姿に、声を掛けた男は舌打ちをした。

「何や、あのウドの大木。またスカかましよった。いつ誘うたってもここへなんぞ来よらん。若いのに可愛げないわ」

「まあまあ、そうむきにならないでさ。あの人、あれで風変わりなお方だからさ、怒るだけ損じゃない、いつものことでしょ」

「そやかて、なあ」

 いまいましげに男が言う。詰め所に何人かたむろしている彼らは、みなそれぞれの会社の、社長専属の運転手だった。彼ら運転手仲間には序列はなかったが、事実上ついている社長の格が、車の種類から駐車する位置までを決定づけていた。

「お若い総帥に、これまたお若い運転手はん、か。けっ、癪の種や。ほんま陰気くさい男やで。黒ずくめで、こんな地下でもサングラスも取りよらへん。おまけに、お高うとまりくさって、わしらとは口もききとうないらしいわ」

「案外無口なだけなんじゃないの。確かに、社交性はないよねえ、あの御仁は。結構男前なのにさ、あんな目立たないのも珍しいよ。まぁ、社長か目立つからね。バランス取れてるんじゃないの。だけどさ、僕が聞いた話じゃ、総帥の車ってのは変わってて、バッテリーの容量が桁外れに大きいらしいんよ、特注だってさ。なにか秘密があるんじゃないの」

「それがどないしたっちゅうのや」

「だからさあ、山口さんがあんな風なのと、関係あんじやないのってこと」

「へぇー」

「大学出てんでしょ、あの人。なんだかうさんくさいよねえ」

「そや、そうきいとる。…なあるほど、せやから変わっとるんかいな」

「ま、何てっても僕らにゃ関係ないわさ」

「そうやな、ははは」

 ひとしきり山口の噂をしてから、運転手達は野球の話題に盛り上がって、程なく彼のことは忘れた。

 

 山口は、素早くあたりを見回し、リムジンの後部ドアから乗り込んだ。総帥の車は、囲いのついた専用の駐車スペースに停められていた。

 運転手たちの噂どおり、このリムジンは特注車で、最新鋭のコンピューターシステムを搭載し、専用の駐車スペースでは通信室の役割も果たすようになっていた。

 表向き優雅にしつらえられた黒革のシートをいじると、コンパクトに嵌め込まれたモニターと、端末のキーボードが現れる。

 山口はパスワードを打ち込むとサングラスを外し、ヘッドホーンを着用し、そこに映し出された月例社長会のようすを食い入るょうに見つめた。そして、議事の進行に連れて、何事かを懸命に端末に入力していった。

 関雅之がいつも月例社長会につけてゆく大きなスターサファイアのタイタックは、実はこの車の受信装置に合わせて作らせた、超小型の音声発信装置で、会議室の隠しカメラに連動するしくみになっていた。

 山口はやがて一枚のディスクを取り出し、別の端末を立ちあげ、電話回線につなぐと本社のホストコンピューターとコネクトし、モニターに映し出されて来る数値を見据えながら腕組みをした。

 彼、山口賢一郎は、運転手であると同時に、関コーポレーション総帥関雅之の、唯一人のプライベートな経営参謀だった。

 

  夜。雅之は山口賢一郎の部屋にいた。落ち着いた色調の、簡素な部屋の家具の間で、端末が、せわしなくデーターをアウトプットしていた。

「関インダストリィの山上社長。この方は警戒した方が、無難です。報告が気になりましたので解析しましたが、やはり実数と提出書類の数値にずれがあるようです。ごらんください」

 細いフレームの眼鏡を掛けて、雅之は書頬を覗き込んだ。すぐに目的の数字を見つけると、納得の笑みを浮かべて山口を見た。

「あ、はん、やはりね。あそこは最近僕も、少し変だとは思ってた」

「もう少し詳細に調べないといけませんが、更迭も考えておいた方がいいと思います。それと、あとは、栄光証券の水口樹脂を巡るインサイダー取引の件、関係筋には手は打って頂いたようですが、榊社長の弁明は若干楽観的に過ぎます。こちらのデータを御覧いただければ、まだ危ない状況なのがお判り頂けると思います」

 雅之は、面白そうに微笑って、促した。

「うん…。で、君の考えは」

「一応、文書でまとめてみました、のちほどお目通しください。今後の経済の動向など、少し書き添えておきましたので、ご参考にでもなさってくだされば、幸いです。あとはグループ各社とも、おおむね順調な経営状態であると思われます」

「そ、か。ありがとう」

「いいえ」

 話が終わると雅之は、やにわにもって来たウイスキーをグラスに注ぎ分けた。ゆったりした寝間着の上にガウンを着込んで、すっかりくつろいでいた。

「ふー、賢一郎、いくら仕事だからって、家にいるときまでそんな堅苦しくするなよ、二人だけなのにさっ。寝酒に一杯やろうぜ、なー、賢一郎。いいだろ」

「…ああ、もらうよ」

 ふっと笑顔になって、山口が答えた。薄く笑みの見える和らいだ表情をすると、山口賢一郎は、氷の魔法が解けたように、親しみやすい雰囲気になった。

「その寝間着、すこしくたぴれてきたかな」

 山口が着ている絹の寝間着は、着心地が良いからと、いつも雅之がそろいで作らせているものだった。その上から綿入れ半纏を着て、洗ったままの髪を無造作にしている彼は、ざっくばらんな格好だけに、ずいぶん若やいで見えた。

