084:鼻緒

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 替えたばかりの鼻緒が切れた。
 その時感じた嫌な予感、
 思い過ごしであれと心より念じたものの、
 …やはり問屋が卸さぬのは、最早日常のうちで。

 

 

 一体どこから嗅ぎ付けてくるのだろう。
 逃げて逃げて逃げて、ここまで来れば大丈夫だと思ったその瞬間。…必ず目の前に現れる彼女を、そら恐ろしくさえ思う。たった一度だけ、問うてみた時彼女はころころと笑って『嫌ですわカザミネ様、勿論愛の力の為せる技に決まっているじゃありませんか』と何でもないことのように言ってのけた。
 そうして今日も、彼女は。
 カザミネはにっこりと花開くような笑みを浮かべるケルマを、まるで木偶人形のような真顔で見返した。

「こんにちは、カザミネ様。今日もお元気そうで、何よりですわ」
「…ケルマ殿も」

 はははは。笑みは返す、返すが、…どちらかというとそれは彼女に向けられたものというよりは、自嘲を含んだもので。
 けれどケルマはそんな彼の心情を知ってか知らぬか、もしくはそんなことはどうでも良いのか、あでやかな衣装をさらりと揺らして、彼のとなりへ腰掛ける。

(もういい加減、観念したら?)

 また、今日も。
 無責任に笑いながらの、少女の声が耳に響く。
 …トリス。…しかしな、
 拙者にも選ぶ権利というものが、
 いや決してケルマ殿が魅力のない女性だという訳ではなく、…嫌っている訳ではないが。
 そう、煮え切らない態度ばかり示すから彼女がいつまでも諦めず、自分を追って来るのだということに。気付いても良さそうなものなのだが。
 しかし今日もカザミネは、迫り来るあらわな胸元と、鼻につく甘い花の香りに耐え抜かなければならないのだ。
 額、頬、背中。汗が噴き出し、流れ落ちる。顔が熱い。わなないて、上手く口が回ってくれない。
 そもそも全く女に慣れというものがないのだ、カザミネという男は。
 ましてやこんなふうに熱烈に迫られたことなど、正直、人生初の体験である。
 それでも、
 それでも、言わねばなるまい。己の為にも、彼女の為にも。
 真摯に自分を射る視線、
 カザミネは覚悟を決めた。

「……ケ…」
「実はねカザミネ様」

 けれど出鼻を挫かれた。
 そしてあっさりと、決めた筈の覚悟は砂塵と消えた。カザミネは見るからにうっと口ごもり、たった今切り出そうとしていた台詞はあっという間にわからなくなってしまった。

「……な、何で、…ござるか」
「お伝えせねばならないことがあるのです」

 声は、真剣だった。
 …何だか様子がおかしい。カザミネがようやく気付いた、その時には、ケルマは困ったような眼で、じっと彼の顔を見ていた。綺麗に塗られた口紅が、天の光を浴びきらきらと光る。
 ミニスと喧嘩をしたり、喚いたり、黄色い声でまとわりついて来たりばかりで。
 きちんと彼女の顔を、真正面から見る機会などそうはない。

「……私…」

 金の睫毛にふちどられた瞳が、やにわに潜められる。
 ギクリとした。

「…ケルマ殿?」
「…カザミネ、様」

 声が震えた、
 そう思った瞬間、瞳が、どうしようもなく悲しげに細められた。
 なんだ、なんだ、なんだ、
 …まずい、そんな、いきなり何で、今にも泣きそうな、……

「次の満月の日」
「……え?」
「ファミィ・マーンからの命で私は…私は、旅に出なければなりません」

 ほろほろとこぼれるような声。
 旅に。
 …え?

「……どこ、まででござるか」
「それは、…申し上げる訳には参りません。今回の命は例えカザミネ様とて、明かす訳には行かないのです」
「…そうか」
「ですから、暫しのお別れですわ」

 にっこりと、けれど眉は、目は、どこまでも悲しげに。
 ケルマは『作れない』女であることは、よく分かっている。
 怒り、喜び、思慕。全てをあらわにする女であるから、
 これも嘘ではないのだと。痛いほどに、伝わる。

 

 ……好都合ではないか。
 その間に拙者はまた、世界を流れる。風の向くまま気の向くまま、明確な目的地もないままに流離うだろう。
 そうなればもう、余程の縁がない限り出会うことはない。それで良いのだ、自分には彼女の想いを受け止めることなどきっとずっと出来ないのだから。それならば、今、ここで、
 断ち切ってしまえば。

「ですからカザミネ様」

 そっと白い手を膝に添え、凛と背を伸ばし、懸命にこちらを見据え。

「お聞かせ下さいませ、…いつかを信じて良いのかを」

 

 赤い唇がふるえている、   ──駄目だ、
 眉がきつくなるのを耐え、   ──言うな、
 顔は緊張で青白くなり…   ──駄目だと、 …言うのに!

 

「いつ…」
「え?」
「いつ、戻られるのでござるか」
「……恐らく、…3つ月が巡る頃には」
「…そうか」
「………。」
「………。」
「…あの…」
「………。」
「カザミネ、様?」

 ああ、
 この、大間抜けめ。

 カザミネは困り果て、けれど知らず、微笑んでいた。ケルマの頬に赤みが昇る、…それがまるで花開くようで。とても美しいと思った。思うな思うなと念じたところで、やはり。
 美しいものには抗えない。
 そしてやはり今日も、

「カザミネ様ー!」
「う、うわあわ、…ケッケルマ殿、このような往来でそんなに密着してはならぬと言うに!!」

 やれやれと息をつく皆の見守る中、再び日常は繰り返される。 

 

 

 

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