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挿絵・天生志筑さん^^サンキューでっす^^@

 

1.

 秋の午後。

 港を見下ろせる墓地の奥の、大きな御影石の墓碑の前に、ぽつんと一人の若い男性の姿があった。

 到着したときには、彼は両手に持ちきれないほどの白百合を携えていた。今は、それは墓碑の礎石に置かれ、寂しい風景を華やかに飾っていた。

「幸子、お義母さん、ただいま戻りました」

 高品、とだけ銘が穿たれた墓碑。そこに眠るひとに、男は砂色の髪の頭をたれて、小さく語りかけていた。

「許してください。帰ってきたことを。もう、あの人と離れていることに耐えられない。あの人を愛しています」

 外国人特有のイントネーションの流暢な日本語は、切なく甘いけれど、後ろ姿は寂寥にみちていた。

 

 ルネ・ルノー・高品、二十六歳、パリに生まれ、十六歳でデビュー以来、堅実なテクニックのバイオリニストとして認められ、世界を活動の場としていた。

 二十歳の初来日のとき、同い年のピアニスト高品幸子と巡り合い電撃結婚、日本国籍を得るために、高品家の養子になり、そのままここ数年、日本のある交響楽団でコンサートマスターを務めていたが、最愛の妻を亡くし、契約が切れた半年前から、またソリスト生活に戻った。

 

「ごめんなさい」

 ルネは詫びた。

 礎石を埋め尽くすほどの白百合の花が、ルネのつぶやきに応じるように風に揺れる。

「心も、愛ももろいよね。いつのまに思い出になってしまったんだろう。…ああ、幸子、僕は君に生きていて欲しかった」

 ルネは、遠い目をして、墓碑を見つめた。花が風に揺れる微かな音だけが、あたりを包んでいた。

「そうすれば、僕とあの人は」

 言葉が途切れてしまう。

 ひんやりとした墓碑は美しく、たひたび足を運んでこまやかに手入れしていた人の存在を感じさせる。慈しむようにそっと頬を寄せて、目を閉じると、秋の日差しが柔らかく身体を包んだ。

「幸子」

 妻の名を呼びながらも思いはめぐり、いつしか、半年前に、その人が見せた透明なまなざしに辿りついた。

 あんな目をさせてしまったままあの人を置き去りにしたのだ、僕は…

 そのことへの悔いが、胸に深く影を落としている。

「また、きます」

 しばらくしてルネは立上り、墓碑にそっと口付けると名残惜しげにたたずみ、それからゆっくり待たせてあるタクシーへと足を向けた。

 

 懐かしい日本の風景が、車窓を流れて行く。

 溢れるような秋のたたずまいが、心を誘うようだ。

 美しい日本の四季。

 そのうつろいがとても似合う優しい人が、いまも暮らしている。

 いつか春の日に。

 溢れるような陽射しのしたで、小さな真琴を肩に抱いた、あの人と歩いた。爛漫の桜が、若葉を揺らす銀杏並木に、花びらを纏わせて、頬を撫でた。

 穏やかなまなざしを交わすと、その人から伝わってくる、とてもあたたかな気持ちで胸が満ちて。

 ああ、この人は、とてもきれいだ…。

 心から、感じて、少しだけ怯えた。

 はらはらとはなびらを、受けながら、ただ素直に微笑みをかえすと、真琴が意味も分からずに、はなびらを追って、笑う。

 言葉のない、ひとときの思い出。

 それは、さりげない春の日の光景だったけれど、どんな思い出深い事よりも鮮やかに、幾度も幾度も幸せな夢になって、旅先のルネの目覚めを切なくさせた。

 

 ドク、ドク、ドク

 溢れる思いにせかされ、動悸がせつなく落ち着かない。

 パリを発ったときからそうだ。到着して空港を出て、妻の墓を訪れたときも、タクシーで走っている今も、おさまらない。

 バックミラーに映る自分の顔は、つんと取り澄ましているというのに。

”半年ぶりの日本…”

 ルネは、綺麗なはしばみ色の瞳を窓の外に向けて、いよいよ目の前に広がってゆく懐かしい日本の景色に包まれ、逃れようのない思い出に苛まれつづけていた。

”なるようになるさ”

 無理に自分を納得させるように愛用のバイオリンを抱き締めて、シートに深く身を預けた。

 

 市内に入ると、見なれた町並みが茜色の夕日に染められていた。その光景に心が和む。

 じきに懐かしい佇まいになる。

「あ、運転手さん、ここでいいです」

 ルネは、そう言って、我が家の少し手前で車を降りた。

 墓地を離れるときに、家に連絡を入れておいたから、今ごろは二人して玄関先で待っていることだろう。

 ルネの小さな息子、真琴と、彼を育ててくれている義父、芳朗が。

 久しぶりの町の気配を楽しみながら、ルネはゆっくり歩いていった。

 さわさわさわ。

 秋風が吹き抜けると、黄金に色づいた銀杏並木が揺れながら枯葉を舞い落としてゆく。荘厳で美しい風景に、ルネの心は憂いを忘れ、帰ってきたという幸福感に満たされていった。