「いや、まだ着れるからいいよ」

「またまたァ、遠慮するなよっ」

 雅之は笑って杯を挙げた。二人はグラスをあわせて、ウイスキーを飲みほした。そして、じっと互いの目を見つめあった。

「賢一郎、あしたも、よろしく頼む。僕は君だけが、頼りなんだからな」

「わかった」

 ふと真面目な表情に戻って、雅之はつぶやいた。賢一郎は、笑みを残したまま、落ち着いた視線を返して来た。

 

 

 

「ああん、じらさないで…、いやなひと」

 甘い都会の夜。美津保は、しどけなく身体をくねらせ、雅之の耳元に甘く囁いた。芯を貫いたまま動きを止めている愛人を、なじるようにかき抱き、締めつける。

「あん、あん」

 レンガ張りの高級マンションの部屋の、豪華なロココ調の家具に嵌め込まれた飾り鏡に映る、白い、吸いつくような肌。細くしなう頚すじ、赤く塗った優雅に長い爪。その美しい身体で、彼女は夜の銀座を華麗に生きぬいて来ていた。

「ママ、ああ、いいよ」

「ん…雅之さん、意地悪」

 クラブ扇のママ、白石美津保が、関雅之のここ数年来の愛人だった。

 彼女は、柔らかな品のある声に特徴のある和服美人で、そのしとやかさとは裏腹に、夜の世界では有名なやり手ママだった。雅之に銀座の店と、青山のマンションを当てがわれ、ときおり関係をもっていた。

 

「今日は、これで帰るよ」

「もうお帰りになるの…。お食事、つくりたいわ」

「山口をあまり待たすと悪いからな」

 煙草をひねりつぶして、裸のまま雅之はベッドを降りた。

「そう…、また山口さんなのね。…残念だわ。マタグレナへお電話を入れて、車など、帰してしまわれればよろしいのに。私が送りますわよ」

「そうもいかないさ。山口は、私が君と逢っている時だけ、あの店で待ってるんだよ」

「でも…、もう少しあなたと居たいわ…」

「山口なりに気をきかせてくれているんだから、無理は言えないさ」

「そうね。だからなのかしら、私の時間はいつもあまりにも短くて、私…山口さんを怨んでしまいそうですわ」

 美津保は寂しそうに漏らした。

「私が、待たせてる。山口のせいでは決してないよ。まあ、そう拗ねないで。埋め合わせに、例の帝国ホテルのレセプションには、君をエスコートしていくから」

「まあ、本当に。…嬉しいわ、雅之さん」

外務省がらみの国際親善団体が、毎年行うレセプションは、各種のパーティーのなかでも格が高く、それは華やいだ席だった。白石美津保は、そういう席に伴われることを、ひどく喜んだ。

独身の雅之は、仕事の上で必要な女性同伴の席に、しばしば白石美津保を伴っていった。

 彼らが関係を持ちはじめた頃は、周りも雅之が彼女を妻にするものと思い、あれこれとざわついた。マスコミに取りあげられたこともあった。美津保自身、期待していたかも知れない。

 しかし二人の関係は、いつまでたっても一向に変わらなかった。時が経るに連れて、変化のない状態に、周りは雅之の真意をはかりかね、美津保はあせりを感じ始めていた。

 身支度を整え、下へ降りて行くと、ベンツのリムジンがエンジンをかけて待っていた。雅之が出て来るのを見て、山口が車の外に出て、出迎えた。

「ああ、ありがとう」

「こんばんわ、山口さん。いつもいつもお世話おかけいたします」

 美津保は雅之に寄り添い、無意識に艶やかなまなざしを向け、微笑んだ。それは、数知れない男達を魅せた、彼女の切り札、最高の微笑みだった。加賀友禅を着こなした、細い姿が優美だった。

「いえ、美津保さま。…社長、では」

 しかし山口には何の表情の変化もなかった。雅之を乗せると、ただ深く一礼して踵を返し、彼は運転席へと戻っていった。そして間もなく、リムジンはスタートしていった。

 

「…ほんっとに、いけすかない運転手だこと。あれでも男なの、まったく。いつ見たって、愛想もくそもありやしない、失礼しちゃうわ」

 誰もいないマンションの前の道で、美津保は、そのしとやかな外見に似つかわしくない悪態をついた。

 いつも、この一時、山口に恋人を取られたような気持ちになる自分が、不思議だった。他の者なら、そんな風には感じないだろうに。

‘はん、私としたことが…,

 裾をひるがえし、白い襟足を見せて、彼女は部屋へ戻っていった。

 

 

マタグレナは、小さなパブだった。繁華街の裏通りにあって、時代おくれの内装の、うらぶれた薄暗い店だった。いつ来てもここには、なんとなくくたびれた感じの客が多かった。

「シンビーノ、顆む」

 山口賢一郎は、言った。とうに女盛りを過ぎたママが、彼の言葉か終わらぬうちに、シンビーノと水の入ったグラスを出した。

「あのお客さん、またシンビーノ」

 店の若い女の子が、ママに小声で聞いた。

「いいの、あの人は、どこかのお抱え運転手なんよ。ほっといておやり」

「でもお…」

「だめよ、顔に出るよ」

 ママが諌めた。よく、来ている男だった。この店にはそぐわない客だった。店の若い子はよく見もしないが、端整な顔立ちをしている。本当はかなりの男前だった。

 彼はいつ来てもサングラスをしたまま、広い背中を丸めてシンビーノを飲み、いつも一人でいた。たまに話しかけて来る相手がいても、男がろくに相手をしないので、やはり最後には一人だった。

 いつだったか、まだ彼が来始めたころ、ふと話しかけたことがあった。

 

