シルエットロマンス
総合商社プラタスコーポレーションの本社ビルは、イタリアの大理石で造られた、白亜のインテリジェントビルだ。
五月の朝、大理石造りのエレベーターホールで、たむろする人に紛れて立つライトグレーのスーツ姿の人影を見かけたとき、雪野俊之は、胸がどきりとしてたじろいだ。
”あの人は…”
瑞来邦彦。本社全体で”麗しの君”のあだ名を轟かせている、人離れした美貌の持主。
彼を見るのは、四月の入社式以来のことだった。
表情を作らない端正な顔が、研きあげられたエレベーターのドアに映っている。
”麗しの君、なあ”
雪野は内心ため息をついて、さりげない風をよそおいつつ、ドアに映る彼の姿に見とれた。同じ部の先輩だが、入社して以来一月あまり、未だに口をきく機会さえない。
雪野がじっと見ているのに気づいたのか、瑞来邦彦はふっと、顔を振り向けた。雪野はあわててちょっと頭を下げた。邦彦はわずかに微笑み、会釈した。
舞い上がりそうな心地がした。
雪野俊之は、今年、入社したばかりのフレッュマンだ。その雪野たち新人を、入社式の後、出迎え引率してくれたのが、瑞来邦彦だった。
「システム企画部に配属になった皆さんは、集まってください」
若い男性の声が呼び、新人たちは声の方へ向いた。
「うわあ、なんてきれいな人」
「ほんとー、美人ね、彼」
同期入社の女子たちが、小声でざわめく。
失礼だな、などと思いながらもそこは好奇心あふれる若さで、新人の列の後の方に控えていた雪野俊之は、ひときわ大柄な背をのばすようにして引率の彼をのぞき込んだ。
彼は、25、6といった年配で、天空から舞い降りた天使のような、繊細で美しい容姿をしていた。
”へーっ、これじゃ、騒ぐよなぁ”
美貌の主はざわめく女の子たちを優しくいなすようにほほえみ、彫刻のように整った顔を横に振り、そっと唇に白くて長い指を当てていた。
「す、すみません」
言葉を失い、彼女らは頬をそめて黙った。
”うわっ”
一瞬、雪野は彼の黒目がちの目と、まともに目があってしまった。
彼はほんのしばらくじっと雪野を見て、気に止める風もなく、引率の旨を告げるとさっさと歩き始める。
雪野は、立ち止まってしまっていた。ずきん、と胸が痛かった。
”なんていう、目をしているんだろう”
遅れがちに列のしんがりをついていきながら、雪野は思った。
目に飛び込んだ並はずれた美貌の主は、春の花のように微笑みながら、その目だけが笑みを忘れたように冷たい虚無的な色をたたえ、相容れることを拒絶している。
”あれは孤独な目だ。俺たちは、拒まれているんだ”
少し腹立たしく、それでいて胸を刺すように心惹かれ、気持ちが吸い寄せられるように、美貌の主を追う。
「遅れないように、皆でエレベーターで移動します」
声も、凛として涼しげだった。
雪野は猛然と、彼に興味をもった。
それぞれの部署に別れる前に、とっさに雪野は、彼の胸のネームを見た。
『システム企画部 係長 瑞来邦彦』
雪野はその名を胸に刻んだ。
配属になったシステム企画部は、取引先にあわせた様々なコンピュータシステムを、商品として企画開発し、売り込むという仕事をしており、部の構成は大規模で、本社ビルの三フロアーを占めている。
雪野はその美貌の主とは、階の違う、遠く離れた外交のポジションに配属になった。けれど、配属後すぐに、雪野はいろいろと彼について聞くことになった。
瑞来邦彦が、美貌よりも天才的な才能を以て認められ、事実上この部の商品開発の中枢にいる人物だということや、人づきあいを好まないこと、天涯孤独の身のうえなこと。
”あの、目”
あからさまに凍てついていた、黒曜石の瞳が、印象的だった。
雪野は忘れられそうになかった。
いつか瑞来邦彦と、親しくなりたいと、思った。
エレベーターから降りてきた雪野俊之が、あまりに浮かれているので、同僚たちは、怪訝な顔をしていた。
「いいことが、あったんです、とってもね」
今にも、歌って踊りそうな雪野の様子に半ば呆れつつ、回りの同僚もつられて微笑んでいた。
”確か今年の新人の…”
瑞来邦彦は、エレベーターのなかで、雪野の背中をみながら、ふと入社式の時のことを思い出していた。
「瑞来くん、ご苦労様でした」
総務担当課長にねぎらわれて、瑞来邦彦は軽く頭を下げた。
「どうですか、今年の新人たちは」
聞かれて、どうという感想もない邦彦は、あいまいな返答をした。
「工学博士の新人もいたんだよ、ほら雪野君て、背の高い」
「はあ」
そんなことを言われても、自分のチームにまわして貰えるわけではないのにと、邦彦はシニカルな気分になった。
新人はいつでも、きょときょととして、邦彦のことはしげしげと見る。毎年あまりに決まり切った反応なので、すっかり慣れっこになってしまっている。
そもそも邦彦は、毎年新人に彼のことをしつこく聞かれて困る上司たちの、それならいっそのことはじめに顔見せさせようという魂胆が理由で、毎年この役目を押しつけられているのだ。
”それにしても今年のやつは、しげしげと見たなあ、俺の顔”
背の高い、件の工学博士だ。やけに優しい目をしていたような気がしたが、邦彦はもうその新人の顔を忘れかけていた。
”所詮、俺には関係ない”
瑞来邦彦は自席に戻っていった。彼にとっては毎年の他愛無い出来事にすぎなかった。
雪野は、新人ながらもめきめきと頭角を表し、取引先に好かれるフレッシュ外交員として名を売った。そして、背の高い男前ぶりが、全フロアーの女性たちの熱い視線の的となり、それは噂として瑞来邦彦の耳にも届いた。
こうして後ろから見ると、雪野の背中は大きくて、逞しかった。もしかしたら自分の直属の部下になったかもしれない背中なのだ。そう考えると、なんとなく惜しかったと思う邦彦だった。
けれど結局彼は無表情のままエレベーターから降りる雪野を見送った。
秋。九月の半ばだった。
瑞来邦彦は、例年のことながら気の進まぬままに、部内慰安旅行に参加していた。
”宴会は、苦痛だ。仕事だと割り切らないと参加できない”
邦彦はため息をついた。これに参加するために、自分のみならず外注のシステム会社の若手にもだいぶん負担をかけてしまったのだ。
理不尽な、と思う。そんな本音がありありと顔に書かれているのだろう。本来ならばセクションを超えて大いに交流する場であるにもかかわらず、だれも邦彦に近付くものはない。
隣に座った古参の外交員に、お義理程度に言葉をかわし、あとはひとり黙々と、見かけ倒しの旅館料理を食べるふりをしていた。
「係長、瑞来係長」
子犬のようにきゃんきゃらとけたたましい高千穂裕美が、宴たけなわの喧騒のなかで超然としていた瑞来の浴衣の袖をひっぱって呼んだ。
「なんだい」
頬を赤く染めた風呂上がりの浴衣姿から、甘い匂いがする。綿菓子のような印象の小柄な彼女は、いつもとても元気だ。
瑞来邦彦は、どうもこの高千穂という部下には弱かった。たじたじとなりながらも応えてやる。
「やーだ、なんだい、なんてぇぇ。係長、ぽつんとしてるんだもん。噂のニューフェイス連れてきてあげたのにぃ」
見ると、彼女のうしろに、浴衣もどてらも窮屈そうな、大柄な若い男がぼうようと佇んでいる。今年、新人で部に配属になった男子十四人のなかで、ぴかいちと評判のヤツだった。
「雪野俊之さんです。こちら、私の上司の瑞来係長さん、係長、下の名前は邦彦だったですよねー。ユキちゃんはもうとっくに知ってるんでしょ」
「は、はあ」
「はあ、じゃないわよ。ねえ、係長、雪野さんてばねえ、私がアタックしちゃおうとはなしかけたら、一番に係長のこと聞いちゃったりしたんですよぅ。怪しいんだなぁぁ」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと高千穂先輩っっ」
