054:子馬
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左へひらり、右へひらり。地面についてしまいそうで、けれど決してつかない。量は多そうなのに、ひとたび元気に駆け出すと、風をはらんでかるがると舞い上がり、亜麻色の光を撒き散らしながら、主人のあとを追ってゆく。
同じく彼のあとを追いながら、ボリスはゆっくりと目を細めた。
そうしてなにげなく、当たり前の顔をして、やわらかそうなその髪を、うなじからひょいとすくい上げたのだ。「う、ひゃっ!?」
「おっと」
「ぎゃあ!」驚いたのはピエトロだ。きゅいっ、と靴の底を鳴らして急ブレーキ。ボリスも、そのうしろを走っていたラウラも一気に将棋だおしになりかけ、めいめい、狭い通路の中でぎゅうぎゅうと追突しつつなんとか…止まった。どうやらしたたか鼻の頭をぶっつけてしまったらしいラウラが、恨めしそうな声を隠しもせずに怒鳴る。
「なんだい坊ちゃん! 急に止まんないでおくれよ!」
「ごっ、ごめんなさ…! …えっ、あの、今?」
「ああ、すまない。僕が悪いんだよラウラ」
「はあ?」
「あんまり触りごこちがよさそうだったものでね」言って、懲りもせずにボリスはふたたび、腕を伸ばした。キャラメルブラウンの甘い色をした髪を、うなじから梳いて、指にのせる。思ったとおり、子ども特有の髪の細さで、たいへんにやわらかく触りごこちが良い。ピエトロの顔が、ふたたび強張った。そして、ボリスの背後のラウラの顔も。
「…ちょっと」
「ん?」
「なにやってんだいアンタは」
「いや。気持ちが良いんだよ」
「気持ちいーんだよじゃなくて、…ちょっ、ピエトロ! あんたもどーにか言ったらどーだい!」
「え? あ? う、うん…?」
「ピエトロ君。君の髪は綺麗だね。…それに」
「うえ? …うひあ!?」
「とても良い香りだ」ボリスは、すくい上げた髪を口もとに寄せ、すうと胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。暖かな太陽と、風の匂い。ボリスの胸が歓喜でいっぱいになる。この匂いと共に眠りにつけたら、もう悪夢なんか一生見ない、きっと良い夢にだけ抱かれて、ぐっすりと眠れるだろう……、
そんなことを思った瞬間、太股に蹴りを入れられた。
ゆっくりと振り向く。何故かぜえはあと息が荒いラウラが、般若のごとき形相で、今度は弓を構えていた。ただでさえ白い顔はさらに抜けるように白く、手が小刻みにふるえている。「…なにをするんだラウラ」
「坊ちゃんを離しな! 嫌がってるのが、わかんないのかい!」
「嫌がってる?」今度は前を向く。未だ、逃げるでもなくただじっと、髪をつかまれたままのピエトロの顔が、じいっとこちらを見上げている。健康そうな日に焼けた頬は、どうしてか真っ赤に染まって、とてつもなくあいらしかった。ボリスは、ふるえるまぶたに綺麗に生えそろった睫毛を、どうしても食んでみたくなった。そうして、実際にそうしようと身をかがめた。6つも年下の小さな少年にそうするには、おじぎするように腰を曲げなければならない。
「ボ、ボリ、ボリス、さっ!?」
途端、ピエトロの顔が真っ赤になって、あわあわじたばたし始めた。これではうまくできない。ちょっとのあいだ、じっとしていて。そう思って、ちいさな肩に手をかけた時、
「こっこんの、…痴れ者がああー!」
そう叫んだラウラに、脳天を思い切りぶん殴られた。
「……ん?」
ぽかり、目をあけると、薄暗い部屋の中、木の板が見えた。
いつも寝ている、傭兵所の待合室。一ばん壁がわの、二段ベッドの下段だ。枕もとに、昨夜読みかけで終えてしまった本が数冊、几帳面に重ねられている。…自分の、ベッド。
ボリスはゆっくりとまばたいて、ことり、と顔を横に向けた。…誰もいない。(食事の時間なのかな…)
実際、いつも人でごったがえすこの部屋が静かになるのは、そのとき以外にありえない。
いつのまにか外されたターバンの下、するすると髪が枕に散った。ずく、と後頭部が鳴って、なんだろうと触れてみると、やわらかい布地の感触。…包帯が巻かれている。ふと考え込んで、はたと思い出した。…そうだ。ラウラに殴られたんだった。しかし一体また、どうして?