「あんた、あのすごいベンツの人なの?」

「ああ」

「あんたの車…な訳ないわよね、運転手、してるのね。あ、名前聞いていい」

「…ああ、山口だ、山口賢一郎」

「いっつもシンビーノとか、飲むから。ここでは、時間待ちしてるんだ」

「ああ、まあね」

「あはん、あたしのカンも、まんざらじやないわ」

「…そうだね…」

 少し微笑って、山口は言った。

「サングラス、取っちゃいなさいよ。男前なのに、もったいないわ。そう言われない?」

「…いいんだ…」

男は言った。口調は冷たくはなかったが、愛想のない答えばかり返ってきた。ママは一生懸命話の水を向けた。けれど、男の態度は同じだった。ママはやがて会話に疲れ、彼から離れていった。

彼は相変わらず、ときどき来ては一人シンビーノを飲んでいった。大概は二時間ばかりで出ていったが、彼のボスとおぼしき若い男から、電話で早めの呼出がかかることもあった。

 いつ来ても、いつ見ても背中を丸めた大きな後ろ姿が、なんとなく寂しそうで、訳ありの雰囲気が漂っていた。

 ママはやがて、山口に興味と好感を持つようになっていた。しかしやはりこの気になる男とは、あまり話す機会もなかった。

 

「山口君、君は山口君じゃないかね」

 帝国ホテルの車寄せで、突然声をかけられた時、山口賢一郎は運転手の制服のような黒の背広で身を固め、パーティ会場から出て来る関雅之を待っているところだった。

「何をしているのかね、こんなところで。…君」

 突然の詰問に面食らって相手を伺うと、声の主は、かつての恩師の一人、戸塚教授だった。あまり突然で返事に戸惑っている山口を尻目に、教授は彼の姿を一瞥してから、まくしたてた。

「…き、君は、他人の車の運転手をしているのか、まさか…。篠田教授は御存じなのか」

「………」

山口は困り果てていた。戸塚教授は一流の経済学者だったが、その一方ミスターパッションという異名を持つほどの激昂家だった。山口の恩師篠田教授とは、格別仲がよかった。

身の置きようのない態の山口は、その巨体で詰め寄られて、早口のだみ声を浴びせられた。

「お知りになったら泣かれるだろう。あれほど君の慰留を願っておられたというのに。…君ほど優秀な教え子はいなかったと、今も私は聞かされる。大学に残ってくれるものだと思っていたと。君の卒論は私も読んだ。君ならば黙っていてもすぐに講義を受け持てる。いったいどうしたというのだ」

「…事情がありまして。どうか篠田教授には御内分に、なさってください」

「山口君」

 押し問答をしている所へ、関雅之が白石美津保を伴って帰って来た。

「どうした、山口」

 凛とした雅之の声に驚いて、二人とも振り返った。

「いえ、なんでもございません。どうぞ。美津保さまも」

 一瞬、まずいという表情を見せたが、すぐに態勢をたて直し、山口は運転手の貌を取り戻して一礼した。雅之の美貌に呆気にとられた戸塚教授は、その山口の様子を見て、今度は情けなさそうな顔をした。

「ああ、ありがとう。…そちらの方は、経済学者の戸塚先生ではないのか」

「ええ、おっしやる通り、私は戸塚です。山口君は、私の教え子でした」

「やはり。ああ、私は関雅之と申します。先生のお書きになったものは、かねがね拝読させていただいております」

 そう言いながら雅之は、横目で山口を見、彼の無表情に戻った顔の中に、困惑の色を見た。雅之は、さりげなく腕時計を見て言った。

「申し訳ありませんが、急ぎの予定がありますので、私共はこれで失礼させて頂きます。機会があれば、ぜひご講義を拝聴したいと思います。じや、山口」

 あっけにとられる戸塚教授の手に、雅之は素早く自分の名詞を握らせた。ソフトなトーンのなかに、有無を言わさぬ響きがあった。

「ええ、ああ、や、山口君、一度大学の方に顔を出してくれたまえ。車の運転が悪いことだとは言わない、だが、君はその知識と才能を生かすべさだ。いいね、悪いようにはしない。必ずきたまえ」

「…ありがとうございます」

 ベンツは、まだ何か言いたげな教授を残し、静かにスタートて繁華街へ消えていった。

 

「申し訳ございません、私事で、大変お騒がせいたしました」

 リムジンの仕切越しに、インターホンで短いやりとりがあった。美津保は、意外そうな顔をして、言った。

「山口さん、大学出てらっしやるのね、しかもあの戸塚先生の教え子ですのね。知りませんでしたわ」

「さすがの君でも、ね。彼は秀才だったんだよ、そんなに不思議なの」

「ごめんなさい、でも…」

美津保は口をつぐんだ。雅之が、さも楽しそうに含み笑っていたからだ

「はは、彼は無口だからね、自分のことをあれこれ言う奴じゃない。それに君にとっては、いつでもデートの邪魔をする嫌な奴、かな」

「意地悪、雅之さんって。でも私にとっては、あの人はそうですわ。だって、私、雅之さんと少しでも一緒に居たいんですもの

甘えた声で、美津保が応えた。彼女は雅之に身をよせ、車中に、甘しムードが漂った。

「でもなぜ、運転手なんかに」

「…さあね、いろいろあるのさ、人生は」

 雅之は笑って目を閉じ、それ以上答えようとはしなかった。

 

 雅之の肩に甘えながら、美津保は内心に疑問を感じていた。あの戸塚教授は、あれでも東大の教授だ。あの教授があそこまでいうほど、山口という男は優秀だったのだ。では、なぜ、運転手で甘んじているのだろう。