「んでぇ、話すると必ず係長のことになるんですぅ。もぉ、ホントあんまり熱心だから、私、くやしいけどぉ、ユキちゃん諦めちゃって、係長に紹介斡旋することにしましたぁ。ほら、ユキちゃん、ごあいさつしなきゃ」
「よ、よろしくお願いします」
「は、はい、こちらこそ」
「きゃーん、ぎこちないご挨拶ぅ」
舌ったらずの高千穂裕美は、大胆不敵にきゃっきゃっ笑いながら実に悪気なく軽快に喋りまくり、その場を仕切っておいて、別のところからお呼びがかかると、ぼうぜんとしたまま当惑する二人をとり残して、さっていった。
「き、君すまない。彼女、僕の部下なんだ」
「いえ、いいえ」
「元気ないい子なんだけどね、高千穂くんも。ああ見えても仕事は切れるんだよ。けど、なんか誤解してるな」
「は、はあ」
「ま、いいか。君とはフロアも担当も違うし、二百五十人も部内にいるんだから、こんな風に挨拶するのも何かの縁でしょう。今年の新人はみんな元気がいいね。雪野くん、だっけ。一度エレベーターで一緒になったよね。君の噂、ちらほら聞いています。院卒は君ひとりなんだって。システム工学専攻とか。渉外班ならいずれ君のお世話になることもあるかもしれませんね」
「よく、そんなにご存じなんですか、僕のこと。なんか、嬉しいなあ」
雪野にそう言われて、はっと邦彦は我に返った。そういえば、そうだと思い、少なからず内心動揺した。
「まだまだおこがましいですけど、何でも言い付けてください。でも、僕が瑞来さんのこと色々聞いていたりしたのは本当ですよ。母校の先輩で、飛び抜けて有能だって、聞きましたし」
「ああ、そんなこと」
「それに何より、僕は瑞来さんのこと一目見て、綺麗だと思ったから」
「えっ」
思わず、邦彦は顔をあげて、雪野を見た。雪野はわるびれもせず、にこにこ笑っていた。
「おいおい、冗談きついなぁ」
「ホントですよ。言われませんか」
笑顔に混じらせるようにして、雪野は軽くそういった。すなおな言葉だったが、邦彦は容姿を誉められるのは、嫌いだった。
「ストレートだね、君」
少しばかり冷淡になって、邦彦は応戦した。
「ははは。僕ら入社式のあと、迎えにきてくださったでしょう。あの時から、ずっとそう感じています」
雪野は笑った。落着き払っていた。こうも堂々とされると、失礼な、と無視することも出来ない。邦彦は開いた口がふさがらなかった。
「あ、そうだ。もうすぐ、僕たち新人の出しものがありますから、見てくださいね。男ばかりでフラダンス、やります」
何気なく、徳利と杯を手にして、雪野はいい、邦彦の手に杯をにぎらせると、酌をした。
「俺は、酒は嗜まないよ。それに、出しもので悪酔いしそうだ」
「そう固いこと言わないで、ご挨拶代わりです。返杯もお受けしますし、舞台から目の醒めるような投げキッスしちゃいますから」
相変わらずソフトな笑顔で言う。
「!?」
瑞来邦彦はいつになく相手のペースにはめられるのを感じながら、ついあおるように杯を乾した。
たちまちカーっと、頬が赤くなるのが分かる。
あいかわらず雪野はにこにこしていた。”いまいましいヤツだ”思いながら邦彦は、やけになって、返杯の盃になみなみとこぼれそうなほど酒を注いだ。
「君、あの瑞来くんと楽しそうに喋っていたね」
二次会のカラオケバーで、直属の上司の杉山課長が、いう。
「ええ、そうですか」
「あの気難しい男と、よくもまああんなに打ち解けて話せるもんだと思って」
「気難しい、ですか」
「ま、正確に言えば気詰まりなんだけれどね。僕らなんかだとね、世間話じゃあ会話が弾まないって言うか、何というか…。のみで彫ったような綺麗な顔ですっと見透かされると、じーんと底冷えがするんだよなあ」
「ふーん。僕にはそうは見えませんでした」
「君は気さくだし、年下だから、瑞来くんも打ち解けやすいんだろうよ。善意に解釈すれば、気持ちを表すことについて不器用なのかもしれんね、彼は」
杉山課長はにっこり笑った。雪野は思わずつられて照れ笑いをしてしまっていた。
「仕事に関しては、瑞来くんは天才的でね、言うことも冴えてて面白いんだけどねえ。あの若さで係長であるだけでなく、システム開発班を任されて、あそこの部門は今じゃあの人ひとりで持たせてるって噂もあるぐらいだからね。ああ、そういや雪野くんなんか、大学の学部からいえば、本当はあすこの仕事のほうが向くのかも知れないなあ」
「はあ、それはまあ」
「おっとと、こりゃ失言。駄目だ駄目だ。君は大切なうちの戦力だからね。とられてたまるかってんだ」
「はあ」
雪野は、気のない返事をした。
そんな提案でも持ちあがっているのか、と思いつつ。
確かに、専攻した課程からいけば、そうなるのだが、雪野にはそんなつもりはさらさら無かった。
だが、あの綺麗な瑞来邦彦の部下になるのも悪くはないとは、思う。
”あの人が、気になるんだよな、何となく、俺”
雪野はちょっと困ったように頭を掻いた。
十日ほど過ぎ、部内に慰安旅行の写真が回り、瑞来邦彦はガーンといっぱつ食らったような気分で、目がくらくらしてしまった。
”酔うとどうも記憶がさだかでなくなる…のだか、よもやこんな、ああっ”
濃厚なケバい化粧をしたムームー姿の雪野と、からまりあって抱き合いピースサインしている自分の姿が、バッチリ部内回覧されてしまったからだ。
「…………」
斜め向こうの高千穂裕美が、ニマーッと笑っているのが見える。
”あいつかぁ。あの写真まわしたの”
当惑しつつも邦彦はテレ隠しに、気を引きしめて無表情を作った。
その写真は、部内全体に回覧され、おとなしい瑞来邦彦にしては珍しいと噂のタネになった。
それからというもの、邦彦は、朝、やけに雪野俊之と一緒の地下鉄になる機会が増えた。
「おはようございます、瑞来さん」
さわやかに歯切れのいい挨拶をして、邦彦の歩調に合わせて歩く。拒絶する理由もないからと思い、好きなようにさせておいたが、意外とおしゃべりではなく、邪魔にならなかった。知らないうちに、毎朝彼と出社するのが当り前になっていた。
突然の雨の日などは、雪野は大きな黒い傘に邦彦をいれてくれて、自分はだまって肩を半分濡らしていた。
そんなことがしばらく続くと、部内ではすっかり邦彦と雪野は仲がいいということになっていた。
「人事報みたか、瑞来ちゃん」
十一月のある朝、隣りの班の浦安係長が、声をかけてきた。大がかりな人事異動の発表があったらしい。
「君のとこ、欠員補充で雪野がくるぞ。渉外班のチーフが怒ってたからなぁ、一番出来るヤツ盗られたって」
「雪野くんが、ですか」
「ああ、あの背の高い院卒の新人、君の仲良しの工学博士よ。逸材だと、評判の。ウチの班の女子連中なんか、もうキャーキャーいってるさ。まったく男前だとすぐ色気づきやがる」
ため息混じりの苦笑を洩らして、浦安係長は肩をすくめた。
背の高い男前の、工学博士の新人、雪野俊之。ただそれだけの存在だったのに、知らないうちにどんどん距離が近くなる気がする。
「まあ、スタッフが足りませんから、うちとしてはありがたいです」
なるだけシリアスに響くように答えて、邦彦はポーカーフェイスを保った。
”雪野がくるのが…、あの雪野が”
がしかし、内心は、少しだけ動悸がはやくなるのを止められない。
邦彦は仄かに顔を赤くし、そして初めて知るそんな自分に、うろたえていた。
「瑞来さん、みなさん、どうぞよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ」
爽やかな印象があふれんばかりの、雪野の挨拶だった。
雪野は着るものにこだわらないタイプで、入社祝いに親に買って貰ったという地味なスーツばかりのセレクションを着ている。それでも立っている姿は、すらりと上背があってかっこよく、女の子たちの目が吸い寄せられている。
