2.
芳朗は、綺麗だ。
いつからそう思うようになったのか、ルネは憶えていない。
気づいたとき、途方に暮れながらも消すことはできなかった。
幸子が死んで、一緒に暮らしてくれた義母が死んで、若い義父である芳朗と取り残されたとき、まさかこんな日が訪れようとは思いもしなかった。
初めて、幸子の父として紹介されたときの芳朗に、ルネは微かな軽蔑さえ覚えた。
会う前に、彼が幸子の母の、二度目の夫であることと、随分若いのだということは聞かされた。
それでも、フランス料理の席に、幸子の母とともに現れたスマートでおとなしやかな青年は、義母の夫としてはあまりにも若過ぎる。
"ジゴロ"
世間の噂では、芳朗はそう呼ばれていた。以前、少しばかり名の売れたことのある芳朗を、アパレル業界の女傑が囲うように夫にしているのだ、と。
ファッションモデルという職業で、金持ちのマダムの夫に納まった美貌の持ち主。パリの社交界にもそんな男たちはいた。気の置けない遊び友達の一人も、そんな境遇の男だった。その男は、結構インテリで、アルファロメオに乗り、ブルガリで身を飾っていた。
けれど、芳朗は何かが違う。
確かに、何とも言えず綺麗な男だったけれど。
「お義父さん、私の大好きなルネよ」
嬉しそうに幸子が笑う。
「ルネ、私の自慢のお義父さん、芳朗さんよ。ママの旦那さんだけど、お義父さんがずっと私を育ててくれたの」
素直な優しい目で、幸子が紹介する。
「モデル、なんでしょう」
「ええ、そうよ。でも、お義父さんは私たちのために、家にいてくれたの。私、お義父さんが大好き。ママが忙しくても寂しくなかったのは、お義父さんがいてくれたから」
親子は、穏やかに微笑み合った。
訳もなくそんな二人を、綺麗だと思った。
彼はモデルよりも、主に家事をして暮らしているらしい。
「幸子さんを、よろしくお願いします」
彼が美しい発音のフランス語で言う。
「お父さん、大学でならって、少しだけ出来るのよ、フランス語。なんてったって柊彦叔父さんのパリコレモデルですもの」
ちょっぴり自慢げな幸子の口調が、微笑ましかった。高品柊彦は、オートクチュールデザイナーとして有名な、菫子の弟だった。
義母になる菫子を交えて、穏やかに食事は終わった。
そして、まもなく盛大に結婚式を上げて、ルネたちは銀杏坂の家で、新婚生活を始めた。
義母たちは、しばしば二人を訪れ、そしてルネは徐々に気づかされていった。
気が強い、線の太い女実業家。そんな義母の印象を優しく裏切ったのは、かたわらで支える芳朗の姿だった。
時には包み、時には諌め、年の離れた妻を、心から愛していることが、はためにも分かる。二人の関係は、見ていて美しかった。
理解ってくると、ルネは義母たちと親子としてつきあいやすい関係になれた。
幾つかの季節を、幸せが包んで過ぎていった。
それなのに。
思いもしなかった、幸子の死。
幸子の葬儀の時、一人娘を亡くして泣きくずれる義母を支え、無邪気に振る舞う真琴を抱きしめて、芳朗は喪主のルネを助けてくれた。
「君にはまだ、真琴くんも、私達もいますよ」
ただただ唇をかみしめるばかりのルネに、静かに語りかけ、慰めてくれた。
その心遣いが、ルネを日本に留まらせたのかも知れない。芳朗の言葉で、ルネは思い出と、暮らす覚悟が出来た。
「パリへは、帰りません」
そうしてほしいと、言われはしなかったが、義母たちがそれを望んでいるのは、分かっていた。
「でも、一緒に暮らしてください」
そう申し出た。
この家に来てからは、芳朗が家事を取り仕切った。若くしておじいちゃんと呼ばれることもいとわず、同居しているルネたちにも義母に対するのと同じように接して、面倒を見てくれた。
”おじーたん”
真琴はまだよく回らない舌で、芳朗を呼んだ。ルネには意外なほど優しく、芳朗はそんな真琴に接した。
「ママが恋しいのに、よく我慢しています。偉いよね…。幸子ちゃんは、今の真琴くんよりは、ずっと大きかったんです」
目を細めて、少し悲しそうに微笑うと、芳朗は優しく真琴をあやした。
実業家の義母と、スケジュールに追われるコンサートマスターのルネと。
そんな二人の代わりに、家と真琴のことを芳朗は何も言わずに引き受けてくれた。
幸子もこうして育てたのですか、と、聞きたくなってしまうほど慈しんで、芳朗は真琴に接した。
”お義父さん…”
穏やかな日常がようやく戻ってきたと思ったとき、義母の死が、事故という形で突然訪れた。
死を知らされたときこそ、呆然と立ち尽くしたが、芳朗は葬儀では取り乱したり、激しく泣いたりしなかった。周りが陰口をきくほど静かに見送り、ひとりで毅然と義母が遺した事業の整理を取り仕切った。
そしてそれが済むと、できる限り以前通りにルネたちとの暮らしを続けようとした。
ルネは、何時でも思い出す。
芳朗は、ルネにも真琴にも変わりなく振る舞いながら、長いことさびしげな表情をどこかに残していた。
幸子を亡くしたルネには、そんな芳朗がひどく身近に思えた。
「菫子さんは、優しい人だったんですよ。可愛い人でした。忘れたりは、出来ません」
後を追うように死んだ義母が愛していた小鳥を葬るときに、芳朗は、はじめて身を震わせて激しく泣いた。