‘雅之さんは知らないといったけれど、そんなはずがないわ。彼のこと、長いこと使っているんだもの、雅之さんたら、嘘ついてるのね,

 それは、素朴だが深い謎だった。あたってみる必要があると思った。

 

 

 仕事を終えて自室に戻り、山口賢一郎は、ため息をつきながらウイスキーを煽っていた。

‘気を、つけているつもりだった。行動にも、言動にも,

 半分隠密のような今の仕事を考え、出来るだけひっそりと生活してきた。昔の知己にも、友人にも、ここ数年は会わないようにしていた。

 行きつけの酒場も、そうした配慮の末、出来るだけ昔の自分にそぐわない所を選んだ。場末の、薄汚いパブでは、大字時代の友人などに出くわすわけがなかった。

‘東京大字を現役で出て、リムジンの運転手をしている男’

「…はは、ははは…」

 力なく山口は独り笑った。

 

 

 十八歳の夏、鎌倉の駅前で山口賢一郎は、はじめて関雅之にあった。

 賢一郎の寂しい境遇を心配した友人にパソコン通信を勧められ、高校二年のときにコンタクトをとったのが、最初の出会いだった。

たかが、釣り、されど釣り、とか言いながら小難しい議論が好きで、突飛なことを聞いて来る、神戸の変な奴、それが関雅之だった。画面の中での彼は、陽気で饒舌で、同い年だということもあり、すっかり意気投合したのだった。元々の話題だった釣りの話から、SF、恋愛、はては横浜と神戸元町とどちらの中華がうまいのか、なんていうことまで語り、離れがたくなり、アクセスするたび盛り上がり、互いに会うためだけに、通信をする日々が続いた。

 そして夏、関雅之が上京するときに、一度会おうということになったのだった。

 

 雅之は、目印になる雑誌を抱えて、駅の日陰で佇んでいた。そして賢一郎を見つけると駆けよりながら、嬉しそうに微笑った。

「山口くん、僕、関です」

‘…嘘だろう…’

まぶしかった。日なたに走り出た雅之は、にきび面の生意気な奴を想像していた賢一郎を、これでもかというほど裏切った容姿だった。

白いシャツ姿の、その時の雅之を、山口はいつまでも忘れなかった。

 背の高い、整った容姿はみずみずしく華麗で、よく通るきれいな声をしていた、

‘何て、綺麗な顔してるんだ…、こいつは’

あまり何事にも動揺しない山口賢一郎が、生まれて初めて動揺しきって、相手に見とれ続けた。

「おう、山口賢一郎だけど、おい関、お前すげーまぶいなぁ」

「なにおーーっ」

「にきび面の生意気な奴、想像していたんだぜ」

「かはは、そりゃーいーや。期待はずれで堪忍なっ」

雅之は、屈託なく笑い、賢一郎はそれで動揺の魔法から開放された。

 

 一日、源氏ゆかりの寺を巡りながら、彼らはお互いに自分の事を語りあった。パソコンを通じて友達になったとは言え、彼らは互いに知らないことが多かった。

 関雅之は、会社の経営者である父の後を継ぐ運命の自分を語り、山口賢一郎は、高校に合格したとたんに両親を亡くして、親戚の後見のもと、一人で生きていることを語った。

 雅之は、容姿に慣れてしまえは、いつものけれんみのない、山口の知っている彼に他ならなかった。山口はやがて、自然な気持ちを取り戻していった。

 その日から山口賢一郎と関雅之は、互いの良き相談相手になっていった。ことに、両親の亡い山口は、身軽な立場であることも相まって、東京に引っ越して来た関家の半ば住人のようになった。

そして就職の年になり、掛け離れた世界に生きる雅之の真剣な、それでいて心細そうな様子に心を動かされ、自分の専攻している経済学の専門知識を実践出来る機会を悟り、かねてより言われていた大学院を断って、彼に力を貸すことにしたのだった。

 

 あれから十年あまり、彼らのビジネスは、大成功を収めた。山口の知識と、雅之の行動力がみごとな結実を見せていた。

 今、山口は裏方に徹して、そうすることで実業家、関雅之を輝かせていた。それが、山口の選んだ道だった。

‘そのためなら、何も厭わないさ,

 山口は芯からそう思っていた。その気持ちに嘘はなかったが、ふと、理屈では割り切れない切なさを感じることも、あるのだった。

 

 

「賢一郎、賢一郎」

 扉を叩く音がして、雅之が彼の名を呼んだ。

「はいってもいいか」

「ええ、どうぞ」

 山口がドアを開けると、雅之は部屋へ入り、ベッドに腰かけた。

「昼間、あの教授に、何か言われたのか」

「…ええ、しかし、たいしたことではありません」

 山口は静かに答えた。しかし、雅之は彼の手に握られたストレートのウイスキーのグラスを見て、首を振った。

「嘘のへたな奴…」

 彼はそんなきつい酒を、自分から口にする男ではなかった。

「賢一郎、君を役員にする用意は、いつでも出来ている。知ってるだろう。君さえ望むなら、明日にでも本社の重役だ。そのためにいつも常務の椅子はあけてあるんだ」

「雅之…」

 山口は、いつか友達の口調に戻っていた。

「何なら僕と代わったっていいんだ。賢一郎、もしメンツが大切なんなら、そう言ってくれないか。君が僕の運転手のままでいてくれているのは、…僕のためなんだろう。いつも我慢してるんじゃないのか。もし、それで君が辛い立場になっているのなら、お願いだから、楽になってくれ…。もう十分期は熟したさ」