「嬉しいなぁ、ユキちゃんとお仕事一緒になってぇー。ハンサムなんだもーーん、君っ。目の保養目の保養」
高千穂裕美が、にこーっとしながら言った。
「た、高千穂先輩、お手柔らかにお願いします」
「んな、なーんちゃってえ、ユキちゃんこそ、お手柔らかにたのむわよ」
二人の、おどけたやりとりに、まわりの雰囲気がいっそうなごやかになった。
「高千穂さん、遠慮はいらないからぴっちり教えて下さい。雪野君は早くここに慣れるよう頑張って欲しいです」
邦彦がいった。周囲の部下たちは、珍しく瑞来係長が柔らかく笑っているのを見た。この人事を結構喜んでいるのだ、と皆は理解して、共感を持った。
こうして、雪野俊之は瑞来邦彦の部下になった。
雪野は、あっという間に班にも、仕事にも馴染んだ。
それまで、邦彦が一人で采配しチェックをしていた仕事を、雪野は一度の説明でほぼ理解して的確なフォローで、邦彦を救けてくれた。二三日もすると、昔からいたような錯覚を覚えるほど、自然に分担して仕事をするようになった。
「さすがは工学博士だねぇ」
まわりの人間の、やっかみ半分の誉め言葉に、「いやぁ、そんなことないですよ」などと微笑んで答える雪野の新人離れした余裕に、老けてる、だとか、食えない奴だ、とか思いつつ、邦彦は内心舌を巻いていた。
「なんでも言いつけてください、瑞来さん」
雪野は、口癖のように言う。システムの構想を抱え、思索に集中しているときのそっとしてほしい不機嫌な邦彦を、優しく辛抱強くあしらう雪野に、回りからは早くも瑞来係長の懐刀という、評判をいただいた。
そんな調子で、邦彦は、気が付けば雪野と四六時中一緒にいた。
同僚から聴かされるつまらない日常会話が煩わしくて、昼食も夕食も一人で社員食堂にいっていたのに、雪野は当然のようについてきて、彼がきてからは一人だった試しがない。
雪野の話題だってつまらない日常会話だったのに、ちっとも厭だとは思わなかった。彼の話には陰湿さが無くて、たとえ愚痴をいっていても、言っている相手をどこかで許しているのだ、と感じさせられる語り口をしていた。
けれんみがなく、いかにも営業マンとして活躍しそうな男だった。
”これは、むこうで相当悔しがっているだろうなぁ”
邦彦は思った。
正直な彼は良くしゃべり、良く笑い、よく食べた。
「瑞来さんて、少食なんですか」
あまり箸の進まない邦彦のランチを見て、雪野は言う。
「いや、そうでもないんだけどね」
君につい見とれていました、とは、どう逆立ちしても言えそうにない邦彦は言いよどんだ。
「あ、唐揚げ、好きでしたよね。食べませんか」
自分の皿にある唐揚げを、さっと邦彦の手元によこすと、にっこりと笑った。
邦彦は、恥ずかしさと当惑で、こくりと頷くと素直にそれを食べた。
自分が変わってゆく。そんな自覚が芽生えた。
雪野に縋っている、そうも思った。
なさけなくもあったが、厭ではなかった。
上司のみならず、雪野が来るまではどちらかというと遠慮がちに邦彦に従っていたOLたちまでもが、少し打ち解けて邦彦に接するようになった。
「瑞来係長、あかるくなったわね」
「そうね、雪野さんといいコンビじゃん」
陰ではそんな評価さえ飛びかった。
マンションと言うのもおこがましい、白亜の億ションにひとり、邦彦は住んでいる。十五で家族を失って以来の一人暮らしだった。
その、まるでインテリアの輸入雑誌にしか出てきそうにない広い総フローリング仕上げの3LDKは、冷たいほど完璧にコーディネイトされていた。
「ふう」
ため息が出る。水盤の胡蝶蘭が、揺れる。黒大理石の時計が、冷たい音で時を刻む。
邦彦はベッドからでて、バカラのグラスに氷とミネラルウォーターを注いで、一気に飲みほした。
最高の調度に囲まれた、華麗な部屋。ペシャワールシルクの絨毯、アールデコで統一された、黒い家具たち。水盤に好きな白い胡蝶蘭やカトレアを溢れるほど生けて、シンメトリーに配された白いアラパスターのスフィンクスは、死んだ父親がイギリスの貴族から買いとって自慢にしていた、本物の古美術品だった。
何もかもがひんやりとしなやかな肌触りで心地よい。休日ともなると、一日の殆どをここで過ごす。
父が遺した、美しい部屋。
ここは亡き父が書斎として使っていた別宅の一つだった。
一人になって、広すぎる屋敷を手放し、前々から好きだったここに住むことにした。以来ずっとここが、邦彦の心安らぐ空間であり続けてきたはずだった。
それなのに、ここしばらく安らぐことができなくて、毎夜訳もなく夜明け前に目を覚まし、ふと気づくと雪野のことを考えている。
”いつか”とか、”いずれは”とか、そういう言葉が、独りの時の瑞来邦彦の口癖だった。二十七歳になる今日まで、運命の訪れを待ってはいても、運命の扉をこじあけようとは思ったことがなかった。
いつも独り。誰かの存在がこんなにも気になったことはない。
あの夜。
父と母と妹が、車と一緒に炎上したあの夜。
地上げ屋としても株の投機家としても名高かった邦彦の父は、人の恨みを買い、車に爆弾を仕掛けられたのだ。
邦彦の高校合格祝いにと、一流フランス料理の店へ社用のリムジンで家族そろって出かけた。一足先に車から降りていた邦彦は、突然の爆風に少し飛ばされただけで難事は免れたが、家族が車ごと燃えてゆく様を見てしまった。
叫ぶことも出来ずに、周りの大人に抱き留められて、気を失うまで。
そして、その後に待っていたのは、孤独。家族を慕い見る夢は、いつも燃えてゆく車の光景でとぎれた。夜半、自分の叫びで目覚め、泣き、その果てに知ったのは痛覚を見失うほどの孤独だった。
父がのこした、巨額の遺産がもたらしたものは、果てしなく現れる親戚の山と、猜疑心だけだった。自分が子供であることが酷く口惜しく、近づく人間をだれも信じられなくなった。ことに、爆弾を仕掛けた犯人が、父の友達の一人だったと知ってからは、学校の友達も信じられなくなってしまった。
邦彦には、その繊細な容姿のゆえに、自分は外見だけで人に好かれるのだという根強い不信感があり、もともと他人とあまりうまくつき合えなかった。
だからきっと、幾人か、そんな邦彦に心から手を差し伸べてくれたのだろう人々の親切も、無にした。
顧問弁護士のビジネスライクさが気に入り、彼の助けを借りて、高校も、大学も、就職も一人でのりきってここまできたけれど、いつのまにか、気がつけば深く人と付き合えなくなっていた。
気さくに会うような友達も、恋人も、なかった。
「いいさ、一人の方が気が休まるから」
邦彦は、心からそう納得していた。
けれど、両親や妹が生きていた頃のことは、努めて思い出さないようにしていた。その頃の自分は、思い出したくなかった。
”お兄さま、ふがいないのね”
気の強かった妹の尊子が生きていたら、そういって揶揄しそうな気がした。
「雪野、俊之、か」
ひんやりと身体を包むシルクのシーツに顔を押しつけて、今夜何回目かの、つぶやきを繰り返していた。
時は、邦彦の思いには関係なく慌ただしく過ぎて行く。
進行中のプロジェクトの完成予定が近づき、納期も迫り、瑞来の班は手懸けたシステムの最終チェックに大わらわの毎日だった。
深夜までの残業はおろか、会社に泊まり込む日々が続いた。大きな責任を担っている瑞来にとっては、システムセンターとの打ち合わせと監修に追われ、緊張の連続だった。
「いいんです。僕はここの若手ナンバーワンなんですから」
雪野はそう言って、毎日最後の最後まで付き合ってくれた。彼は日頃になく静かになり、邦彦の横で黙々と仕事と取り組んでいた。
もうこの頃には、雪野は邦彦の仕事上欠かせない片腕的位置にあった。
「早く帰りたいときは、そうしてくれ」