そのとき、彼が流していた涙が訳もなく美しく思えて、ルネはしばらく傍らで肩を抱いていた。
思えば、あれが始まりだったのだろうか。
「寂しいと、思うこともあります。でも、真琴くんと、君がいるから」
微笑んでつぶやく芳朗の、どこかはかない姿を見つめているうちに、気がつけば守りたいと思っていた。
身内に縁の薄い、芳朗。
自分たちがいなくなったら、一人になってしまう。
ルネは、なぜかそうしてはいけない、そうしたくない、そんな思いに駆られていた。
"この人を置いては、どこへも行かない”
静かに、決意した。
高品の親戚の中には、義母が死んだ後も、芳朗がルネたちと暮らすことに口を出す者もいた。正当に高品家の血を引いているのは、幸子が生んだ真琴だけだったから。
義母の死にさえ毅然としていた芳朗が、親族たちから不自然な家族とののしられたことを、ひどく気にやんでいた。
ルネは、そんな声に抗いきれない芳朗の立場を思い、たまらず、何かと協力してくれる高品柊彦と相談して、私生活にまで口を挟むならば真琴とフランスへ永住帰国すると宣言して、親族を黙らせた。
いつの間に、こんなに心を占めていたのだろう…。
まだそんなに長い時が過ぎたわけでもないのに。芳朗は男なのに、彼のことを思うと、切ない。
それが何なのか、わからない訳が無かったが。
知らないふりをしていたかった。
少しでも長く、銀杏坂の家で、三人で暮らすために。
ルネにとって辛い暮らしが始まった。
日々が、過ぎる。演奏会の合間合間を、防音のきいたレッスン室での長いレッスンで埋めるような、バイオリニストとしての、日々が。
それがルネの日常だった。
演奏会を控え、神経をぴりぴりと尖らせているような時のルネは、日溜りのなかで真琴と遊ぶ芳朗の細い後ろ姿に、口で言い表わせない慰めと安らぎを見いだしていた。
幸子のいない淋しさも、義母の死も、三人きりになって間もない今ですら、すでに過去になりつつあった。
失えないものが、あるとするならば…。
気づけば想いがつのる、それが恋だということを、ルネは思い出さざるをえなかった。
平穏な暮らしの中で、静かに重くなっていく芳朗への気持ちを、持て余しながらも表には出せなかった。
そして堪えて堪えて、ついに心が張り割けたのだ。
その日、真琴をあやしながら、縁側の日だまりで眠ってしまった芳朗が、いた。
ルネは、目をそらすことが出来なかった。
安らかな寝息に、男とわかっていてもしなやかな身体に、綺麗な額に、優しく真琴に添えられた手に、心ごと引き寄せられるように引き込まれて、気がつけば彼の眼鏡をそっと外し、その額に唇を押しあてていた。
「芳朗さん」
心で名を呼んだつもりが、声になり、離した唇はさらに熱を帯びて、芳朗の額に押し当てられていた。
ふと目をやると、ガラス戸の向こうに、芳朗が育てた花が群れて咲いていた。ルネは芳朗の肩をそっと抱きしめて、頬を寄せた。
その時。
「…ルネくんっ」
義父の、息を飲む声で理性が、どっと戻ってきた。
「…おとうさん」
さっと血の気が引いた。
「私はうたた寝を、してしまったらしいね」
芳朗は平静をよそおった声で呟いた。
「か、風邪ひきますよ」
すっかり狼狽して、ルネは言った。
「そうだね」
ルネの方を見ようとはせずに、芳朗は言った。表情に微笑みはなく、それ以上言葉を繋ごうともせずに、うつむいていた。
そむけた頬が、細かく震えていた。
「真琴くんを、寝かせてくるよ」
静かに立ち上がり、真琴を抱きあげて、芳朗は部屋を出てゆく。
「芳朗さん」
小さな叫びにも応えず、一度も、ルネと目を合わせないまま。
怒りも、驚きも、責めも、しなかった。何も語らない後ろ姿に、ルネはただただ呆然としていた。
”芳朗さん、あなたは気づていたはずだ”
その行為の意味に。
嫌なら拒絶してほしかった。
日だまりに一人取り残され、ルネは、どうしていいか判らなかった。
そして。
そのあとの暮らしは、ぎこちなく過ぎた。
芳朗も、ルネも、努めていつもと変わりなく接した積もりだったが、空気は張りつめたままほぐれなかった。
真琴までがけげんそうな顔をする。
変わったのは、互いの心だったのだろう。
「パリへ、行きます。しばらく真琴を頼みます」
ルネはいたたまれない気持ちに耐え切れず、逃げるように海外での仕事をいれて、二週間とたたずに慌ただしく出国していった。
「パパ、お仕事いってらっちゃいーー」
別れの朝、玄関先で芳朗は、何も知らない真琴を抱きしめて、遠い目をして立ち尽くしていた。
「行って、きます」
ルネは二人の顔を見ないように、別れを告げた。
「きっと待っているから…」
踵を返した背中に、微かに芳朗の声が聞こえた。
ルネは、唇をかみしめた。
背をむけた向こうで彼が泣いているような気がして、見れば抱きしめてしまいそうで振り向けなかった。
浅い春の銀杏坂に、朝靄がたちこめている。
ほのかな春の香りの中で、ただ、芳朗の遠いまなざしと、表情だけが胸に灼きついて、パリへ残り香を運んでいった。
今は、もう秋になった。
そして自分は帰ってきた。
この静かな夜に、銀杏坂の我が家にいる幸せが、染みる。
パリでの日々で思い知らされた、自分の気持ちを胸のなかで反芻しているうちに、ルネはいつしか安らいだ眠りに引き込まれていった。