017:√

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「ですからですね。こっちのカッコん中のXが、この2ってことになるわけっすから、そのまんまイコールの右に持って来てとりかえてやるんスよ。そーすると、こっちの3yとかけられて、6yになって」
「……」
「で、その6yをですね、√ん中にブッ込んで」
「……」
「つまり答えは5になるわけです。……わかりました、姐さん?」
「さっぱりわからん」

 きっぱりと言い捨てられて、半蔵はちゃぶ台にぐったりとつっぷした。
 はしばみ色の瞳が、うるうると涙に濡れている。顔色は蒼白だ。対して、いろはの顔色はといえば、落胆よりも怒りと苛立ちによる赤みのほうがきわだっている。彼女は、こぶしににぎりしめたシャープペンシルを、さもつまらなそうにぺっと床に投げ捨てた。半蔵にはそれがさじに見えた。が、たぶん気のせいではないだろう。

「姐さんんん! わからん、じゃないですよ! 期末テストは明日なんですよ! 明日!」
「や、やかましい! わからんもんはわからんのだ! 数学なんぞできなくても、巳屋本組は再興できるっ!」
「勉強のできない学生の王道的言い訳してる場合じゃないっすよ! わかってるんすか、次に赤点5つ以上とったら、姐さん、留年確定なんですよ?」

 びしびし胸に突き刺さる言葉。いつもとまったく、立場が逆だ。
 いろははぐぬぬと歯を噛みしめ、ビシーとそばかすだらけの鼻先に指先を突きつけた。

「うるさいうるさい! なんだ貴様、もとヤンキーのくせに勉強は出来るなんて、世の不良どもに対する挑戦か! それともわたしへの当てつけか、そーなんだな半蔵のくせにバカバカバカ!」
「あいたたたた、ね、姐さん、痛いですってば、あいたたたた」
「大体っ、わたしが留年しようがしなかろうが、お前には関係ないだろーがっ!」
「関係ありますよぉ」

 渾身の力を込めたぽかぽかパンチが、鼻先ぐりぐり押しつぶしに変更されても半蔵は動じず、どころか、余裕でふて腐れたような顔をして、むっとくちびるを突き出した。17歳の男子がやるには少々コドモな動作だが、これがすとんとハマってしまうのが半蔵という青年だ。

「だってオレ、姐さんがいないガッコーなんて、ちっとも面白くないですもん」

 そして幼さゆえの純真さで、ケロリとそんなことを言う。
 いろはの顔面の穴という穴が、その瞬間、ぽっかりと開いた。

「姐さんがいるから、オレ、毎日早起きして弁当つくって、あんなめんどくせーとこ通ってんですよ」
「……」
「なのに、姐さんが留年なんかしたら、もー行く意味ないですよ。いっそ、オレも留年しちまいますよ」
「……」
「……姐さん?」

 きょとん、と目を見開き、半蔵はいろはの穴だらけの顔を、覗き見た。

「どしたんスか。顔、真っ赤っすよ?」
「……!! な、な、なんでもないっ!」

 いろはは高速でそっぽを向いた。顔は耳まで赤く、形良いまるいひたいには、ぽつぽつと汗が浮かんでいる。半蔵はますます眉をひそめ、そして、突然深刻な顔をしてはっと息を飲んだ。

「まさか姐さん……風邪? 風邪っすか!?」
「ち、……ちが、う」
「いや違わないでしょそんな真っ赤な顔して汗だくで! ちょっと測らせて下さ……」
「ヒ!」

 手を伸ばして来た半蔵の、その腕をいろはは慌ててすり抜けた。ついでに勢いあまって顎にパンチまで食らわせたので、半蔵は危ういところでグロッキーになりそうなところを、愛のためにも必死に耐えなくてはならなかった。真っ赤な顔でジタバタ暴れるちっさな女の子を押しとどめ、手のひらを汗まみれのひたいに当てる。