言いながらも、いつも傍らにいて夜の心細さを埋めてくれる雪野の存在を、心強く思った。
みぞれ模様の、夜だった。遅れながらもどうにか完成直前にこぎつけたシステムの統合テストが、えんえんとホストコンピューターを動かして続けられていた。
取引先への納期は、延長を重ねた末に、もういくらも残っていなかった。だから、概ね良好な進行状況に、関係者全員が安堵した。
いったん帰宅した邦彦が、本社からの呼び出しを受けたのは、午前一時を回ってからだった。
システムが暴走した、という連絡だった。
深刻な事態になっているらしい。詳しいことはのちほど、と言って切れた電話が耳に残って、握り締めた掌が、白蝋のように冷たくなるのを感じた。
きりきりと締め上げるような不安を胸に渦巻かせたまま、邦彦はタクシーを飛ばして出社した。
「瑞来さん、早く」
本社システムセンターの通用門のところに、立っている雪野の姿を見つけた。寝乱れた髪がぼさぼさになって、あわてて飛んできたことを語っていた。
「なんで君がここに」
「僕にも、連絡が回ったんです。僕のとこの方がずっとここから近かったし」
「そうだったのか」
「各セクションの担当者にも連絡をしておきました。みんなじきに来ます」
「ああ」
「とりあえずいきましょう」
「ああ、ありがとう」
邦彦は、雪野に背中を押されるようにして、コンピュータールームに向かった。
夜間担当のシステム課員に、説明を受けた。個別の作業までは順調だったのだと。統合して最終部分へ持ち込むときに、システムが暴走したという報告だった。情けなさのあまり、瑞来邦彦は床に膝をついた。
「こ、ここまできて、ここまで…きて」
邦彦はうめき、我知らず傍らの雪野にすがりついた。
「駄目だ、雪野、もう駄目だ」
不覚にも、がたがた体が震え、知らないうちに涙が零れ落ちた。
「瑞来さん」
「雪野、雪野、もうおしまいだ」
優しく背を撫でる雪野の胸に顔を埋めて、邦彦はただ震え続けた。
「取り乱さないで、落ち着いて。瑞来さん、疲れているんですよね、だから悲観的になってる。でも、なんとかなります、あきらめないで」
強い意志のみなぎる声で、雪野が囁いた。
「雪野」
「僕がついてますから」
「雪野」
「顔をあげて、さ、一刻も早く取り組みましょうよ」
大会議室に二人で必死になって膨大な量の運行ログとプログラムチェックリストを運び、邦彦の見立てにしたがって、システム設計書に基づき、セクションを区切って机一面に並べた。
そのころには、他の担当者も到着し始めた。
雪野はネクタイを抜き取り、それを額に縛って担当ブロックのチェックを始めた。
午前二時をまわっていた。
邦彦も他の担当者たちも、必死になってチェックに没頭した。ぱさぱさと、紙をめくる音だけが、しんとした空間に響きわたる。
皆終始無言で、チェックしながらいくつかの付箋をたてた。
三時になっても、四時になっても、作業は終わらなかった。
気味悪いほどの静寂の中で、時間だけが過ぎて行く。不意に邦彦が声を挙げ、決定的な問題箇所を拾いあげた。
「ここだ、これだ、山下くん、君のところのB33の設計書と単体テストのログを持ってきて下さい。そう、そこだ、それが原因で…」
すうっと気力が緩み、邦彦は資料を手にしたままバランスを崩してよろめいた。とっさに雪野が広げた腕が、そんな彼をすっぽりと支えた。
「あぶない、あぶない」
邦彦は立ちくらんで、雪野の腕の中で身動き一つ出来ずにいた。
「瑞来さん、あっちで少し休んだ方がいいです。山下さん、解析つづけてお願いします。瑞来さん、ほら、大丈夫ですか」
雪野は、足下のおぼつかない邦彦を支えて、隣にある打ち合わせ用の小会議室のソファーに寝かせた。
「雪野、見つかったみたいだ…」
邦彦が、子供のような顔で笑った。
「良かったですね」
「ああ、嬉しいよ、俺」
「僕もです」
邦彦を優しい目線で包み込んだまま、雪野は微笑んだ。
「正直なところ、僕はね、研究者になりたかったんですよ。大学に、残りたかったんです。でも、夢は果たせなかった」
雪野が不意に淡々と告白した。
「僕、大学の内部の、自分の主任教授たちの権力闘争をつぶさに見て、嫌になってしまったんです」
「それで、博士号をもちながら、一般企業に来たのか」
「ええ、研究室を蹴ったはぐれものの僕には、教授の推薦状なんか出なかったです」
「そう」
「会社勤めに博士号なんて無意味だとシラけたふりして、この資格を生かそうともしなかったけれど、今、今日この時、本当に良かったと、瑞来さんのために力になれて良かったと思います、この資格のお陰で側にいられて良かったと思います」
「雪野」
「いじけてたんです、僕は。恥ずかしいけれど。一途に打ち込んでいる瑞来さんを見て、僕もそうなりたいと思った。だから、感謝してます」
雪野は、笑ってそういった。清々しい眩しい笑顔だった。
夜明けが、近かった。
午前五時前には、担当者総掛かりで主要な部分のチェックを終えて、問題の発生原因と関連の修正箇所をだいたい整理し終えた。
「ふうー」
雪野は、額からネクタイをはずすと、くるくると丸めてカッターの胸ポケットに押し込んだ。
「あとは、外注にも入って貰って再チェックするとして、これで取りあえずメインの部分をなんとかできるよ」
「本当に良かったですね」
雪野が、微笑う。その顔をじっと見つめて、邦彦はもじもじとしながら言った。
「…あ、あの、雪野、本当にありがとう。感謝してる、俺ひとりではどうしようもなかった」
雪野は邦彦の言葉を聞いて、すっと目を細め、邦彦の横により、その肩に腕を回して、素早く耳元で囁いた。その言葉を聞いた途端、邦彦はかぁっと顔を赤くして飛び退いた。
「あ、手を洗ってくるよ」
言い残すと邦彦は、駆け出して手を洗いにいった。
鏡のなかの自分の顔は疲れきってはいたが、邦彦は自分でも意外なくらいしっかりした気分だった。
しかし、それは多分にさっきの雪野の囁きのせいかもしれない。
”瑞来さんのためなら、なんだってするつもりです。でも、瑞来さんが答えてくれなかったら、…それも意味がない”
雪野の言葉が、甘酸っぱく思い出されて胸に広がり、鼓動にあわせて響きあう。冗談ごかしの雪野の、やけに真剣だった目。
徹夜明けの朝日のなかで、そっと肩に回された手が、いつまでもその感触をのこしていったのは、疲れのせいではないのだろう。
手洗いから戻ると、雪野がすっかり格好を整えて、待っていた。
「ちょっと眠いけど、朝メシ食いにいきませんか」
快活に雪野が言った。邦彦はうなづき、二人で地下の喫茶店へ出向いた。
仕事で、郊外にあるシステムセンターを訪ねた日の帰りに、瑞来邦彦はこないだのお礼にと、雪野を自宅に招待した。
「人を招くことには慣れてないし、男の一人暮しだから、たいしたことは期待しないでくれ」
と、邦彦は言ったが、だいたい彼の自宅に招かれること自体が”たいしたこと”だということは、回りに言われるまでもなく雪野は知っていた。
ここだと言われて、雪野は、マンションのあまりの豪華さに、驚いた。
「うわー、すごいとこに住んでるんですねー」
「そうかな」
「僕のとことえらい違いだなあ」
きょろきょろしながら招き入れられるままに入り、ダイニングの椅子に腰掛ける。
眼が慣れると、雪野はすぐに違和感に襲われた。ここは、本当に美しい住居だけれど、あまりにも冷たく整いすぎていて、人が住んでいるという感じではなかった。
”デパートのショールームみたいだな”
そう思った。不思議なぐらい生活感に欠けた、瑞来邦彦に似合いの部屋だった。
黒いテーブルには、白い蘭がいけられた水盤が置かれ、無造作にエアメールが放置されていた。
それは粗末な便箋につたない英語でしたためてあり、手紙の余白には、いかにも素朴な挿し絵が書き加えられてあった。