 角を曲ると懐かしい我が家のある坂道が見える。ルネは、坂の途中に立っている細長い影を見つけて、立ち止まった。

 

「パパぁー」

 もみじのような小さな手を振って、幼い真琴が笑った。芳朗の腕に抱かれ、幸せそうに笑っていた。

「真琴っ、お義父さんっ」

 胸が、震えた。

 真琴は別れたときより、ずっと大きく愛らしくなっていた。ふわふわした髪が、ゆるい巻き毛になって、風に揺れている。

 どんなに逢いたかったことだろう…。

 ルネはたまらずに荷物もバイオリンも置いて駆け出し、大きく腕を広げて芳朗ごと息子を抱きしめた。

「真琴、真琴…ごめんよ、長いことごめんよ」

 夕日があたりを包んで、寄り添う影が坂に長い尾を引いている。

「おかえり」

「おかえんなさい、パパ」

「ああ、ただいま」

 そしてルネは、恐る恐る顔をあげ、義父の顔を覗き込んだ。

 芳朗はまなざしの中に、うっすらと涙をにじませていた。

「お義父さん…」

 目があうと、ためらいがちに目蓋を伏せる。ルネは切なくて言葉がでず、ただ目頭が熱くなるのを堪えた。

「よく帰ってきたね。待っていた…よ」

「ええ、お義父さん」

 義父は、そっと目をあけて、ルネを見て言った。

 少し痩せたけれど、以前と変わらぬ優しい微笑みには、わだかまりの影は見えない。

「すみませんでした」

 ルネは、帰国の途中ずっとかみしめていた胸のしこりがほどけていくのを感じた。そして同時に、涙がじわじわと沸き上がってきた。

「よかった…」

 義父がぽつりとつぶやいた。

 そして微笑んで、それ以上なにも言わなかった。。

”お義父さん…”

 半年、胸を占めていた思いは、言葉にはならない。

 ただ、義父と同じように自分の頬をつたうものを、感じるばかり。

「ああ」

 素直な響きに甘えて、ルネ自身もとりあえず今だけは、帰ってきた事を素直に喜びたかった。

 

 三人はしっかりと抱き締めあったまま、坂の途中に立ち尽くした。

 それぞれが、この日を待っていたのた。

 銀杏並木の美しい坂の我が家に、ルネがようやく戻ってこれたこの日を。

 

 

 家はなにも変っていなかった。

 出ていったときのままの懐かしい我が家の匂いがする。旅先で、夢にみたたたずまいはそのまま、ただ、真琴が少し大きくなっただけ。

 しっとりと水を打たれた庭先から玄関へ入り、靴を脱いで、綺麗に掃いてあるたたきと、控えめなとりあわせの活け花に目を止めて、義父らしい手に感心する。

 美しい家。

 真琴を育てながらいつ帰るかわからないルネを待つ暮らしには、言い知れぬ苦労があっただろう。

 黙ってルネの荷物の一つを運んでいる義父の、すらりとしなやかな後ろ姿をみながら、ルネは考えていた。

”お義父さん”

 きり、と、胸が痛む。義父の背中は、何も語らない。

”今、あなたはどんな表情をしているのだろう”

 その肩先に、思わず手をのばしかけて、ルネははっとして動きを止めた。

”抱きしめてしまいそうだった。さっきも、今も…”

 何も変わっていない。

 半年の空白は、思いを募らせただけなのか。

 にぎりしめたこぶしが蒼白になる。みるみる沸き上がる行き場のない思いで、細かく体が震えた。

「じゃ、夕食までゆっくりしていなさい」

 そんな、ルネの気配に気づこうともせず、部屋に入るなり、少し微笑みを残してさり気なく言いおき、義父は去っていった。

 パパはー、と尋ねる真琴に後にしなさいと諭す、優しい声が遠く聞こえていた。

 ルネは、掃除の行き届いた自室で、荷物を整理しながら、溜息をつき、そして寛いだ気分を味わった。

 

