077:欠けた左手

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「ねえねえエクサル」
「ん? どうしたリリス?」
「結婚式の日取りは、いつにするの?」

 エクサルは思わず持っていたミルクのグラスを取り落とした。グラスはエクサルのひざで一度バウンドし、豪快に彼のひざに中身をぶちまけてから床へと転がり落ちた。パン、とガラスが散った。

「わあ!」

 リリスが驚いて飛び退る。
 けれど当のエクサルは、ひざをミルクでびしょ濡れにされても、ダリアの怒号が飛んでも、ただひたすら呆然とリリスを見つめている。ただでさえ大きな漆黒の瞳が、こぼれ落ちそうなほど見開かれているのを見て、リリスも真似て瞳を大きく見開いた。

「どうしたの、エクサル? いきなり手をはなしちゃ、あぶないの」
「……リリス」
「なあに?」

 きょとん、首をかしげる。その様子は非常に愛らしいものだったが、エクサルも、そして店のすみで彼と同じく読んでいた本を思い切り取り落としたキロタも、そう思えるほどの心の余裕はなかった。
 キロタがぎりぎりと顔を上げる。射殺さんばかりの眼光に貫かれ、身の危険にエクサルはようやく我に返った。

「…そりゃ、一体、…誰と誰の話だ?」
「えっとね、うーんと…エクサルと、ヴァルトスさんのはなしなの」

 ごどん、と凄い音をたててザイオンが飲みかけの酒をテーブルに倒したのと、ステイエンが持っていた地図を思い切り引き裂いたのはまったく同時だった。

「………お、俺と…?」

 たとえそれが天使であろうと、悪魔であろうと、今のエクサルを見て憐れだと思わない人物はいないだろう。
 ぶるぶると小刻みに震え、白くなったり青くなったり赤くなったり忙しく顔の色を変えながら、恐る恐る自らを指差す。リリスはにっこりと愛らしく微笑みながら元気よく頷き、言い放つ。

「ヴァルトスさんとの結婚式! 二人はあいしあってるから、もうすぐ結婚するんだよね?」

 厨房の奥で、なにかが倒れてグラスや酒瓶がたて続けに割れる音が響いた。驚いたベイルが覗き込んでみると、ダリアが蒼白になって倒れている。
 大急ぎで人を呼ぶ彼の顔も、やはり同じ色をしている。

「な、な、な」
「リリスしってるの! あいしあってる二人は大人になったら結婚するの! こないだ結婚した町の人も言ってたの。エクサルはまだちっちゃいけど、リリスより大きいから、もう結婚できるんでしょ?」
「いやあの、男が結婚できるようになるのは18歳からだから俺はまだムリ……って、そうじゃなく! な、だ、誰が、俺とヴァルトス様があっ、あいっ……しあってるって!?」
「エクサル、ヴァルトスさんあいしてないの?」
「あっ、愛してないっつうか、尊敬はしてるけどっ……ってコラァ! お前らなんで遠ざかってんだよ、こっち来いよ、俺を一人にするなよぉ!!」

 いつの間にか仲間たちは一様に席を立ち、一般客たちとウェイターまでもが、店のすみで互いを守りあうかのように身を寄せ合ってなにごとかこそこそ言い合っていた。ザイオンに至ってはいつものポーカーフェイスはどこへやら、動揺しルカの背後に隠れるようにしてうずくまっている。いつもは広く大きな背中が、今はとても小さく見えた。
 なぜか耳まで赤く染めたカインが、皆に押し出され一歩前へ出た。
 もぞもぞと指を動かし、所在なさげにちらちらとエクサルの顔をうかがう。そして、目が合うと、決心したかのように拳を握り締め、懸命に言った。

「あ、あの、エクサル。…お互い、その、…あいしあってるなら、僕は……エクサルが幸せなら嬉しいし…おめでとうって、思うよ。その、マティアもね、好きなら性別なんて関係ないのよってよく、言ってたし」
「カイン、前から一度聞こう聞こうとは思ってたんだがマティアって…、………いや、いい。そ、そうじゃなく、だからっ!」
「い、いいのよエクサル。そうじゃないかとは前々から思ってたから」
「ステイエン! お前は一体常日頃どういう目で俺をっ!?」
「別に悪いことじゃないじゃない。確かに非生産的ではあるけれど、誰に迷惑かけるわけでもないんだし」
「ルカ……優しく言いながら口元がにやついて…!」