「雅之…、ありがとう。だが、メンツなんて関係ない。俺のことが美津保さんにわかって、少しまずいと思っただけだ。俺は自分で今を選んだ。悔いはないし、まだ方針は変えない。このままでいい」

 山口は言った。

 相変わらず静かな、迷いのない目をしていた。雅之は、その目をじっと見つめて、やがて頷いた。

「わかった。それならいいよ」

 表情のない山口の顔に、薄く笑みが浮かんだ。

「ああ、賢一郎。また冬の寝間着と、カッターをこしらえることにした。カラーオーダー、考えといてくれ」

 取ってつけたように雅之は言って、そのまま部屋を出ていった。山口は笑みを浮かべたまま目を閉じて、吐息を漏らした。

 

 真夜中、眠れずに何回も寝返りを打った。雅之は、うんざりとため息をつき、ベッドに起き上がった。

 静かな、動じない目をしていた。山口賢一郎は、しっかりと前を見据えていた…。

「賢一郎。お前、どこまで強がりなんだ…」

ひとつ屋根の下で暮らし、同じ事業に手を染めた二人だった。夢はかない、全ては軌道に乗り、新たな目標を持つべき段階に来ていた。

薄々気づいている、自分のどうにもならない気持ち…。

「わかっちゃいるさ、ただ、どうしたらいいかわからない」

 不安定な賢一郎の立場も、ずるずる続いている美津保との関係も、考え直す時期にさしかかってはいた。

「俺は弱い…、一人では、生きていけない…、けれど、俺を支えるのは美津保では駄目だ。お前でないとだめだ、賢一郎。お前を、これ以上あんな立場に置いてはおけないじゃないか。飲めない酒を飲ませるような、あんな立場にはもう置きたくない…」

 けれども、賢一郎の中で気持ちの整理がつかない限り、状況を変えることはできそうもなかった。

 関コーポレーション総帥、関雅之は、またひとつ大きなため息を付いた。

 

 

「ごめんなさいね、山口さん。わざわざ迎えに来て頂いて」

 夕暮れどき、マンションの前で、着飾った美津保を乗せた。

「今夜は、横浜ですのよ。あの方の車で参りますから、お屋敷までで構いませんわ」

パーティドレスにミンクをはおり、美津保は巧みな化粧をしていた。淑やかなレディ、どこからみても非の打ち所なくそう見えた。

彼女が話しかけるので、山口は仕切りを閉じれずにいた。

「本当は、一度でいいから水入らずで過ごしたいのですけれど、あの方、イブはいつも決まってパーティーなんです。今年はお店も他人任せで、ついて参りますの。ママ失格ですわね。山口さんは、御子定がおありかしら。御家族の方は」

「…いえ。家族はおりません」

「そうですの。じや、イブはお独りで」

「ええ、多分最後には独りでしょう」

 そして、沈黙が広がった。美津保はちょっと嫌な微笑みを浮かべ、話のつなぎに、聞いた。

「あなた、お住まいはどちら」

「…お屋敷です」

「えっ」

「関家に住み込んでおります」

 美津保は絶句した。何年、関雅之の愛人でいたその間、ずっと知らなかった。知ろうともしなかった。彼女は一度も屋敷に招かれたことがなかった。雅之は独りで住んでいると、思い込んでいた。

 勝ち誇った気分から、一転、言い知れぬ激しいショックに見舞われた。

「そ…う、ですか」

「はい。今夜は、屋敷で働いている皆さんと、ささやかな打ち上げをする予定です」

 微かに、笑顔を見せて山口が答えた。美津保は落ちこむ心を抑えて、無理に笑顔を作った。

「それは、よろしゅうございますこと。私達も、せいぜい楽しんで参りますわ。あのひとをお預り致しますわ。ほほ…」

 かん高く、披女の笑い声が響いた。

「存分にお楽しみくださいませ」

 静かに、山口が言った。

「ありがとう。あなたも」

 それが彼女の精一杯だった。

 

 

 街はジングルベルの音楽が溢れ、道ゆく人は皆、浮かれていた。その人の流れの中を、独りうつむき、山口は歩いた。

 屋敷の打ち上げを早々と抜けだして、都電と地下鉄を乗り継ぎ、マグダレナへやってきた。店は、精いっぱいクリスマスの飾りつけをして、うらぶれたなりの華やぎがあった。

「いらっしやい」

 珍しく人の多い店内にはいると、ママがすくに声をかけてきた。

「ジャックダニエル、ボトルで。それと、水」

 はしゃいでいる酔客を避けて、そっとカウンターの隅の席につくと、山口は小声でそう注文して、ママや店の連中を驚かせた。

「え、あ、はいはい。今夜は飲むのね」

 ママは、軽く答えながら、すばやく彼の荒んだ面持ちを察した。山口は、まるで待ちかねたように出されたボトルの封をきると、瞬く間に三杯ほどロックで空け、いきなりカウンターにつっぶしてしまった。

「山口ちゃん、ちょっと大丈夫。だめよ、早すぎるわよ」

 ママが声を掛けた。

「…かまわないから、もう一杯、注いでください」

 かなり呂律のまわらない声で、山口は言った。

「駄目よ。もう」

「…お願いだ…、飲みたいんです」

 つっぶしていた顔をあげた彼の目を隠すサングラスは、外れかかっていた。ママは、さりげなく彼からそれをとった。

「……頼むよ、今夜は車じゃないさ。頼む…よ」

 山口は、真顔だった。ただその目許は、滲んでいた。

「どうしたの、あんた…」

「…なんでもない…」

「嘘おっしやい」

 ママは、あまりの事にしばし戸惑っていたが、やがて決心して言った。

「あんた…、上へいらっしやい。恵子ちゃ−ん、ちょっと」

 店の若い子に二三指示して、ママは賢一郎を抱えるようにして、急な階段を上がった。

 