 ああ、やっぱりここがいい。しみじみと、思う。戻ってこいと説得する両親には申し訳ないが、フランスには帰れない。

 愛も思い出も、今でも、ルネのすべてがこの坂の家にあるのだから…。

「幸子」

 ライティングデスクに飾られた妻の写真に軽く口付け、じっと覗き込む。

 一番しあわせだったころの、可憐な幸子の笑顔が、変わらぬまま閉じ込められてそこにあった。

「君を、愛してたよ。ウソじゃない」

 幸子との日々の記憶が、胸に蘇る。

 熱烈な恋愛で結ばれて、二年前に二十四歳の若さで、あっけなく逝ってしまうまで、ルネの幸せは幸子とともにあった。

”あなたのバイオリンの、逆巻く火のような音が、好き”

 ほっそりと可憐で、小さな天使みたいな彼女から、はじめて会ったとたんにそう言われて、驚いた。

 優しく明るかった幸子。ピアニストとして、芸術家として真剣にルネにぶつかってきた、魂。恋人として、寄り添ってきた、魂。

 幸子の実父が遺したというこの銀杏坂の家で、きらめく日々を過ごし、可愛い真琴が生まれて。

 二度と、あの幸福は戻ることはない。

 そして。

 時を経て、自分は、またここに戻ってきた。幸福と暮らしていた、ここに。

 

「ルネくん、夕飯にしよう」

 階下から、芳朗の呼ぶ声がして、ルネは追想から引き戻された。

「ええ、はい」

 知らぬ間に過ぎた時間が薄闇に閉ざした部屋のカーテンを引き、電気をつけてからそそくさと普段着に着替え、ルネは下へおりていった。

 

 

 趣味のいい器に盛られた、義父の手作りの料理は、湯気をたててルネを迎えた。真琴は、嬉しそうに座って足をぶらぶらさせながら、スプーンを振り回していた。

「おいしそうな匂い、ですね」

 ルネが言うと、妙に板についた白い割烹着姿の芳朗はいそいそと動き回りながら言った。

「とりたててごちそうにしたわけじゃないから。でも君の好きなものを沢山ならべてみたんだ」

「ええ、本当にそうですね、嬉しいな」

 食卓を彩る一つ一つは、好みを覚えてくれていたんだと、感激するメニューばかりだった。

「おじいちゃんは、なんだって作っちゃうんだよ、パパ」

 知らないだろう、と言いたげに真琴がはしゃぐ。

「へえー」

「うん、だってね、ハンバーグでムーミン作ってくれたもん、昨日。ボク、うれしかったもん」

 二人は、そんな真琴を見て、顔を見合わせて笑った。芳朗は、はしゃぐ真琴の頬についたごはんつぶを、さりげなくとってやった。

「そんなに、はしゃがないで。前を向いてたべなさい」

 そうしながら、目を見つめて柔らかく諭す。

「いい子にしてたら、また、作ってもらえるよ、真琴」

「うん、パパ」

 ルネは、ふわりとした真琴の髪を撫でてやった。

「ほら、卵焼き。お口あけなさい」

 芳朗が、真琴ではまだ巧く掴めない卵焼きを箸でくちもとに持っていくと、真琴は嬉しそうにぱくついた。

「甘えんぼだね、真琴は」

 変わらない芳朗の美しい手の動きを目で追い、そしてルネは、笑いながらふと目を止めた。

 白くて形のいい義父の手は、荒れていた。よく見ると、指に幾つもの小さな薄赤い傷あとを見つけて、ルネの顔からは、笑みが引いた。

 ルネの居ない日々のくらしが、偲ばれる。

 芳朗は、ルネの表情にどうしたの、と目で問いかける仕草をした。

”苦労してたんですね…、やっぱり”

 ルネは胸がいっぱいになった。

「おじいちゃん、もっとちょうだい」

「おいしかった」

「うんっ」

「嬉しいね、良い子だね、真琴くん」

 そして芳朗は、ほんとうににっこりと微笑んだ。

 胸が、どきんと鳴った。

「おじいちゃんいてくれて、良かったね、真琴」

 ルネは、そう言うのがやっとだった。

 

「本当に、お義父さんひとりにご苦労かけてしまって…、僕は申し訳ないです」

 居間に移って、膝で眠ってしまった息子の頭を撫でながら、ルネは言った。

「いいんだ、真琴くんは可愛いし、本当にいい子にしてたから、育て甲斐があったよ」

「ずっと一人でこの家も、真琴もみてくださって。何もかもお義父さんのおかげです」

 気持ちをこめて言うと、いいやというように芳朗は首を横に振った。

「私のほうこそ、だよ。パリのご両親は、お元気だったかい」

「ええ」

「本当は、きっと君や真琴くんと暮らしたいとおもってらっしゃるだろうなあ」

「ええ…まあ。でも、僕はここが好きだから。ただ、どうしてもお義父さんに負担をかけてしまうみたいで。真琴は手がかかるし。モデルのほうもですけど、会社のほう、経営からは完全に引退されたと聞きました」

