093:Stand by me

--------------------------

 

 

 深緑の、ところどころに上等の金糸で刺繍を施された天幕が、真珠色に波打つシーツがふわりと一面を覆う巨大なベッドをゆるやかに包み込む。
 その中央には、まさに絶世とも言うべき美しき人が静かに寝息を立てていた。
 恐らく立てば腰まではあろう銀の髪は朝だと言うのにくせひとつつくことなく、主の眠るその横顔を、そして伏せられた同色の豊かな睫毛を、ただ静かにさざめくように照らしていた。
 眞魔国三大美人と名高い、眞魔国魔王王佐、フォンクライスト卿ギュンターである。
 彼の寝姿を知る者は眞魔国広しと言えどそう多くはない。彼の養女であるギーゼラでさえ、そう見たことはなかった。
 ゆえに、その美しきひとの隣に、にっこりと愛らしく笑みの形を作った黒髪黒目の少年……言わずと知れた、新魔王シブヤ=ユーリの姿を形づくった……あみぐるみが常に控えていることを知るのは、その製作者であるグウェンダルくらいのものである。

「うぅ…ん、…」

 不意に、ギュンターがうめいた。どうやら目覚めの時が近いようだ。
 ギュンターは半覚醒のまま、くすくすと年頃の乙女がもらすような笑みを浮かべ、枕もとの陛下ぐるみを掻き抱いた。

「うふふ…うふふふ……陛下ったら、まったくおいたが過ぎますよ…。人前ではそうあまり甘えてばかりではいけないといつ…も………、…………はっ!!?」

 そして唐突に覚醒した。
 ギュンターは大慌てで飛び起き、寝巻のすそがめくれ上がって太股があらわになるのも構わず、青くなったり赤くなったりしながらひたすらユリぐるみに平伏する。

「わ、私としたことがっ! 身分のほども考えず、また、なんという夢を! …ああっ申し訳ございません陛下、私は、私はまた性懲りもなく陛下を汚してしまいましたっ…!!」

 一体どんな情景が彼の中で繰り広げられていたのかはわからないが、とにかく彼はどこに毛穴が存在するのかすらわからない、陶器のように美しい頬に涙を流しながら頭を下げ続けた。けれど、1分ほどもそうすると突然ぽっと頬を染め、

「…ああ、けれど、今日の陛下も実に可愛らしかった…。特に第3幕で悪漢に捕われた私を救いに来てくださったときの、あの凛々しさと言ったら! …そうだ、忘れないうちに早く日記に書きとめておかなくては!」

 胸に抱いたユリぐるみをそっと元の場所へ横たえると、太股丸出しのままギュンターは大急ぎで机に走った。低血圧のヴォルフラムあたりが見れば、見ただけで貧血を起こしそうだ。
 疾風のごとき速さで書き付けているにも関わらず、日記の上に刻まれていく文字はどこまでも秀麗で美しかった。そして刻まれて行く言葉も…その内容はともかく…やはりどこまでも美しく夢見がちなものである。元々夢が元なのだから当然とも言えるが。
 ちなみに表紙に刻まれたタイトルは、『夢から始まる愛日記』。
 何を求めているのか。それをうかつに聞く者は、殺人光線で焼き殺されることだろう。

「ふう…。ああ、いけない。もうこんな時間ですか」

 カタン、と清涼な音と共に卓上にペンを置くと、先ほどまでの鬼神のごとき形相はどこへやら、フォンクライスト卿の表情は一仕事終えた満足感できらめいていた。すっくと立ち上がり、素早く服を着替えると隣室にすぐ備え付けられている浴室へと向かう。備え付けられている、そこらの娘にでもプレゼントすればさぞ喜ばれそうな細かな細工の施された美しい壁掛け鏡を見ながら、髪を梳き、歯をみがいて、身だしなみを整える。
 キューティクルは見事な天使の輪。にっこり甘く微笑んで耳もとへ睦言でもささやけば、どんな女性でも、時には男性すらいちころだろう美しさに、更に拍車がかかる。

「これで良し。さあ、陛下を起こしてさしあげなくてはっ」

 けれどその微笑みはまるきり恋する女子中学生のそれだ。
 うふふ、とほころぶ口元を袖で隠しながら、ギュンターは颯爽と自室を出た。
 細かなレース編みのカーテンが初夏の早朝の風を受け、さらさらと震えていた。
 ちなみに製作者はやはりグウェンダルだ。

 

 

 

 軽やかなノック。コンコン、陛下、朝ですよ。起きて下さい陛下。コンコンコン、陛下、…へーいーかー?
 返事がない。
 ちなみに懐中時計の指す時刻はジャスト6:00。毎朝恒例のコンラッドとのジョギングまで、まだ30分ある。ギュンターは不意によろけて後ずさると、白い顔を更に白くして、ぶるぶると震えながら呟いた。

「へ、陛下…。私などに起こされるのは嫌だと申されるのですか……このギュンターが、お嫌いだと申されるのですかっ!!?」

 誰もそんなこと一言も言っていない。
 ひとしきり一人で悲しんだ後、突然ギュンターの動きが止まった。はっ、と息を飲み、何事か思索する。その内容はともかく、見た目だけならこれほど美しいものはない。

