055:砂塵王国

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 どうか一杯の水を。
 そしてやわらかなベッドを。そう、例えば今、ミオかトウタあたりにでも鉢合わせたならヒューゴは迷わずそう口にしていたことだろう。けれど現実とは残酷なもので、二人は連日の戦闘による負傷者の治療に忙しく、のんびりと廊下を散歩しているなど有り得ないのだった。ヒューゴは項垂れ、けれどその結果目に映る胸に抱えた書類の山に、きっ、と視線を高くした。…そうだ、そんなこと言ってる場合じゃない、早くこの書類と資料クリスさんに届けなきゃ。アップルさん、あんな疲れた顔して『ごめんねヒューゴ君、早くね』って言ってたんだから。
 ぶるぶると頭を振る、一飛びに階段を飛び降り、向かうは一階会議室。
 クリスは今そこで、サロメとシーザーと3人で今後の作戦を話し合っているはずだ。
 トトン、跳ねるように着地、そしてくるりと方向転換。
 と、同時。
 ぼふ、と歩いて来た誰かの胸元に、鼻っ面を突っ込んだ。

「わぶ!?」
「うわ! …ああ、ああなんだ、お前か」

 呆れたような声に鼻を押さえながら顔を上げる、そこには窓から差し込む夕暮れの赤に染め上げられ、金の髪を眩く輝かせたボルスの顔があった。燃えるような赤い瞳がちらちら輝く、ヒューゴはぱちりとまばたきをして、そして慌ててぱっと飛び退り、

「す、すみませ…急いでて」
「いや、…構わんが。お前の方が今のは痛かったろう、鼻を打ったのか?」

 かっと頬を染める。そんなヒューゴを見下ろし、彼は言った。
 ヒューゴは鼻を押さえていた手を、大急ぎで避ける。確かに痛かったが血も出ていないし、なんてことはない、少し赤く、間抜けに見えるかもしれないが。
 いつもの甲冑を、ボルスが身に付けてなくて良かった、心底思いながら、へら、としまらない笑みを浮かべ。

「だ、大丈夫です!ちょっとぶつけただけですから、それじゃ!」
「あ、ああ…」

 呆気に取られている彼のとなりを駆け抜ける、そして逃げ込むように会議室へ飛び込んだ。
 ほんのすこし、駆けただけなのに異常に息が上がった。
 ぜえはあ肩を揺らす彼を、クリスたちがぽかんと見つめる。

「ヒューゴ、書類か? すまんな、…大丈夫か?」
「はっ、い、だっ大丈夫です! はいこれ、こっちが地図でこっちが…え、ええと」
「ん?」
「……あ、あれ? …えーと」
「…ああ」
「……すっすみません、もう一回確認して来ますっ!」
「ヒューゴ! …いい、大丈夫だ。内容は見れば判る」
「……あ…」
「ありがとう、アップル殿にもそう伝えてくれ」

 微笑み、言う、その笑みはとてもきれいだったがヒューゴは恥ずかしさで一気に耳まで真っ赤になった。クリスの背後で、シーザーがにやついているのも更にその感情を押し上げた。もう一度謝り、ヒューゴは部屋を飛び出し熱い息を吐き出す。ぷはあ、…ああ、もう、なにやってんだよおれは。

「……忙しいんだ、から」

 こんなことで動揺してるヒマなんて、ないんだ。
 ぶるぶると頭を振る、そして、さあ行かなきゃ。今度こそちゃんと、忘れずに。再び2階へと駆け上がろうときびすを返し、
 どふ。

「……今日は妙な日だな」

 ボルスが息をつく。
 ヒューゴはボルスの背に鼻先を埋めたまま、まるきり石の如く固まった。
 ひょい、とその背の向こうから誰かが顔を出した。…パーシヴァルだ、おや、とばかりに目を軽く見開き、これはこれは。小さく笑みを含み、呟いた。

「ヒューゴじゃないか。…そんなところに張り付いて、どうしたんだ?」
「っ…あ! あ、あ、ご、ごめんなさい!」

 真っ赤になって飛び退る、…2回目。1回でも死にそうなのに2回目。
 今すぐダッシュで逃げたい、恥ずかしい、ああもうなにやってんだよほんとにおれ。顔を見るのも憚られ、視線を落とし、ぎゅうと拳を握る、全身が心臓になったよう。ばくんばくんばくん、…うわほんとに、もう!

「…おい」
「は、はいっ…」
「鼻、…また、ぶつけたんじゃないか? 大丈夫か」

 そう言われてみると、痛かった。

「いえ、あの、平気ですボルスさんこそ、すみませんあの、何回も」

 けれどそれどころではない、とても言えない。矢継ぎ早にそう言って、この場から離れるチャンスをひたすらうかがう。パーシヴァルはなにか含みのある笑みを浮かべる、ボルスは仏頂面でそんな自分をじっと見下ろしている。
 ヒューゴは心底いたたまれなくなった。

「あ、の…」

 そして自分から切り出した、…が。
 大きな手が、そして長く意外に形良い指が…鼻先をすいとかすめたので、ヒューゴはびくりと驚いた猫のように竦み上がり、それ以上なにかを言うことは出来なかった。ボルスはじっと、じっとこちらを見て、そして鼻を確かめ、

「確かに赤くなっているだけのようだな。…気をつけろよ」

 ぽん、と頭を撫でた。
 パーシヴァルはまだ笑っていた。そしてきびすを返し二人で何事か言い合いながら、廊下を行き、やがて角を曲がり見えなくなった。
 ヒューゴは。

「………。」

 ひたすら、ひたすら目を見開き、程なくしてふらりとよろけ、壁にしたたか背中を打ちつけた。

 

 

 

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