「うん。だけど、それは真琴くんのせいじゃなくて、会社の経営が今の私にはもう重荷だからなんだ。もともと、亜希子さんの持ち物だったんだし、野心のない経営者じゃ、良くないだけだから。後任は切れ者の田丸副社長にお願いしたし、重役連中もそのほうが喜んでるよ、きっと」

「そうですか。それならいいんですが、僕のところにも重役さんから慰留してくれないかと要請があったんですよ」

 ルネの言葉に、義父はただ黙ってあっさりと微笑んだ。迷いの表情はみじんもない。

 強い人だ、とルネは思う。

 しろうとながら意外と出来るという評判が高かった大手アパレルメーカー社長の肩書と、良好な会社組織を意のままに動かす醍醐味を、この家での静かな暮らしと引きかえて、何の未練も感じていないようだった。

「そう。でもやっぱり私は、のんびりしているからねえ。モデルなら何とかなっても、それがやっとだよ」

 あっさりと芳朗は答えた。ルネは、まじまじと彼を見つめた。

 

 油気のない髪を自然のままに流した、鹿を思わせる面長で細面の清潔な顔立ち。上背の高さを感じさせない柔和さがあり、大きめのレンズの眼鏡をかけると、いちだんと優しそうになる。

 本来クライアントに不自由しないファッションモデルだというが、ルネはきらびやかな雰囲気の芳朗を見たことがなく、彼はいつでもナチュラルだった。

 ただ、端正な顔立ちが、立ち振舞いとすらりとした上背のある身体に活かされて、とても気品があり綺麗で、なにげない風景の中で、はっとさせられる瞬間がある。

 そんな時ルネは芳朗の本来の職業をしみじみと思うのだった。

 芳朗は、今年34歳。まだまだ活躍できる年齢ではないのか。

 

「のんびりといえば、お義父さん、高品コレクションの仕事、そろそろですよね、いつですか、出発」

「えっ、あ、あれね、あれは来月の十日だから、まだいいんだよ」

 たちまち当惑したような表情になって、頭を掻きながら、芳朗はぼそぼそと答えた。

「まだって、お義父さん」

 ルネは呆れた。

 表向きにはそのための帰国なのだ。ルネは芳朗の留守のために、仕事をキャンセルしてまで、日本へ戻ってきたことになっているのだから。

 家のことは好きでまめな義父が、自分の仕事となるとどうしてこう腰が重いのか、不思議で仕方がない。

 親戚の義理でたった一つ受けている、ファッションモデルの仕事。芳朗がそれを嫌いなわけではないことは、十分理解っていた。

「相変わらずなんですねー、そんなところは」

 ルネは、苦笑しながら溜息混じりにいった。芳朗はなんとも複雑な表情をしていた。

「ゆっくりでいいんだよ。私には、今の生活のほうが大事だから、出来るだけぎりぎりまで、仕事の事は考えないでいたい。それに柊彦さんは、こんな私でいいんだそうだ」

 穏やかに笑いながら言う芳朗に、ルネはかける言葉が見つからなかった。

”本当なんだろうか。本当にこれでいいのだろうか”

 ルネは途方にくれた。

 ずっと、離れていたあいだ、胸を占めていた言葉が、不意に激しく込みあげる。

”何か、言わなくてはいけない”

「お、お義父さん…」

 改まって、ルネが声をかけると、芳朗はあわて気味に話を切り出した。

「そ、そんなことより、私が高品の仕事でフランスへ発ってしまうまえに、真琴を東京ディズニーランドへ連れていってやりたいんだよ。君も一緒がいいと思ったから、待っていた。色々考えたら、あまり時間がないらしい。近々、考えといてほしいな」

「えっ、ええ」

「頼みますよ」

 芳朗は、いたずらっぽい快活な表情をのぞかせながら、楽しそうに言うだけ言うと、ゆっくり立ち上がって台所へと消えていった。

 

 

 静かな、夜だった。真琴をベッドに寝かしつけてから、ルネは改めてひとり、夜の静寂を味わっていた。

 閑静な住宅街の一角のこの家は、本当に静かな夜を、過ごすことかできる。

 静かすぎて余分なことを考えてしまう。

 半年ぶりの義父との再会。

 顔を見て、言うつもりだった筈の言葉は、結局出なかった。

 幾分穣舌ぎみに交わされた、今夜の会話。大切なことを、置き去りにしたのは、芳朗ばかりのせいでは、ない。

 一番に語り合わなければいけないことだったのに。

 いったいいつ、切り出すことが出来るのか。

 義父の優しい微笑みばかりが、目に残っている。

 ”ここを、離れる前も、そうだった”

 不意に、半年前の、日本を離れたときの記憶が、胸によみがえり、ルネは、困惑していた。

つづく

 

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