「瑞来さん、外国に親戚でもいるんですか」
「ああ、それか。それはチャクチャイくんだよ。タイの子供さ。足長おじさんしてるんだ、二十人ぐらいいるのかなあ。ときどきそうやって手紙をくれる。可愛いね」
邦彦は笑って答えた。
「そうですか、そんなことを」
「俺の父は、人に憎まれてまで財産をこしらえ、挙げ句の果てに殺されたんだ。俺は、出来るだけ有意義な形で世の中に返したかった…」
まっすぐな瞳に、優しい光が宿る。いつもの、虚無的な目とはだいぶん違う。
「家族も友達もないから、こんな風な形しか思いつかなかったけれど、いまでは反対に子供達の手紙に孤独を慰められることも、ある」
素直に、そっと呟く。
「僕は、瑞来さんは華やかな暮らしをしてると思ってた」
「多分いたって地味なほうだよ」
「瑞来さん」
「僕の楽しみなんて、こんなものさ。それさえ事実上、金で、買ってる」
綺麗で、切ない笑顔だった。
雪野は、強く邦彦を抱き締めたい心を、じっと耐えた。
「意識したことはないのだけど、俺、随分寂しい存在なのだそうだ。寒い暮らしだと、言われたことがあるよ」
ぽつんと、邦彦が言った。顔は優しげに笑っていた。
「そんなこと」
「人は、そんな風に思うらしい。確かに、少し人間恐怖症の自覚はあるけれど…」
笑顔のまま、うつむいてみせる。
「顧問弁護士に言われたんだ。なんせ、彼と親戚以外でここに来たのは、雪野が初めてなんだよ」
それは、瑞来さんが誘わないからじゃないですか、といいたかったが、言えなかった。邦彦は、雪野の内心の思いも知らず、さらりと言っておいて席を立ち、洋酒と、手作りらしい美しいつまみを出してきた。
素晴らしく美味なそれらをやりながら、雪野は邦彦が酔いにまかせて語った過去を、胸に刻んだ。
「でも俺は、けっこうここや、今の自分が気に入っている」
「いつもここに」
「ああ、休日は大概ね」
「どうやって過ごしているんです」
「仕事のこと、考えたり。手紙の返事、書いたり。家事も少しやるけれど、だいたい 独り気ままにやってるよ」
「瑞来さん」
「でも格別淋しいと思ったことがない、自分では」
きつめにこしらえた水割りを飲みながら、上目遣いに言う邦彦の、肌が桜色になって美貌がいやましていた。潤んだ目には、あの、雪野の胸にささった虚無的な蔭が浮かんでいた。
雪野は穴が開くほど瑞来邦彦を見つめた。
”よせ”
邦彦は吸い寄せられたように見つめ返しながら、雪野の言いようのない切なげな眼差しに、心のどこか深いところから、形容できない固まりがじわじわと沸き上がってくるのを感じていた。
「独りでいいんだ。独りに、慣れている…」
言いながら、なぜか声が震えた。
「瑞来さん」
雪野は切なくて、言わずにはいられなかった。
「また、呼んでください。いつでも呼んでください。それと、僕のところにも来てください。なにもないけれど、きっと来てください」
「ああ、きっとね」
邦彦が気恥ずかしげに答えた。
「正月、良かったら初詣に行きましょう」
「雪野」
「次のプロジェクトの成功祈願、しませんか」
「ああ、うん」
邦彦は、すっかり雪野に押し切られ、なすがままに頷いていた。
捕らわれてしまった。
雪野は、そう思った。自分は瑞来邦彦にすっかり捕らわれている、と。
学生時代からの彼女と正月を過ごす筈だった。知っていながら、邦彦と約束した。
ここのところほったらかしにしている彼女に、初詣に行けないと電話するとどうなるか、想像がつく。それでも、雪野は邦彦を選んだ。
「雪野くん、ちっとも遊んでくれないしー、あってもなんか上の空でしょ。その上この仕打ちだもん、会社で誰か出来たんじゃないの、いいけどさ。別れるし」
電話で、あっさりと引導わたされたが、雪野には罪悪感があり、引き留めることは出来なかった。
望まれてつき合い、熱い恋愛をした相手ではなかった。けれど、つきあっていたのだ。体の相性も悪くなかったし、彼女に罪はなかった。
「ごめん。好きな人が出来た。嘘をついて一緒にいることは出来ないから…」
「そう、やっぱりね」
最後の方は、電話の声も少し寂しそうだったけれど、穏やかに話は終わった。
雪野は、胸を満たすほろ苦さを噛みしめながらも、邦彦を思った。
大晦日。夜に待ち合わせて、一緒に年越しそばを食べた。
「こんなに、にぎわっているんだなぁ」
邦彦は、ウインドー越しに人の行き交う大晦日の夜の繁華街を、見ていた。
「ええ、そりゃもう、初詣の時はもっとですよ」
雪野は、邦彦の物珍しげな様子を目にして、鷹揚に微笑った。大柄な彼に、ウールの和服はとても良く映えていた。
邦彦も、雪野の提案どおり和服姿で来ていた。端整に着こなした姿は綺麗で、洋服の時よりも儚い印象を与えた。
「自分で着たんだが、けっこう難しかったよ。作ってから初めて袖を通したんだ。まずくないかな」
「いや、綺麗に着こなしてますよ、大丈夫」
「寒いか、と思った割には、そうでもないんだな」
「ええ、僕は着物が好きなんで、良く着てますけど、快適なんですよね」
「ほんとに、着てみるとわかるな」
何気なく話していると、除夜の鐘が鳴り始めた。雑踏の中を染みわたるように鳴り響く鐘を聴き、蕎麦屋の片隅で、ささやかに新年を祝った。
車を出すという雪野を気遣い、邦彦が電車にしようと言ってくれたお陰で、二人は年越しそばに屠蘇がわりの熱燗をつけて、体をほかほかさせて神社に参拝した。
「ほてってますねー」
参道の松明に照らされた雪野の横顔の頬のあたりが、上気しているのが解る。
「俺、酒に弱いんだ。でも、気分はいいよ」
「瑞来さん」
「独りでない正月なんて、本当に何年ぶりだろう。ありがとう、雪野」
大きな目で雪野を見つめて、邦彦は恥ずかしそうにふわりと笑った。雪野は、人目もはばからず抱きしめたいと思う気持ちを、ぐっとこらえた。
大鳥居を潜ると、人の波はたゆたうように溢れていた。雪野は、雑踏に紛れて、邦彦の手を握った。
「えっ、あ…」
「はぐれないように、手を繋ぎましょう」
白い手、邦彦のいかにも技術者な、繊細な小作りの白い手は、意外にも温かかった。
「雪野、お前って、手が冷たいんだな」
手を握られて、邦彦の体の火照りはいや増した。却ってひんやりとした雪野の手が、今は心地よかった。
「気持ちいいよ」
「僕は、瑞来さんが暖かくて、気持ちいいです」
境内の、参拝所まできて、二人は賽銭を投げ入れて、一心に手を合わせた。
新年早々立ち上がる、新たなプロジェクトの成功と、そして、傍らの人を失わずにいられるようにと、互いの胸の中だけで、祈願した。
「何を祈願しました」
「…プロジェクトだろ。それとあと一つ、だな」
「僕もです、瑞来さん」
「気が合うな」
「そうですね」
言いながら笑い、そこを後にした。
邦彦が子供のように、おみくじを引くというから、帰りの出口でおみくじを引いた。邦彦は末吉だ中吉だとはしゃいで、木にくくりつけた。
雪野は、会社での澄ました瑞来邦彦を知っているだけに、その幼い少年のような仕草に、可愛い人だなと改めてしみじみ思った。
昼頃、別れるときに、二日に映画に行こう、と誘った。
邦彦は嬉しそうにうなづいてくれた。
帰る道々、雪野は顔がにやけて仕方がなかった。
けれど、ふと雪野は、自分が瑞来邦彦相手にまるっきり恋人コースを驀進している事に気づき、独り赤面した。
二日の朝、彼女と出かけると思っている妹と親にからかわれながら、雪野は車を出した。マンション前で待っていた瑞来邦彦を乗せて、街へ出かけた。
男と、しかも会社の上司と待ち合わせているのだ、という自覚は普段着の邦彦を見たときに、吹っ飛んでいた。邦彦は、ごくありふれた服装だったが、美貌が若く際立っていた。雪野は、正直なところ胸がときめいてしまったのだった。
