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雪中行軍遭難(1902)30年祭に集まった生き残りの方々です。
前列左から二人目が祖父の阿部寿松です。
緘口令が布かれて居た様で、祖母も一人娘の母も詳しい事は
何も知らないということでした。
また、事件を示す遺品等は今は一切残っていません。 |
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重傷の2人の病室内の写真。
手前が祖父、寿松です。 |
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祖父、寿松が椅子に座っている写真。
両手足が凍傷のため、切断されています。
当時の麻酔薬では痛みに耐えられず、大変だった様です。 |
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前出病室の重傷者2人の切断された手足の写真。
右が祖父、寿松のものです。 |
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青森衛戍病院で大手術を受けた後、浅虫温泉で養生する生存者。
手術は山形衛戍病院一等軍医 中原貞衛氏
祖父寿松は前列右端。 |
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阿部寿松に賜った御下賜の義手、義足です |
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生存者11名の記念写真(明治35年10月)
後列中央の3名は将校で無傷。8名の兵卒は義手・義足を着用。
前列右端が祖父阿部寿松です。 |
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明治39年廃兵院法が公布された。日露戦争での傷病者36000人
ほどの為、療養と技術獲得を目的として作られ、40年に巣鴨に移転
した。
八甲田山での生存者も受け入れて貰える事となり大正2年から8年
の間祖父寿松も入院した。家族は院外の住宅に住みお互い自由に
行き来したとの事である。
写真は祖母イワエと小学校に入学時の頃の母(平成15年現在93歳) 母の記憶では、入学式の付き添いは父親が多く、身障者が多かったとのこと。
撮影は東京巣鴨町養育院前ヨシバ写真館吉場藤浪と成って居る。 |
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廃兵院は昭和9年傷兵院と改称され昭和11年小田原に移転するまで巣鴨の地にあった。
今は、その一部は巣鴨公園となっており記念碑が建っている。
廃兵院の敷地は江戸時代の頃は松平播磨守下屋敷があった所で
明治41年三井家が宍戸子爵から19000坪を購入し陸軍に寄贈したと言われている。
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1927年母は婿養子と成った父正二と結婚。
三男三女を育てあげてくれた。私が長男の甚六。
母は今92歳。 足腰は年並みに弱ってはいるが、頭はシッカリ
しており、72歳の私は何時まで経っても子供。
何よりも、兄弟姉妹が夫々の連れ合い共々元気に過ごして居られる
のは祖父母・両親のお陰と感謝、感謝の気持ちで一杯です。
祖父寿松は、後列左に義足を付けて立ち、我々兄弟姉妹を見守って
くれて居ります。 |
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黒石町二渡りに落ち付いた祖父母は、孫の出産に備えて家を新築
し様としたが工事が完成する前に、仏間で初孫正行(このHPの管理人)とのご対面。
この家も私が(管理人)が60歳で現役から離れると同時に、その役目を終えた。 |
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祖父寿松は、周りから押されて村会議員となるも、リヤカーでの送り
迎えが辛く、一期で議員を辞退したとの事である。
左から三人目が祖父寿松。 |
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平成14年1月23日(1902)の八甲田山で起きた雪中行軍遭難百年
追悼行事が行われた。
幸畑墓苑では雪が舞う中、陸自第5普通連隊の儀じょう隊が犠牲者の霊を弔って呉れた。 読売新聞より |
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八甲田山遭難100年慰霊式で配布されたパンフレットから。
イタリアの新聞で報じられた絵図。
「ラ・ドメニカ・デル・コリエール」明治35年2がつ16日発行で紹介
された想像図。
世界中の注目を集めた事件だったことがうかがえる。 |
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八甲田山遭難100年慰霊式で配布されたパンフレットから。
捜索・救援の模様を描いた錦絵。
明治35年2がつ、東京で発行されたものの一部。 |
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八甲田山遭難100年慰霊式が式典は行軍遭難史跡保存会や市などがつくる実行委員会が主催して、6月23日遺族や市民ら約500人が
集まって幸畑墓苑で行われた。 |
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慰霊式に招待された遺族の皆様。 |
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八甲田おろし太鼓を演じる子供達。 |
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捧げ銃で慰霊する儀じょう隊。 |
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八甲田山遭難の思いを込めて建つ、後藤伍長の立像。 |