038:地下鉄
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「…げっ」
肩のあたりで聞こえたそんな声に、犬飼は何も答えず、そのかわりに目一杯その秀麗な顔を不快に歪めた。
まさに黒山の人だかり。ホームへ続く階段を降りて行く段階で、その進みの遅さから予想はしていたが、やはりとんでもない混雑振りだ。子供から大人まで、およそ明日には飽きて打ち捨てられているだろうビニール製のバットやら巨大ダッコちゃん人形やら水風船やらを手に持ち、地下鉄が来るのを待っている。
わざわざこんな混み合う場所に連れてくることなかろうに、母親の腕の中、人ごみに潰されて赤ん坊がうぎゃあと鳴き声を上げた。「…だから嫌だったんだよ、来んの」
「だってよー、夏祭り、今日までだし」日本人に生まれたからにはやっぱり行かなきゃなんないだろ。
訳のわからない理屈をこねて、猿野は犬飼を閉口させる。「しかもそんなジャマくせえもん釣りやがって…」
言われて、手に下げたビニール袋の中で死んだようにぷっかり浮かんでいる小さなミドリガメを、猿野はかばうように犬飼の視界から遠ざけた。
「んだよ、いいだろ可愛いし」
「大体お前、それどうすんだよ」
「飼うんだよ、決まってんだろ。そこらの川にキャッチアンドリリースって訳にも行かねえだろ、ヌシに食われたらどうする?もう名前も決めたし」
「…とりあえず聞いてやる。何だ」
「亀子」
「……。」
「…なんですか冥君、その冷たい眼差しは」犬にトリアエズ、なんて名付けてるヤツにんな目で見られるいわれはねえぞ。何だとコラ。互いに睨み合いを始めた時、地下鉄が到着した。
流れるように入り口へと殺到する人山にうんざりしながら、「…一本遅らせた方がいいんじゃないのか」
「いや、乗れるって。こんだけいたら一本二本遅らせても意味ねえよ、行くぞー」
「……マジかよ…ってコラ、待て!」ずかずかと人波に紛れる猿野の背を、慌てて追う。その瞬間、ハイ詰めてくださーい、詰めてー、と叫びながら駅員にぎゅうぎゅうと車両内に無理矢理押し込まれる。…箱詰めされる気分だ、思ったと同時、ドアが閉まった。
ガタン。振動と共に発進する車両。…が、なにしろ本当に隙間なくぎゅう詰めなので、客同士寄りかかり合って倒れることはない。犬飼は深く、息をついた。「……うぐぐ」
と、胸のあたりで。小さくうめきが漏れ、はたと顔を下ろす。
「…オイ猿、息できてんのか」
「…おー」くぐもった声で返すも、やはり顔は赤く、苦しげで。
むっと眉間に皺を寄せる。
次の停車駅のアナウンスが車内に流れると同時、犬飼はその腕をぎゅうと掴まえた。
ぽかん、とこちらを見上げるその視線をちらと見返し、
程なく駅へと辿り付き、人波がすこし途切れた瞬間を狙って、ぐいと壁際へと。「うぉわっ!?…あ、危ねえだろクソ犬!」
「叫ぶな」にべもなく言って、壁に寄りかかるその体を。
その顔の両脇に、腕をつけて。
生まれたかすかな隙間の中で、猿野がこちらをまたもぽかんと、見上げている。
犬飼はただ無表情に、それを見返した。「…あのう」
「何だ」
「なんなんですかこの状況」
「うるせぇな、息出来ねえんだろ」
「いや、…そうだけどよ、でも」
「お前はどうでもいいけど」ちょい、と視線を落とされ、猿野ははたと、手の中のものを見やる。
生きていることをようやく思い出したかのようにばたつく、小さなミドリガメ。「…亀子が」
ぽつり。
真面目そのものな顔で。
猿野はそんな彼の、整い過ぎの感すらある秀麗な顔を見上げて。「…ぶはっ!」
思い切り吹き出した。
「テメ、…きったねえなツバ飛ばすな!」
「わ、ワリ、でもお前のクチから亀子って!亀子って、ぶはは!」
「…駅着いたらテメエ、とりあえずぶっころ」
「いやーん冥きゅんこわーい!明美心不全起こしそう!」
「………。」ぎゅう詰めの地下鉄の中、2人はそんな状況で、そんな会話。
…彼らの今の体勢が、いわゆる恋人同士によく見られるかばい方であることに、2人が気付くのは。目的地に着いて下車するその時。周囲の視線にようやく気付いた時だった。
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