「世間はクリスマスって浮かれているのに…、やけ酒のみに来たなんて。何があったかは知らないけど、らしくないわよ、あんた」

ママは、着ているワンピースを脱ぎ捨てながら、言った。賢一郎は、アルコールのせいで、頭が混乱していた。ただ、ただ、胸に積もる想いを、捨てたかった。

「いらっしゃいよ」

 差し伸べられるまま、その手に絡みつかれ、彼はママの裸の胸に、顔を埋めていた。

「初めて見たときから、あんたのこと、気になってた。いっつもシンビーノなんか飲んでさ。人を待つ姿が、切なそうでね。あんた、私の好きなタイプだったから、よけい、ね…。いつかうちでお酒飲んで、楽しい顔してほしいって思ってたわよ」

「ママ…」

「あんた、辛い恋、してんのね」

「……淋しいんだ、今夜は。こらえてられない…」

「やっばり、図星なんだ…。キスしてよ、抱いて…。とりあえず楽になれるよ。心配はいらない、これは今夜かぎりの恋、だよ」

 あまり器量のよくない女の、疲れた優しい目が、見つめていた。山口は回した腕に力を込めて、カーぺットに倒れ込んだ。

 そして聖なる夜、温かい女の肌のなかで、山口はすべてを忘れていた。

 

 

 横浜港に浮かぶ豪華客船で、盛大なクリスマスパーティが催されていた。有名人が居並ぶ華やかな夜、美津保はフロアで、楽しそうに二枚目男優と踊っている。今日の彼女には、妙に距離を感じ、いつしか手を放していた雅之だった。

 関雅之は、浮かない気分のまま、会場をぬけだして甲板に出ていた。

 冬の花火が、ひときわ儚く夜空に花開いていた。フロアから溢れて来る音楽にのせ、金髪の紳士が女を口説いていた。

‘…賢一郎’

 こんなときに思いだすのはあまりにも切ないのに、さっきから山口の顔が、頭にちらついていた。

‘こんな夜は、するめでも焼いて、お前と呑んでた方がいいな…’

 寒い夜、時々誰もいない屋敷の台所で、二人して酒を呑む。酒が弱い山口は、すぐに酔って、ふらふらしながらするめを焼いて、あてにする。すぐ出来るぞ、大人しく待ってろよ、などと呂律の回らない口調で言い、陽気に笑う。雅之にとって、それは仕事を離れ、友が戻って来る、幸せなひとときなのだ。

 屋敷は、もう誰もいないだろう。通いのお手伝いは皆、帰宅している頃だ。

 賢一郎、この夜を、お前は独り過ごしているのだろうか。淡々と静かに過ごし、身仕舞いをして寝るのだろうか。

「淋しくないか、お前、強がりだからな…。賢一郎、…俺は淋しい、こんなところにいるのに、たまらなく淋しい」

ざわめき、さざめき、人も羨む豪華な夜が潮風に流れる。光をのせて、輝く夜の海。

二人きりのクリスマスイブを、過ごしてみたいと思う自分が恐くて、華やぎに逃げても…。

…寒い…、賢一郎…

 その中で、美貌を冬の潮風に晒して、雅之は降り積もるような孤独感を、噛みしめていた。

 

「何て顔してらっしやるの」

 不意に声を掛けられて、雅之は驚き、声の方を向いた。そこには美津保が、シャンパン二つを手に持って、立っていた。そして彼女は微笑むと、彼に片方のグラスを差し出しながら、言った。

「お姿が見えないから、私、探していましたのよ。今夜はちっとも傍にいてくださらないのね。パーティは、お気に召しませんこと」

「いや、そんなことはないよ」

「何か真剣に考えてらしたわ。お仕事のことですかしら」

「いいや…、何も考えてなんかいないよ」

「目が、違ってたんですもの。…それとも、山口さんの、事?」

「…なっ…、ぱ、馬鹿な…。はは、どうして山口なんだ」

 雅之は、ひやりとしながも、笑って受け流した。

「ごめんなさい。でも、いつもだって、あなた山口さんを待ってる時、似たような顔しますもの」

「馬鹿らしい」

「でも、あの方、お屋敷に住んでらっしゃるのですってね。雅之さんと、あの方と二人だけなのね」

「ああ、いまは親父がいないからね」

「やっぱり…、知りませんでしたわ。ずっと以前からですの」

「ああ、そうだよ。それがどうかしたのかい」

「いいえ、別に」

「何変なことをぐちゃぐちゃ言ってるの、今夜の君、おかしいよ。そろそろ冷えてきたし、フロアヘ戻ろう。さあ」

 雅之はそう言って、優しく手を彼女の腰に回した。寄り添い、うつむきがちに白い襟足を覗かせながら、美津保はきつく唇を噛んでいた。

 

 明け方、雅之が帰宅した時、山口はまだ帰ってきていなかった。

「なんだ、いないなんて、珍しい」

 呟き、肩を落とした。なんとなく不安な気分だった。行き先も告げずに山口が留守をするなどということは、考えてみればなかったことだった。

‘どこへ行ったんだろう、こんな時間まで’

けげんに思いながらも、どうするすべもなく、彼はたったひとり、冷蔵庫からとりだした、作りおきのコーヒーを飲んだ。

 