映画は、社会派アクションドラマという前評判だったが、けっこうヒューマンもので、泣かせる内容だった。殺された妻子の前で、主人公が復讐を誓う勇ましいシーンで、邦彦は泣いた。
邦彦は、雪野の横でぼろぼろ泣きながら、スクリーンを食い入るように見ていた。撫で付けていない、洗いざらしの髪を下ろして、ウールのアイビーシャツとスコットランド風のセーターにジーンズを着込んだ邦彦の横顔は、やっぱり美貌だったけれど、若くどころか幼くさえ見えた。
そして、小さくしゃくりながら涙を流しつづけるあまりに無防備な姿には、仕事場で見せる鋭利な姿は無く、あまつさえその涙のわけを聞いている雪野は、胸が痛んだ。邦彦のことをその年齢の男性とはとても思えなくて、保護欲と困惑がないまぜで募った。
「ハンカチ、どうぞ」
雪野がタイミングを見計らってそっとハンカチを差し出してやると、素直にうなづいて涙をぬぐった。
「俺、駄目なんだ、こういうの。涙が止まらなくて困るよ」
大きな濡れた目で言われて、雪野は絶句した。
「映画なのに、な」
小さく身震いして、照れて笑った顔が、本当に綺麗だった。
後で食事をしながら聞いたら、やはり他人と映画に行ったことはないのだ、と照れながら答えた。泣くと言う行為にあまりにてらいが無いことから、その答えを予測していた雪野は、なおいっそう瑞来邦彦に牽かれる自分を自覚してしまった。
…好きだ、俺。もう、どうしようもなく好きだ…
さりげなく笑いながら、胸の奥の咆哮を、雪野は抑えることで噛み締めていた。
年が明けて、初出の日に挨拶をしたとき、瑞来邦彦はいつもの硬質な美貌で部下を見渡した。雪野は型どおりの挨拶をしながらも、元旦の、そして二日の邦彦を思い出して、微笑を押さえられなかった。
「今日から新たなる企画のスタートです。皆さんと頑張りたいと思います」
取引先関係の年始まわりもそこそこに、邦彦は雪野らプロジェクトチームと早速新企画の業務プロセス分析に取り組み、順調なスタートを切った。
「係長、新年だから、元気ですね」
「そうかな」
私生活で笑うことの増えた瑞来邦彦は、その頃にはもう近寄り難いとは言われなくなっていた。
「雪野くん、ちょっと」
隣のセクションから、雪野に声がかかった。巨乳で評判の女主任が、赤いマニキュアの手をひらひらさせて、雪野を呼んでいた。
邦彦との会話を中断し、言われるまま廊下に出ると、邦彦を誘って飲みに行かないか、という打診だった。男性社員の間で評判のちょっと美人な二人組みのお誘いは、名誉なことだったが、邦彦の性格を考えて、今回は、とお断りした。
席に戻ると、邦彦が、少し表情を固くしていた。透明な美貌が固まっているのは、見てすぐわかった。
"…やべぇ"
雪野は思った。何か言い訳をする必要を感じた。ふと気づくと高千穂裕美が、もの言いたげに上目遣いで見ている。
「ユキちゃん、デートのお誘い?」
まぜっかえすように聞いた。
「飲みに行かないか、という話です。係長込みで、ですよ。どーせ俺は餌だからねっ、断ったですよ、俺」
「あ、そー。良かったなっ」
けろりとして、裕美は言った。
「何でですよおー、高千穂先輩」
「そりゃそーじゃん、ユキちゃんはあたしと飲みにいくのが先よねっ」
「あはははは…、光栄です」
二人の会話を聞いていた邦彦は、固い表情を解いて、くすりと微笑した。
雪野が呼ばれて廊下へ出ていったときに、ちくりと鋭く痛んだ胸を不思議に思ったが、笑ったら消えてしまった。
一月は、めまぐるしく過ぎていった。新規プロジェクトのクライアントである官庁との折衝もあり、邦彦のチームだけでなく担当の外交セクションまでもが、神経を尖らせて進行具合を注視していた。
そうこうするうちに迎えた二月十四日だった。
今年のバレンタインデーは、骨子のまとまったシステム設計書の暫定評定とプレゼンテーションのための会議で、朝から詰めていた。
邦彦は正直なところほっとしていた。この日は、毎年困りながら過ぎていく。それが瑞来邦彦の正直な感想だった。
義理で押し通せるチョコは貰いやすいけれど、妙に気持ちの篭もったものは、貰うつど対応に苦慮する。ことに容姿に牽かれたとしか思えない、別のセクションの名前もうろ覚えの女性から手作りのチョコを貰うことの多い邦彦は、この日が苦手だった。
”雪野”
今年はそのうえ、反対に、あげたいヤツがいるのだ。
現在の邦彦には、手作りのチョコを持ってくる女性の気持ちが理解できた。どんなにか、勇気と志が必要だろうかと。分かるとなお、苦しいと知りつつも共感していた。
会議を中断して、昼食のためにフロアに戻ったときも、雪野は給湯室の前で、すこし離れたセクションの新人の女の子から、チョコを貰っていたところだった。
「ありがとう」
と言っているらしい口元の優しさが、胸に波を立てる。
「あ、瑞来さん、昼飯ですよね、ちょっとまってくださいねっ」
邦彦が呼ぶ前に、目ざとく気づいた雪野は、笑って言った。
邦彦は、その笑顔に内心どきまぎしてしまって、軽い自己嫌悪に陥った。
社員食堂で定食を食べながら、少しばかり口数の少なめな邦彦を宥めるように、雪野はチョコレート、たくさん来ちゃいました、と困った顔で言った。
「そりゃ、雪野ならもてるだろう」
むくれたと分かる声で言うと、「瑞来さんのもですよ、預かってますからね、後で渡しますから」と、少し微笑う。
「なんだ、俺になのか」
つまらなさそうに言うと、雪野の笑顔は面白そうになった。
「貰いたくありませんか」
「ああ。話したこともない女性からのはね、特に」
「高千穂さん、会議終わるの待ってましたよ」
「…ふふ、テディベアだな。彼女がくれるのは、毎年テディベアのチョコだ」
「ひょっとして、お気に入り」
「彼女からなら、別にいいよ。あの子は、死んだ妹に少し似てるしね」
邦彦は、無防備な笑顔を見せた。
雪野が最近気づいた、雪野にしか見せない笑顔。
「雪野くん、食べてるとこごめんなさい。これあげるわ」
こないだ、雪野と邦彦のことを飲みに誘ったナイスバディの女主任が、やけにゴージャスな包みを雪野の前において、邦彦にウィンクをして嫣然と微笑んで去っていった。
自分には、手も足も出ない。
邦彦は彼女の残した豪華なペイズリー柄の包みを、意識せずにはおれなかった。
胸を満たす切なさのあまり、去って行く女主任を見送りつづけて、ごはんを取り落として雪野に肩を揺さぶられた。
“羨ましかったのだ…、俺は彼女が、羨ましかったのだ”
もうどうにも、自分に隠しようが無かった。
甘く、切なく、途方にくれて。傍らの雪野の笑顔をまぶしく思った。
そして邦彦は、会議に戻ってから終始無表情をくずそうとはしなかった。
「あーあ、こんなにいっぱい、どうしよう。ホワイトデーが大変だぁ」
とっぷり日もくれて、残業しながら雪野は、紙袋いっぱいのチョコレートをみて、ため息をついていた。
「瑞来さん、食いますか」
今日は、二人きりの残業になってしまった。
「バレンタインデーの夜だもんな。彼女いるやつは仕事どころじゃないか」
独り言を言いながら、適当な包みを裂いて、割った半分を瑞来邦彦に寄越した。
「俺はいいよ」
「まあ、そう言わないで。瑞来さんて、甘いの好きでしょ。腹の足しになりますよ」
「君が貰ったのに」
「義理チョコですから。そういえば瑞来さんも、沢山もらってましたっけ」
少し笑って、資料を見ながら、雪野はぽつりと言った。
「俺、本当に、好きな人からは貰うことないですから、この日は」
邦彦は驚いて、雪野を見た。彼は、食い入るように邦彦を見ていた。
「女性から男性へチョコ渡す、バレンタインデーなんて菓子屋の陰謀だよな」
溜息をつき、雪野は邦彦の方を向いた。
目が、あった。
雪野は切ない目をしていた。
…ずきん…!