そのときパタンと、ドアがひらく音がした。
見やると、水を張った桶と、タオルを持ったピエトロが、あっ、という顔をしているのと目が合った。「ピエトロ君……」
「お、起こしちゃいましたか。ごめんなさい」律儀にもぺこ、とひとつおじぎをして、てくてく歩み寄って来る。若葉いろの服に、小さくぱちゃぱちゃと水が跳ねて、いくつかの染みをつくった。ボリスは黙って、桶をサイドボードに乗せ、ぎゅうとタオルをしぼる、彼の一挙一動をながめていた。頭が、痛む。
「…君は、皆と一緒に行かなかったのか?」
「あ、はい」包帯がずれていないかどうかていねいに確認すると、ピエトロはそっとボリスの額に、タオルをのせた。冷たいものに触れてはじめて気づいたが、傷のせいで、熱が出ていたらしい。心地よさに、ふうと息をついた。ピエトロが、にっこりと笑った。
「夕ごはん、とっておいたんです。一緒に食べましょう」
「夕ご飯……」
「今とってきますから。ちょっと待っててくださいね」ぱたぱた駆けて部屋を飛び出し、戻るときには、お盆にのせたスープがこぼれないよう、そろそろと抜き足差し足、歩いてくる。ボリスの口もとに、いつのまにかゆっくり、笑みが浮かんだ。甘い、まろい、あったかな気持ち。ちょっとおぼつかない手つきでサイドボードへ食事をならべる、その姿を見ながら、ボリスの口からゆったりと声がこぼれた。
「…どうして皆と一緒に、行かなかったんだ?」
飲みやすいよう、自分のぶんのスープはカップに入れてくれている。ちいさな、やさしさ。
けれど、そのやさしさが、…なんと心を満たすことか。「え?」
「皆に誘われたろう。…僕の側にはいかない方がいいとも、言われたんじゃないのか?」
「………。」隠しごとのできない子だ。
う、と口篭り、ただでさえ大きな目をさらにぱっちり、見開く。それをふちどる、やわらかそうな栗色の睫毛。…なるほど。確かに、ラウラが殴るのももっともだと、今さらながらにボリスは思った。自分は少しばかり、危険な思考回路の持ち主であるらしい…なにしろ、いくらしっかりしているとはいえ、彼はまだたったの12歳のお子さまなのだ。「ピエトロ君…」
「な、ん、…ですか」
「僕、君が好きだな」けれど、言いたいことは、我慢できなかった。
どうしてだろう。…記憶を失う前の自分は、もうすこし、思慮に富んだ男だったと思うが。そのついでに、リミッターまで外れてしまったんだろうか?
…まあ、構わないが。
動きを完全停止して、こちらを凝視する大きな瞳を見つめながら、ボリスは微笑んだ。だって、自分は今、こんなにも幸せだ。「君は?」
「え、え」
「君は、僕が、好きかい?」狼狽するその姿が面白い。微笑みは、だんだんとくつくつと震え出し、終いには静かな笑い声へと取って代わった。ピエトロはぱちぱちと大きくまばたいて、ことり、と首をかしげた。何故笑われているのかわからないのだろう。ああ、面白い。少し考えて、ピエトロはゆっくりと、ちょっと恥ずかしそうに、反芻してくれる。
「ぼ、ぼくも、ボリスさんのことは、…すき、です」
「本当か」
「ほ、ほんとうですよ」
「そうか。嬉しいな…」
「………。」
「嬉しいよ」
「…あ、ありがとう、ございます…」混乱したまま何故か、頭を下げる。
ボリスは腕を伸ばし、寝転がったまま、その頭をよしよしと撫でた。一瞬ピクリと震えて、けれどすぐにおとなしく、されるがままになる。まるで慣れていない、子馬のよう。
今はそれでもいいさ。…好きという意味がどういう意味でも。「好意を持たれていることに、代わりはないんだものな」
「? …は、い?」今はそれでも、いい。
いつかすっかり慣れてくれることを考えるのも、なかなかに楽しいことじゃないか?
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