朝、いつものように食堂のテーブルの端の席で、コーヒーを飲んでいる山口の姿があった。

「昨夜は、出かけていたんだね」

「ええ」

「パーティは、疲れるだけだったよ。いかなきゃよかった」

「ご帰宅は何時ごろ」

「明け方だったよ、おかげで徹夜だ。…君はまだいなかったな」

「寝て、帰って来ましたから」

「ちぇっ…。お互い、遊んだんだから、文句は言えないよな。仕事に出かけるとするか」

 雅之は席を立った。

 

 

 白石美津保は、寝室で考えあぐねていた。クリスマスパーティの夜、ついに雅之は抱いてはくれなかった。それどころか、ここ数日は、連絡もして来てくれなかった。しつこく被女の方から誘いをかけて、やっと今、雅之が訪れ、風呂に入っていた。

 白い指が大理石の受話器を握り、呼出音のあと、相手が出た。

「すみません、マタグレナですか。私、白石と申しますが、そちらに山口賢一郎さんがいらっしやいましたら、お願い致します…。あ、山口さん、いつもお世話になります。申しわけないのだけれど、ちょっとこちらへいらしていただけませんこと。いえ、お帰りはまだですけれど…、ええ、はい、…では、お待ちしてますわ」

 受話器をおき、美津保はため息を付いて目を閉じた。理不尽はわかっていた。けれど、雅之がおかしくなったのは、山口賢一郎のせいだという気がしてならなかった。

「私、どうかしてるわね」

 夜の世界で、キャリアをつんだ自尊心は、どこへいってしまったのだろう。美津保は鏡の自分を、鼻で実った。

「山口さん、よくいらしてくださいましたわ。どうぞ、お上がりになって」

「…はい」

  美津保は、ネグリジェ姿で出迎えた。山口は、驚きも表さず、静かに靴を脱いで上がり、招かれるまま豪華な応接セットに腰掛けた。

「お楽になさってね」

「美津保さま、ご用件をどうぞ」

「まあ、慌てないで」

 美津保は落ち着き払って言った。白い胸もとをちらつかせながら、紅茶を入れた。バスルームからは、水音が流れていた。

「雅之さんは、お風呂です。私、いまのうちに山口さんに、どうしてもお聞きしたい事がありますのよ」

「…なにか」

「山口さん、あなた、雅之さんとどういう間柄でらっしやるの」

「え…」

「あなた、東大ご出身ですってね。教授に見込まれておられたのに、卒業なさってからもう十年も、雅之さんの車の運転手しておられて…、彼と一緒に暮らしてらっしゃる」

「なにをおっしゃりたいのですか」

「なにを、じゃなくてよ。私、最近気づいたのよ、あの人が、私と結婚したがらない訳を。原因はあなただって」

「…ご冗談はおやめください」

「冗談ですって、ほほほ、とんでもない、私は本気で聞いてますのよ」

「…美津保さま…」

「あなた、あの人のなんなの。ただの運転手じゃないわね」

「……」

「二人で、十年も同じ屋敷で暮らしているのだもの」

「………私はただの使用人です…」

 山口賢一郎は、答えた。膝においた手が震えて、たちまち白くなった。

「嘘っ。きちんと答えてよっ」

美津保は金切声をあげた。それに驚いて、風呂場の雅之が飛び出して来た。

そして、その隙を突いてあっという間にその彼の脇をすりぬけて、山口が駆け去っていった。

 

「…ど、…どうしたっ」

「なんでもありませんわ」

「そうか。驚かさないでくれよ。…今出ていったの、あれ、山口じゃないか。来てたのか」

「ええ、私が呼んで、来ていただきましたの」

「なんでまた」

「ええ、聞きたい事がありましたものですから。でも、山口さんは、帰られましたわ。リムジン、下においてらしたみたいよ、ほら、キィがそこにありますもの」

 美津保は言った。妙に勝ち誇ったような口調だった。豪華なレースのネグリジェを肩からすべり落として、彼女は言った。

「これで夜中あなたといられるわ。あなたの時間は、私のものよ」

 美津保の声音は、どことなく異常を感じさせた。雅之は、背筋に走るぞっとした悪寒を耐えながら、聞いた。

「美津保、君、山口に何を言った」

「さあ…、何ですかしら」

「彼が仕事をおいて帰るなんて、只事じゃない。いったい何をしたんだ」

 雅之は、バスロープを纏っただけの姿で、真顔になって美津保に詰め寄った。美津保は全裸になって、しどけなく微笑んだ。

「うふふ、怖いわ。ねえ、教えてくださる、雅之さん。山口さんは、あなたの、いったい何なんですの」

「…美津保」

「私、山口さんに聞いてみましたの。でも彼、何も答えなかった。逃げてしまったわ」

「…賢一郎に、聞いただと」

「ええ、そうですわ。あなた、雅之さんの何なのって」

「バカ」

 容赦のない酷い平手打ちが、美津保の頬に飛んだ。彼女はうずくまり頬を押さえ、泣きだした。そして突如燃え上がったかのような形相で、ぎらつく目をして、泣さながら言った。

「ちきしょう、あんたたち、何よっ。なめんじゃないわよ、わかってんのよ。ホモじゃないのっ」

 関雅之は、呆然として突っ立った。激しい罵声には、あの、淑やかな和服美人の風情の、かけらすら残っていなかった。華やかに結った髪が崩れて、美しい顔は、醜悪な形相になっていた。