 最早エクサルの瞳はすっかり涙で濡れている。
 ようやく到着した担架に乗せられて、なにごとかぶつぶつうなされ続けるダリアが、パンク兵たちに運ばれて行った。

「リ、リリスちゃん。どうしてエクサルとヴァルトスさんが、その…。……そういう関係だって思ったの?」

 恐らくオブラートに包もうと思って選んだ言葉なのだろうが、かえって生々しいキロタの問い掛けにエクサルは頭をかかえて座り込もうとした。が、割れたグラスが大量に飛び散っていたので、べそべそ泣きながら店のまんなかまで移動し床に倒れ込んだ。
 なにかを想像してしまったザイオンの、足元がよろめく。
 リリスは細い指先をくちびるにあて、濃い桃色の瞳をくるりと見開くと、キロタを見つめ、罪のない微笑みでうーんと首をかしげた。そして、なんのてらいもなく言い放った。

「リリスがね、エクサルとヴァルトスさんてすごくなかよしさんだねって言ったら、シリアおねえちゃんが、二人はあいしあってるからよっていってたの」
「……シィィリィィアァァアァアアアーーーー!!!!」

 確かに地割れの音が響いたと、一同は思った。
 両の瞳がどす赤い眼光を撒き散らしつつ、光の速さで目標物を追う。思わずつられてその場の全員が、暖かな微笑を浮かべた四翼の天使の姿を探したが、彼女の姿はどこにもない。
 妹の危機を感じ、いち早く店を飛び出そうとしたベイルと、悪鬼のごとき形相でエクサルがその羽の一枚を問答無用にひっつかんだのはほぼ同時の出来事だった。
 ぐしゃりと遠慮なしに握り込まれ、純白の羽が何本か抜け落ち、はらりと床に舞い落ちる。

「ぐあっ!?」
「……ベイル…。……シリアはどこだ!!」
「し、知らん! …知っていたとしても言う訳には行かん!」
「……黙って吐いた方が身のためだぞ…!」

 常ならば、人懐こく笑んでいるはずの瞳は今は血走り、充血し真っ赤に染まっている。襟元を人間のものとは思えない力でねじ上げられながら、ベイルは戦慄した。…口から瘴気が立ち昇っている!

「さあ吐け! シリアは一体どこへ行った!?」

 さらにベイルの首を締め上げ続けるエクサルは、彼が喋ろうにも喋れない状態になっていることにも気付かずがくがくとその首を揺さぶった。まるで振り子のようにたやすく振り回される彼を、相変わらず店のすみに退去したままの仲間たちは誰一人として助けようとしなかった。日々、戦いに明け暮れてばかりの彼らだというのに、足がすくんで動こうとしなかったのである。
 そして、ベイルの顔色が青から土色に変わろうとしたときだった。

「ただいまー」

 元凶である天使の少女が、夕食の買い物を終え、笑顔でドアを押し開けたのは。 ギラリとエクサルの瞳が眩く光ったのと、すでに物言わぬ屍となったベイルが床に落ちるのと、そして…半泣きになったリリスが慌てて母がわりの天使のもとへと駆けたのも、やはり同時であった。なにごとかと濃い金の睫毛にふちどられた目をシリアがくるりと見開いたとき、眼前には赤き鬼神が地鳴りとともに立ちはだかり、腹には頬を濡らした幼子が、必死に彼女を護るように組み付いていた。

「…リ、リリス…それに…、……エクサル、さん? …どうなさったんですか?」
「どうなさったもこうなさったもねェーーーーーーー!!!」
「うわぁあぁあん! シリアおねえちゃんをいじめちゃダメなのーーーっ!」
「…おぐうっ!?」

 牙をむきだしエクサルが吠えた瞬間だった。
 いつの間に持ち出して来たのか、リリスのロッドがその頬に思い切りめりこんだ。
 どう、と音をたて、床にくず折れるエクサルと、店内の惨状を見、シリアはあまりのことにただでさえ白い顔を抜けるほど白くしながら、

「………えっと?」

 一様に蒼白の仲間たちに、首をかしげてみせた。
 びくり、とベイルの肩が大きく痙攣した。

 

