089:マニキュア
--------------------------
「うーん…。でも、簡単にはがしちゃうのはもったいないくらい、きれいに塗られてますねぇ」
「………アティ…」アティは、所在なさげに自分に手をつかまれている男の指先をゆっくりと一本一本確かめながら、しみじみと呟いた。
パールホワイトを下地に、淡い桃色と濃い桃色でグラデーションを作り、更にその上に、玉虫色で水が一筋流れ落ちたかのような模様を描き込み、ところどころに銀の石を散らしてある。カイルやギャレオと比べれば華奢とは言え、ごく普通の成人男性の手指を持つヤードの爪は当然、優雅に長く伸ばされたりしておらず、とてもネイルアート向きとはいえない。それをここまで美しく飾り立てる、スカーレルの手腕にアティは心底感心していたのだった。
ただし、それは女の観点からものを見た場合だ。
だから、「すごいですねー。今度、わたしもお願いしたらやってくれるかしら」
羨ましそうに彼女が呟いたとき、ヤードは思い切り眉をしかめ、小さく低く「アティ」とその名を呼んだ。
アティははっと我に返り、慌ててへらりと笑って茶を濁す。「ご、ごめんなさい。そうでしたね」
「…いえ、…すぐ落ちるものですか。朝食までにはなんとかしたいのですが…」
「は、はい、大丈夫、すぐですよ」そっとヤードの手のひらを彼の膝に戻すと、手早くリムーバーを取り出し、たっぷりとコットンにふくませる。花の香りづけをされてはいるものの、やはり消し切れないシンナーの独特の匂いが室内を満たす。アティは慣れたものだったが、ヤードの眉間にはさらに深く皺が刻まれた。
アティの朝は、早い。
夜も明けきらぬ時分に起き出し、まずは軽い走り込みで体をあたため、続いて剣の素振りと瞑想、一風呂浴びてから自室に戻り、授業の準備にとりかかる。食事当番のときには、さらにこの後台所でおたま片手に走り回ることになる。
そんな彼女のいかにも模範的な生活習慣を見て、スカーレルは眉をしかめてあくびをかみ殺しながら、えらいのねえセンセ、アタシには絶対真似できないわ、と言ったものだったが。
……でも、こういうことをするためなら早起きできるんですね。
それとも、早起きしてきたのではなく、またどこかへ呑みに行った朝帰りの頃の出来事だったのだろうか。苦笑しながら、骨ばった指先をコットンで包み込む。痛くないよう親指の腹でていねいに押すように拭き取ると、表面のラインストーンがとれ、コットンにこびりつく。キズをつけないようそれを取り除いてから、またゆっくりと、残ったマニキュアをはがし取る。
ヤードはなにも喋らなかったし、アティも目の前の仕事に夢中だったので、なにも言わなかった。
互いに黙りこくったまま、ただひたすらコットンにリムーバーをふくませては、きれいな桃色の模様をヤードの指からはがしていく。一本一本ていねいに、爪の端にも残らぬように。
左手がすっかりきれいになり、さあ次は右手というときだ。「…アティ」
押し殺したような、ヤードの声が落ちてきて、アティははたと我に返るとそっと上を仰ぎ見た。
いつも、おだやかな微笑みばかりをたずさえているはずのその瞳に。
困惑と、わずかな羞恥が見てとれて、アティはぱちりと目をしばたいた。「どうしました?」
「いえ……、…あの、これは、そこの液体をこれにふくませて拭き取ればとれるんですね?」
「ええ、そうですよ。もう半分ですから、すぐです」
「それでしたら…。……残りは自分で出来ますから、貸して下さい」
「えっ?」きょとんと首を傾げる間もなく、ヤードはさっとアティの手からコットンを奪い取ると、力任せにごしごしと自分の指先をこすり始めた。アティは慌てて、その手を押しとどめて、
「だ、だめですよ。そんなに強くこすったら、爪の表面がはがれてきちゃいます。わたしがやってあげますから」
「い、いえ、あの」
「…どうしたんですか?」今度こそ訝しげに眉をひそめたアティを見て、ヤードはなんといったものか言葉が浮かばないらしくしばらくの間コットンを指先に摘んだままじっと固まって、ともすれば少し怒っているようにすら見える渋面で押し黙った。アティが首をかしげたので、その豊かなまばゆいばかりの赤い髪が小さな肩を滑って、するすると白いマントに散る。
ヤードはその動きをじっと目で追って、息をつき、コットンの湿っていない部分を指先でぎゅっと挟み、こすった。繊維がよれて、ミルフィーユのように一枚一枚の層があらわになって行くコットンを見て、アティは新しいのに変えなくちゃだめだなと考えていた。「…どうもこうも」
「え?」
「いえ…。……私がおかしいんでしょうか。あなたは、ちっとも気にしていないようですし」
「な、なにがでしょう」わたし、なにか変なことしたかしら。手に汗をかいていたとか。
けれどもちろんそんなことではなく、ヤードはふと困ったように微笑んだ。
かすかに花の匂いがした。「あなたに触れられてこんなに緊張しているのは、私だけなのかと思っていたんですよ」
ぼっとアティの頬が赤く染まった。
窓の外で、朝食の時間を知らせるソノラの声が明るく響いていた。
--------------------------