「私を隠れ蓑にして、…私を素通りして、あなた山口のこと、思ってた。違う?、図星でしょ。だから私を待たせたままでも、ほおったままでも、平気でいられたのよっ」

「美津保」

「…くやしい…。そうとも知らずに、私、格好の隠れみのよねっ、大馬鹿だわよ」

「山口は、僕の部下だよ。僕に協力してくれている。それだけだ」

「いいえっ!いいえ、違うわ。あなた、これから私と寝るつもり、ある?ないでしょ。…そわそわしているもの。あなた、見たくないかも知れないけど、あなたの心は、山口の行方を追っているのよ。私なんかより山口を、失いたくないのでしょう」

「……」

「そうまで言われても、まだ判らないの。私に、判ったのよ。私の心なんか、もう、ずたずたよ。言ってあげる、何回でも言ってやるわっ!あなた、山口が好きなのよっ、愛しているのよっ!あなたも山口も、ホモよ」

思うさまはりたおされたような衝撃で、雅之は身動きも出来なかった。

「探しに行けば、いいわよ。私なんか、どうせ眼中にないんでしょ。もう、お終いよ…」

 そう言って、美津保は泣き崩れた。

 しばらく、雅之はヒステリックに泣きじゃくる美津保を見つめていた。しかし、やおら服を着ると、黙って彼女のマンションを後にした。

 いつもは、山口が運転する席に座り、夜道を飛ばしながら、雅之は美津保の言葉を反芻していた。

‘あなた山口が好きなのよっ。あなたも山口も、ホモよっ’

ひどい言葉だった。けれど、少なくとも自分に関しては、真実の的を得ていた。そのことが、酷く痛く胸に突きつけられただけのことだった。

「すまない、美津保」

  そうさせてしまったすまなさに、ひとりつぶやく。

 彼がマグダレナにいることは、わかっていた。車は夜道を飛ぶように走った。

 

 

「賢一郎!」

 店のドアを開くと、すぐに薄暗いカウンターの隅の席に座っている山口の姿が目に映った。

「…雅之」

 その手にきついウイスキーのグラスを握りしめ、山口は酔った投げやりな視線を向けた。サングラスは外していた。店のママが二言三言、何か彼に話しかけているようだった。

「帰ろう、賢一郎。迎えに来たんだ…、なあ、帰ろう」

「……美津保さんは」

「ああ、もう、いいんだ。なにもかも終わったよ」

「…そうか」

 うつむきがちに答える山口の屑を掴んで、雅之はかすれる声でいった。

「帰ってくれるだろう」

「……」

「美津保とは別れられたさ。でも、お前とは、別れられない…。お前なしでは、俺、やっていけない。…本当だ。それだけが、真実なんだ」

 心が、雅之を叫ばせていた。山口は、おのれに迫る雅之の、真剣な瞳を潤ませて伝う涙の美しさに、引き込まれるように見とれた。

「…ああ、わかった。帰るよ…。俺のいる場所は、今となってはもうお前のところしかないからな…」

「賢一郎」

 雅之が、胸にしみいるような泣き笑いを見せ、立ち上がった。

「ママさん、清算してください」

 雅之の言葉に、カウンターの中のママは、彼の方を見た。

「はい…。あんたが、いつも山口ちゃんを待たしてる人やね」

「えっ……、ああそうです」

「本当に、いい男ねえ…。こんないい男待ってたなんて、山口さんが羨ましいわよ」

 笑いながら、ママは言った。その言葉には、どことなく切ない響きがあった。

「ママ」

「…また、たまには来てよね、山口ちゃん、いえ、賢一郎さん」

「賢一郎、立てるか。あ−あ、こんなに酔って」

「ばぁか、俺は酔ってなんかいないよ」

「ちえっ」

「まあまあ、やだねぇ」

そしてママは二人を、戸口のところまで見送った。

 

車の流れの中を縫って、黒のリムジンが走る。山口は何も言わず、雅之も何も聞かず、ただ二人きりで車の中にした。

しばらくすると、山口の規則正しい寝息が聞こえ、彼の頭がそっと、雅之の肩先にもたれかかって来た。

「賢一郎…、お前本当に酒に弱いやつだなぁ…」

顔を赤くして熟睡している。彼は、どんな時よりも安らかな、若い顔をしていた。

‘あなたも山口も、ホモよ’

「ああ、そうだ…、美津保、まったくその通りだよ」

 だからといってどうなる訳じゃない、そうも思ったが、気持ちに偽りはなかった。

 雅之はリムジンの速度を落とし、頬を山口の髪に寄せて頬ずりをして、それからくすりと、いつものようにいたずらっぽく微笑み、そのまま車を走らせ続けた。

 

‘眩しい…’

昨日の朝と同じ、ボサノヴァの低い囁きで、雅之は目覚めた。けだるい歌の文句は、まるで自分の心そのままのような気がして、彼は目覚めの中で、歌にひたった。

身支度を整え、食堂のテーブルにつくと、いつもと同じ端の席で、山口がコーヒーを飲んでいた。

「賢一郎…、今日からは、ここへ来て座ってくれよ」

 雅之が、隣の席を指さした。山口は何も言わずに席をたち、隣へ移ってきた。

「またまた忙しい一日になりそうだな」

「ええ」

二人とも、昨夜がなかったかのように、自然に振る舞った。一瞬、互いの目を見つめて、何も見ないうちに、互いに逸らし合った。

「正江さん、今朝はトマトジュースで、ベーコンは二枚つけてください」

溢れる光の中、いつもと変わらぬ関家の朝が、過ぎていこうとしていた。

 

 

 

 君と歩く

  君と生きる

   君と夢を追って

   君と青春のただ中を走る

    川のように 風のように

     心は自然のさざめきの中に

けれど、ほんとうは恋

 私の真実は狂おしく溢れ ゆえ知らず戸惑う

  想いだけが立ちつくす

 

 

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