086:肩越し
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「…キーファ」
「ん?」
「…そうやってられると、…字がよれちゃうんだけど」アルスは言った。
心底から絞り出すように言った。
そういう彼の右手には一本の羽根ペン。左の肘の下には、巨大な、そしてまだほとんどの部分が真っ白な、羊皮紙がテーブルに広げられている。数箇所に点在し描き込まれた、いくぶん不器用な図とその中に書き込まれた地名を見るに、彼自作の地図であることがわかる。
そして今、アルスは新しく地図の右端部分に大陸を追加し、その中に文字を書き込もうとしている。…の、だが。「だって寒ぃんだもん。この部屋、暖炉小さすぎるよ。なあ」
「だったら鞄の中にセーターがあるからそれ羽織ってなよ。おなかこわすよ?」にべもなく言う。アルスは肩と背中に乗っかっている背後霊が、胸に腕をまわしてくるのをなんとかはずしながらペン先をインク壷に突っ込んだ。安宿の備え付けのインクは、どこかべたっとして渇きが異常に遅い。それでも使えることに違いはないのだから、上等だ。するりと羊皮紙にすべらせる。たったの数文字、すぐ書き終える。…そう、書き終えられる、はずなのだ。
この腕が邪魔さえしなければ。「……キーファ」
「んー?」声を低く呼びかけても、声はなおのこと楽しそうに間延びするだけ。
アルスはそれ以上、なにか言うのをあきらめた。ただでさえそれほどきれいな字を書けるほうではないというのに、眠気に負けかけているような、それどころか利き手の逆の手で書いたような文字になってしまうが読めないこともない。マリベルには、あとで文句を言われるだろうが。
しかたがない。
この背後霊と、あのわがままな女の子に振り回されるのは、いつだって自分の役目なのだ。
なんとか残りを書き終えると、アルスはペン先をぬぐい、インク壷のふたをしめた。
羊皮紙をたたんで鞄にしまうのは、明日の朝でもかまわないだろう。どちらにしろ、そう簡単にこのインクは乾かない。だから、「…もう」
「へへへ」やれやれと息をつきながらも、首に回される背後霊の腕に手をかけた。
それはもう嬉しそうに笑うキーファの顔は、自分よりずっと大人びた顔立ちだというのに、なぜか、幼い子供のように見える。王族のくせによく焼けた肌と、どこか不敵に瞬く瞳と、真っ白な歯と、体裁など気にせずいつでも大きく開いて笑う口。
その口が、アルスの首筋にキスをする。
くすぐったくて身をよじり、笑う。キーファは尚も調子に乗る。静止の声も聞かずに、アルスの顔を上向かせる。「俺さぁ、お前のこと、ほんとに、大好きだぜ」
そして体裁などない口は、なんの迷いもなく言うのだ。
不敵に輝く瞳で見つめ、子供のように笑いながら。
王族のくせに。
王子のくせに、そんな、無責任なことを。「……うん」
けれどアルスはその言葉を、やはり無責任に受け止める。
責任や、自分達の立場や、これから行く先なんかいちいち考えていたら。
キーファの親友兼恋人など、到底やっていられない。
夜はまだ深けたばかり。
インクは未だ、乾かない。
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