「ま、まさか。…陛下、そんな、…お戯れを。……私ごとき下賎の者を、部屋に入れても良いと…そして直接起こせと……そう仰っているのですか陛下!?」

 やはり誰もそんなこと言っていない。
 けれどもちろんギュンターは、真剣にそう思い込んだ。そしてためらいの表情を見せたが、それもほんの数秒のこと、ほんのり頬を染め、「陛下の願いを無碍には出来ません……本来なら許されることではないのですが…仕方がありませんね。失礼致します」

 そっとドアを押し開いた。ちなみに鍵は何故か最初から持って来ているので問題ない。
 部屋の中は、しんと静まり返り、部屋の中央に置かれた豪奢なソファの端に、ユーリが昨日着ていたもの…ギュンターが国中の仕立て屋から選りすぐった美しい黒の衣装、だがその形状はどう見てもただの学ランである…が、放り出されている以外、室内に特に乱れは見られない。ごくごく一般的な中流家庭で育ったユーリは、当然こんな部屋を自室にあてがわれたことなど生まれてこの方初めてのことで、汚したり散らかしたりするのを非常に怖がるのである。「だってこんなフカフカの絨毯とか、おれ月の小遣い五千円だし、絶対弁償できねーもん」という彼の弁に、ギュンターは「なんとご立派な! 民の血税の浪費を少しでも減らそうというお考えなのですね!」とむやみに感動していた。
 閑話休題。

「陛下…朝ですよ。起きて下さい。……陛下…」

 そう言いながらも蚊の鳴くような声しか出ていない。仕方がないですねえ、などと、けれどどこかうきうきした声で言いながらギュンターはベッドへ歩み寄った。どれだけ転がっても端に辿り着けないほどの巨大なベッドの端っこに、小さな山が出来ている。

「陛下。…もう、起きて下さいったら」

 美しいすみれ色の切れ長な瞳は、これ以上ないほどやに下がっていた。ほころぶような微笑みを浮かべつつ、そっとシーツの山を揺らす。
 それでも起きないと見て取ると、ゆっくりとまばたきをしてから、ついでに生唾を飲んでから、ギュンターはそっとシーツをめくり上げた。
 そして、

「……ぎゃあぁあああぁっ!!?」

 美人が発する類のものではない叫び声を、上げた。

 

 

 

 

 緑豊かな中庭を、一人の少年が駆けて行く。朝の光を浴びても尚黒い髪、子犬を思わせる人懐こい丸みを持つ双黒の瞳。発育途上の手足。そこらの野球小僧的な造作。
 ここ眞魔国第27代へなちょこ新前魔王、ユーリである。
 どうやら足元を転がる白球を追いかけているらしい。ようやっと追いつき拾い上げると、くるりと振り向き、はるか遠くに控えていた男へ、思い切り投げ返す。早朝の白い空に、白球は溶け込むように吸い込まれて行く。
 ぱぁん、と小気味良い音が響き、白球は見事、男の手にはめられたグローブへと受け止められた。

「なるほど」

 言って、男……コンラッドが、にっこりと人好きのする笑みを浮かべる。

「早朝練習というのも気持ちが良いものだ。メニューに加えてみて正解でしたね」
「だろー?」

 へへへ、と悪戯っぽく笑いながら、ユーリは息を整えつつ、頬まで流れて来た汗を手でぬぐった。するとすかさず洗いたてのタオルが差し出される。相変わらずそつがないなあ、思いながら、ユーリは遠慮なくそれを借りた。顔を埋めると、思わず息をつくほど気持ちがいい。

「その代わりもっと早起きしなきゃなんなくなったけどな。まあ、どうせテレビもゲームもないし、夜更かしなんかしないから平気だけど。…あ、でも、コンラッドは違うよな。もしさ、仕事とか忙しくてこんなに早起きするのキツイってんなら、別に無理して付き合ってくれることないんだぜ?」
「無理? とんでもない。陛下は俺のささやかな幸せを、奪ってしまうおつもりですか?」

 真顔でそんなことを言う。
 ユーリはぽかんと目を見開いて、その口元が、やがて先ほどまでと同じようにやわらかく笑んで行くさまを呆然と見上げた。大きな手がそっと汗で張り付いた髪を整えてくれる。

「……へーかとか呼ぶな。名付け親のくせに」
「そうでした」

 思わず唇をとがらせて、憮然として言ってしまったものだから、それはあからさまに照れ隠しとしか取れない言葉だった。ユーリ自身それに気付き、はっと顔を赤らめたものの、コンラッドは何事もなかったかのように飄々として、ただにこにことそれだけ言う。
 そんな会話を交わしていたので、王の私室からなにか物凄い叫び声が聞こえたことに、二人とも全く気付かなかった。

 

 

 

 

「…全く夫婦の寝室に勝手に上がり込んで来るとは…」
「誰が夫婦ですか! まだ正式に婚姻を交わした訳では…うっうっ、陛下ぁ、どこへ行ってしまわれたのですかー」

 何故か朝っぱらから不機嫌絶好調なヴォルフラムの頬に引っ掻き傷があったことにも、ギュンターがキューティクルも台無しの酷いぼさぼさ頭のまま、しくしく泣き続けているのにも、そして上の弟と王が朝食の時間にいつまで経っても現れないことにも。
 懸命な長兄、グウェンダルはひたすら無視を決め込み、ぎりぎりと痛み続ける胃のために、ホットミルクを飲み続けていた。

 

 

 

--------------------------

back