「な、なにをするうっ!」
「なにって熱測るんすよ! ウチ、体温計ないんですからっ」
「やめ、やめ、やめろ! わたしに触るな、ばか、離せえ!」
「ね、姐さん、落ち着いて……!」

 どてばたごろごろ、床を転がり壁を蹴り、古臭いアパートがみしみし悲鳴を上げるのにも構わず、半蔵はいろはを押さえつけようと、いろはは何故だかそんな半蔵の真剣そのものな顔が怖くて、逃げ回る。常ならば、圧倒的に実力の差がある半蔵がいろはに敵うはずもなかったが、武術家としての気を使わず、あくまで力技での勝負に持ち込むのなら……、ほぼ大人になりかけの青年と、ちびっこく華奢な女の子では、いろはに分があるはずもなかった。
 薄っぺらな安物のちゃぶ台を蹴り飛ばしたあたりで、ついに半蔵はいろはの肩を床に押し付け取り押さえることに、成功した。

「ね、……姐、さん……捕まえ、ましたよ」

 ぜえはあ息を荒げながら、不敵にニヤリと笑う。いろはの体がびくりと震え、ただでさえ大きな瞳が、さらに大きくくるりと見開かれる。気のせいか、半蔵の頭と尻にオオカミの耳と尻尾が、いろはの頭には真っ白くやわらかな、ウサギの耳が見えるような。

「全く、具合悪いのに暴れたりなんかして……。さー、いい加減観念して熱を……」

 そしてオオカミの爪が、ウサギの顔に、そっと掛かった。
 ちょうどそのとき、

「うるっせえなあ馬鹿野郎! 今何時だと思ってやがんだああ!」

 どがん!とドアがぶち壊れる音がして、この上なくご機嫌斜めな顔をした天下が、素晴らしいタイミングで怒鳴り込んで来たのだった。

「……」
「……」

 ひたりとぶつかる。
 オオカミな半蔵と、不機嫌そのものだった顔に、今度は驚嘆を貼り付けた天下の目が。

「……」
「……」

 ぴきりとひね曲がる。
 ウサギないろはと、驚嘆に彩られた顔に、みるみる朱を昇らせた天下の目が。
 ぐび、と天下の喉が動いた。ぎしぎしとやけにきしむ腕を必死に動かして、床に落ちた壊れたドアを拾い上げ、本来あるべき場所へ、無理やりにはめ込む。ごすっ、としてはならない感じの音がして金具が壁にめり込み、ドアは非常に無理な体勢ながら、その場に直立不動した。
 景気良くあいた隙間から、晧々と差し込むあまい月の光。
 ドアの向こうから、力無い声が響く。

「……ま、頑張れよ……」
「ちょっ……! ま、待てコラ貴様、助けて行けえ!」
「……姐さん?」

 そのままポテポテと……図体のわりに小さな、否、小さすぎる足音で立ち去っていこうとする憐れな仔猫を、我にかえったいろはは必死に呼び止めた。倍もあろうかというガタイの兄ちゃんに組み敷かれて、唯一自由に動くのは右の片腕と、首のみ。
 その首に、ふと触れたものがあった。
 見上げる。
 うるうると期待に満ちた目でこちらを見下ろし、鼻息を荒くしている馬鹿者がいる。
 またも首に、触れるものがあった。熱い。……それは言うまでもなくこの痴れ者の鼻と口から漏れ出る息で、熱い、はーはーゆってる、……目が怖い、……う、わ、……ぎあああ!

「……もしかしてこれは、据え膳食わぬは、……という状況なんでしょーか?」
「……!!!」

 ドゴオオオオン!
 こっそり泣きながら夜の町へ飛び出して行った天下の背後で、爆煙が上がった。
 続いて紺碧の星空へ向け、アパートの天井と人のような形を成したものが景気良く弾け飛んで行ったが、天下は振り返りもせず、咆哮しながらひたすらに駆けた。闇夜の中、頼りない街灯のあかりに照らされて、どこまでも、どこまでも。

 

 

 

 

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