胸に、灼きつくようにしみ入る、痛み。
「な、なんだよ」
「何でもないです」
言いつつも目を離そうとしない雪野から、邦彦は慌てて視線をそらすと、声を震わせながら、思い切っていった。
「そ、そんな顔するのはよせ。チョコでも何でもおごってやるから」
顔が、体が、紅潮するのが分かる。どぎまぎして、混乱している。
「ホントに!嬉しいなあ」
雪野が打って変ったようにはしゃぐ。
「じゃ、早いとこ仕事片付けてしまいましょう」
「ん…」
赤くなったまま、懸命に仕事する瑞来邦彦を見つめて、雪野は愛しいと感じていた。
結局、その夜は二人で居酒屋でしたたか飲んだ。
甘いムードには縁のない、薄汚い店だったが、料理も酒も美味くて、雪野にとっては最高の夜だった。
「ここで、まっててくれないか」
不意にためらいを振り切るような調子で、邦彦が言った。
仕立ての良い、綺麗なカシミアの黒いコート。シンプルなデザインと白いマフラーが、邦彦の美貌を引き立てて、雪のように鮮やかに人目を引いていた。
返事も聞かずに駆け出した華奢な瑞来邦彦の後ろ姿が、翻るように人並みを切って、深夜まで営業していた喫茶店のウィンドウに並べられたチョコレートを買ったとき、じっと見ていた雪野の胸に、何ともいいようのない熱い気持ちが、突き上げてきた。
「ほら、約束だから、買ってやったよ、チョコレートだ」
夜目にもわかるほど顔を赤くして、邦彦は雪野にチョコレートをつき出した。
「嬉しいなあ、瑞来さん」
「俺は、律儀なんだ」
まっすぐ雪野を見すえ、少し震えてさえいるらしい邦彦が、理性を失わせそうなくらい愛おしい。
「このお礼は必ずします」
そのまま抱き締めたいのをぎりぎりのところで踏みとどまって、雪野はとびきり気安い笑顔を作って、笑ってみせた。
そうしながら雪野はいつか邦彦に思いを打ち明ける決意を固めていた。
前を歩く雪野の背中は、相変わらず大きくて、広い。
瑞来邦彦にとっては、自分から誘いかけて飲みに行くのは、生まれて初めてだった。不思議と誰にも託すことの出来なかった安堵感を、彼との時に感じている。
時折振り向き、邦彦を気遣う、優しい笑顔。
雪野がいて良かったと思った。
心から楽しかった。
「瑞来くん、少し時間いいかな」
唐突に渉外セクションのチーフに呼びとめられて、雪野の転属を打診されたのは、二月も終わりのことだった。
まだ、彼を貰ってそう日はたっていないと思いますが、と撥ね付けると、まあまあいわくつきだから、と諭され、強引に席に着かされた。
雪野の前にいた部署の担当部長自らが出てきて、説明された内容によると、雪野のことを個人的にとても気に入っている大手企業との商品売込みで、数十億円規模の業務委託をめぐりライバル企業と拮抗しているのだという。
確実で、誠意のある仕事ぶりを相手方の統括責任者である専務取締役に絶賛されており、以前から担当を外れたことを惜しむ声を聞かされていたのだという。
邦彦は、渋る気持ちは理解できるが、ここはひとつ是非に頼むと言い募られた。期限つきで構わないから、とまで言われ、邦彦は進退窮まって承諾した。
「…雪野」
それから、共に仕事していても、食事をしていても、瑞来邦彦は胸が疼いてしかたなかった。何回も、邦彦は雪野に何か言ってやりたいと思い、そして事前の口外を許されない立場も手伝って出来ずに口篭もった。
「こんども、きっと良い仕上がりになりますよ、頑張ります」
穏やかに笑って、設計書と取り組む。邦彦の思い及ばないことを気づく、雪野。優しく、適切にフォローして、美しく使い良いシステムを皆で編み上げていく、喜び。それは、多分雪野が来て知った、雪野に、教えてもらった充実感だった。
だからいまは、雪野を見ていると、訳のわからない不安と、惜しむ気持ちで一杯になる。永遠の別れでもあるまいに、と自嘲しても、どうしようもなかった。
その人事報が出たのは、三月一日のことだった。
邦彦は、無表情で、人事報の前に立った。
「役に立ついい新人だったがねぇ」
「仕方ありません…」
邦彦は課長の慰めの言葉も無視し、美しい鉄仮面のような固い表情できびすを返すと、黙って席へ戻り、代替要員として配属された山内に、仕事について説明を始めた。
「それにしても、ひどすぎるわよぉ。まだ半年も経ってないのに」
高千穂裕美が、言う。周囲の皆も同じ思いだった。
当の雪野は、部長に伴われて外交の部門へ挨拶に出向き、離席している。青ざめた顔のまま、ことさら事務的に振舞おうとする瑞来邦彦を、誰もが痛ましげに見守った。
明くる日。
凍り付きそうな寒々とした雰囲気の中、邦彦のチームは仕事をした。
「係長、ここは」
「ああ、そこはスタッフに回しておいてくれ。設計セクションEの手直し部分と一緒に回付しておいてくれないか。高千穂君、ICR社よりの契約書、見直ししといてくれ」
「はい」
邦彦は、目まぐるしく指示を出しながら、いらついていた。
「雪野君、これ…」
言って、雪野がいないことに気づき、邦彦は気まずい思いで俯いた。
新入りの山内は、そこそこの能力はあっが、指示を与えないと動けないタイプだった。
ショックだった。空気のように雪野に親しみ、いつのまにか意識せずに頼っていたのだと、痛感した。窓ガラスに映る自分の青ざめた顔が、情けなかった。
”いつのまに俺、こんなになったんだ”
これ以上惨めな自分を同僚に曝しているのが情けなくて恥ずかしくて、邦彦は雪野を待たずに会社を早退した。
「高千穂さん、瑞来さんは」
ようやく営業時間に帰社出来た雪野は、簡単な打ち合わせから開放されると、邦彦のチームを訪れた。
「係長、具合が悪いって帰っちゃったのよぉ」
「そうなんですか」
「ユキちゃん、なんとか係長に言ってあげて。ホントに元気ないのよー。なんか、ここの雰囲気まで暗いの、昨日から」
「そうだよ、雪野くん。本当に大変だと思う、瑞来さん」
「でも、瑞来さんが承諾したから、来てもらったって、僕は言われましたよ」
「えーっ、酷いっ。無理やり迫ったらしいのにー、部長がじきじきに係長にユキちゃんくれって」
「…知りませんでした」
「だから私たちぃ、ユキちゃんの送別会やりたいけど、係長に言いだせなくてさぁ、少し待っててよね」
「ええ、ありがとうございます」
雪野は気もそぞろに礼を言った。
雪野は、不思議なぐらい強く感じていた。
あのひんやり整った美しい部屋で、瑞来邦彦がひとりで泣いていると。
今回の異動に関しては、一言も漏らしてくれなかった。真面目な邦彦は、何も言えないことを、苦しんでいたのだろう。いつもと変わらない態度をつくろいながら、思い返せば、ここのところ邦彦は元気が無かった。
矢も盾も堪らなくて、渉外部の上司の誘いを断り、雪野は帰り支度を急いだ。
どうすればいい。
自分はどうしたい。
駅への道を早足で歩いて、雪野は考えた。景色が見えないほど考えて、コンコースの突き当たりで立ち止まり、携帯で雪野の家にコンタクトを取った。
早退して部屋に帰った邦彦は、何をするでもなく、夕日を見ていた。
雪野のことを考えると、意のままにならない衝動が、身の内から溢れ出て、いてもたってもいられない焦燥感に囚われてしまう。平静を保つことも、虚勢を保つことも許してはくれない。家族の死のときにも、こんなに自分を見失った覚えは無い。