 

 

 

 

 

「………う…」

 異常に熱を持ち、腫れぼったくなったまぶたを無理矢理にひらく。見慣れない天井が視界に飛び込み、ベイルはしばらく考え込み、ようやく、ここが先日より身を寄せているサイファー・パンクの、兵舎の一室であることを思い出した。窓から差し込む陽の光は、まだほの明るい。どうしてこんな陽も沈まぬ時分から、ベッドにいるのだろうと記憶を追い始めたとき、見慣れた顔が視界へと飛び込んできた。

「お兄様! …よかった、目を覚まされたのですね」
「……シリア?」

 いかにも胸を撫で下ろした様子の妹の顔を見た瞬間、すべての記憶がフラッシュバックした。
 身を起こそうとしたベイルを慌てて押しとどめながら、シリアはもう一人の白い手から…あのあざやかな青色の髪は、ステイエンだ…受け取った冷たいタオルを、そっとベイルの目の上へとのせた。状況が理解出来ず、タオルの下で目を白黒させる兄へ、シリアはそっと微笑んだ。

「すみません、お兄様…。わたしのために、こんなことになって」
「シリア……どういうことだ。お前はなんともないのか? エクサルはどうした。私は一体どうなったのだ」
「……エクサルさんは、隣りの部屋で寝ています」

 ベイル自身のことには触れず、シリアはぽつりと、それだけを言った。ベイルがそっとタオルをずらして覗き見ると、彼女は兄ではなく、どこでもない空を見つめている。ちらと見えたステイエンの横顔は、むしろ彼女の方こそ横になるべきなのではないかと思うほど顔色が悪く、固くこわばっている。
 ベイルは、自分の体を顧み、薄々はどうなったのかを察した。
 しかしまだ、すべてではない。
 低く割れた声で、ベイルは妹に問うた。

「……シリア、話は聞いているものと思うが…」
「…ええ」
「…何故そんなことを」

 ともすれば責めるような口調になっていたかもしれない。
 シリアは泣きそうに顔をゆがめると同時に、みるみる頬を桜色に染め上げた。そして、形良い眉を下げ、頬をそっと手のひらで覆った。

「だって…ヴァルトスさんが」
「…ヴァ、ヴァルトスが?」

 まさか出て来ようとは思ってもみなかった名が飛び出し、ベイルは思わず口ごもった。
 シリアは頷き、

「いつも、あまり笑ったり、怒ったりしない方ですのに…エクサルさんのことになると、よく感情をあらわになさるでしょう? だから、とても大切に思ってらっしゃるんですねって、この間お話したんです。そしたら」
「………そ、そしたら」

 語尾の部分は、かすれていた。
 シリアはついに耳まで真っ赤になって、くちびるにこぶしをあてると兄から視線を逸らし、

「……わた…、…”私は、あの子を愛しているからな“と、仰って…」
「……………。」

 ベイルはそっとまぶたを降ろした。
 急に痛み始めた額へ、そっとタオルを移し、いたたまれなくなったかのように立ち去っていく妹と、ステイエンの足音を黙って聞いていた。確信を胸に抱き。
 ……あの男にそうまで言われたなら、きっと、あの少年は。

 

 閉じたまぶたの向こうで、不意に、静まり返った廊下を行く足音を聞いた。空気が流れ、かすかな衣擦れの音がするすると響いて行くさまを、常に戦いの只中にいるベイルの五感は本人の意思にかまわず鋭敏に感じ取ってしまう。今、この時ほど、常ならば重宝しているはずのそれを彼が恨めしく思ったことはなかった。
 足音は隣室で止まる。
 カチリ、と、鍵が回され、ドアが開き、そしてまた、カチリと鍵がかけられた。

「…………あ、…ァ、ヴァ……ス…さ…?」

 …何故、こんなに薄い壁をしているのだ、ここは!!
 鍵がかけられる数瞬前、確かに聞こえた寝ぼけ声をさえぎるように、ベイルは頭から毛布をかぶり、ベッドの中に丸くなった。暗い。あたたかい。だから私には、もうなにも。

「………え、わ、ヴァル、…あ!? …う、ぎゃぁあああっ!!?」

 なにも聞こえない。

 

 

 

 

 そして逃げることなど、叶うはずもない。

 

 

 

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