もしいま雪野の顔を見てしまったら、どうなるか分らない。それゆえの、職場からの早退だった。邦彦は、悔しさと悲しさで何回か視界が滲んだ。
そうしているうちに星が見えてきて、情けなさは通り過ぎて、訳のわからない寂しさが、全身を包んで邦彦を動けなくした。
そのまま、窓の外が暗くなっても、邦彦は座りこんだままでいた。
六時を回った頃、突然鳴り出した電話に、我に返った。遅れて出ると、雪野の声がした。胸はいやになるほど正直に切なく痛んだ。
駅で待っているからすぐに出てきてくださいと言われて、邦彦は戸惑った。
今は逢えない、逢える状態じゃない、と言い募っても、雪野はゆるがなかった。
『来るまで待っています』
聞いたことも無い強い調子で言われて、仕方なく出かけた。
「瑞来さん、僕について来てください」
小雪のちらつく駅で待っていた彼にそう言われ、邦彦は素直についていった。
電車を乗り継いで半時間で、小さなアパートに着いた。
「ここは」
「僕の部屋です。家を出たんですよ、僕」
彼の部屋はきちんと整頓されて清潔だった。
出された座布団に座ると、雪野がお茶を入れてきた。
「しばらく、顔も見れませんでしたね…。僕は会いたかったです」
雪野が口火を切る。
「転属になって、本当に忙しかったから」
「雪野」
雪野は、静かにじっと邦彦を見つめていた。邦彦は、その目を見返しながら、息を飲んだ。
「でも話さなきゃいけないこと、あります。瑞来さん、僕の転属のこと、うちの部長から打診されていたそうですね」
「ああ…」
「なんでか、この間からずっと辛そうでしたね、瑞来さん。気づいていたけれど、まさかこんなことだったなんて、想像できなかったから」
「雪野…すまない」
「いえ、遅くなってすみませんでした…」
そう、雪野は告げた。
「どうにもならなかった、君のところの部長に押しきられてしまった。仕事だから、仕方ないと思おうとしたよ。遠くへやった訳じゃない。たかだかもとのセクションへの転属なのに、なぜ、平気でいられないんだろうって、悩んだ。君に何の説明も出来ずにうじうじ悔やんで、君を失った事にこんなに動揺してしまった…」
湯のみを持つ手が小さく震えて、唇が噛み締められる。
「辛い。辛い、雪野。こんな自分が情けなくて、嫌で。こんなことってあるのか…」
縋るように見つめる美しい邦彦の目から、涙が零れ落ちた。
「瑞来さん…」
雪野は、強いいとおしさのままに、邦彦を抱きしめた。
「もう、いいですよね、僕は瑞来さんが好きなんです、だから分ってた。あなたがあの美しい冷たい部屋で泣いているって」
「雪野、俺は知らないうちに君に頼っていた…、とても頼っていたんだ」
「もう、いいんです、泣いてもいいんです。僕しかいないから」
「雪野、雪野」
「こんなに、縋らせてしまったのは、僕だから。寂しがることも知らないあなたを、こんなにしたのは僕だから」
「雪野、君…」
「好きです…もっと、僕を信じて」
耳に囁かれたとたん、想いが溢れた。
「抱いていますから」
旨に顔を埋めて雪野の言葉をじっと聞いていた邦彦の、薄い肩が震えた。そして邦彦は、くぐもった嗚咽を漏らしながら静かに啜り泣いた。家族を失った日から、ずっと洩らしたことのない嗚咽を、雪野の胸に顔を埋めて解き放つ。
「は、初めてだ、こんな思いをするのは初めてだ」
泣きながら、くぐもった声で吐露する言葉に、雪野は胸を震わせた。
「こんな俺で、いいのか。雪野、こんな俺で」
不安げな響きを秘めた問いかけに、甘いくちづけを髪に与えて、雪野は答えた。
「ね、一緒に暮らしませんか、瑞来さん」
「雪野」
「ここへ来てください、瑞来さん」
囁くような小声で、切なく雪野が言い募る。
「体だけで、来てください」
雪野はいつしか、瑞来邦彦を抱き締めていた。
「どうして、そんなに優しい、雪野」
「瑞来さんが、好きだからです。僕のために心を開けてくれたあなたが、好きです」
「駄目だ…」
「側にいたいです、一人にはしないから」
「雪野」
「…そんな顔しないで。瑞来さん、胸がドキドキしてしまう」
「よせ、雪野」
「一生ずっと側にいます」
すっぽりと抱きすくめられて、邦彦はいつしか雪野と、じっと見つめあっていた。虚無をまとった美しい瞳は、雪野を切なくさせる。
「男の僕では、嫌ですか。そんなのは許せませんか」
「雪野」
「僕がいることが瑞来さんの幸せだと信じているから、僕は平気です」
「ゆきの」
「瑞来さんのこと、護りたいから。側にいて…」
「ゆ、雪野」
「俊之と、呼んでください」
「としゆき…」
胸のなかで、狂ったように鼓動が響く。邦彦には、それを顔に出すことも、苦しいほど見つめあう目をそらすことも、出来ない。
「恥ずかしければ、言いにくければ言わなくていい。瑞来さんの分まで、僕が言います」
そしてひときわ強く抱き締めて、雪野俊之は邦彦の耳元で囁いた。
「愛しています」
優しく、雪野は邦彦の髪を撫でて、囁いた。
そしてそのまま震える肩を支えて、顎をあげるようにしてくちづけをした。
「瑞来さん」
キスの合間に名前を呼んで、また強く唇を重ねる。邦彦は、思い切り雪野の背中に腕を回して、その広い暖かさに酔いしれた。
”唇が触れるたび、くずおれてしまいそうなんだ…俊之”
「雨の日に、肩を濡らして俺を傘に入れてくれた。雪野、そのときから、多分好きだった」
「瑞来さん」
「好きだ、好きだ、俺、初めてこんなにも、好きだ」
しがみつき、囁き、綺麗な目からとめどもなく涙を流し、瑞来邦彦は雪野を抱き締めた。
「これからは、僕がいる、離れていても忘れないでください」
「俊之」
「ひとりになんか、させない」
「としゆき」
そして、もう一度しっかりと抱き合い、二人はくちづけをかわした。
「俺の事、邦彦って、呼んで欲しい」
「邦彦、くにひこ」
死んだ両親が、自分から突き放してしまったかつての友達たちが、昔そう呼んでくれた、懐かしい響きの名前。
今、雪野が優しく耳にささやいている。
身体が熱くて、どうにかなってしまいそうで、邦彦は幸せでたまらなかった。
「明日は、ここから出勤ですね」
何も知らないらしいうぶな恋人を愛しく想いながら、顔を真っ赤にした邦彦の項に軽くキスすると、雪野はそっと彼の身体に覆いかぶさっていった。
雪野は優しかった。
何をどんな風にされたのか、思い出すのも恥ずかしかったけれど、邦彦は彼を傷つけまいとする雪野の心に、深く感じて、歓びをともにした。
そしてそれから、瑞来邦彦は雪野俊之のアパートで、一緒に暮らすようになった。
仕事のほうは、雪野を抜かれて確かに痛手だったけれど、やがてそれなりに回り始めた。
雪野も、元の古巣に帰っただけだから、案外苦もなくペースにのって仕事をこなし始めた。
邦彦の豪華な住まいは、売るに忍びずにそのまま置いてある。週末になると、手入れがてら二人で過ごす。雪野は本当は手放して欲しいと思っていたけれど、親の形見と言われると、それ以上何も言えなかった。
稀に、喧嘩した邦彦がここに篭城し、雪野が説得している姿が、戸口に見えるという噂が流れていた。
「うわー、きれいな人」
今年も、新入社員は邦彦を見て同じ反応を示した。
邦彦は、去年と同じように、白くて長い指を、形のいい唇にあてて微笑んだ。
今年彼らはきっと配属された先で、聞くだろう。
瑞来邦彦は、”麗しの君”のあだ名をもつキレもので、そして、雪野俊之と一緒に暮らしているのだと。