足立市場
沿革


 市場の歴史は江戸時代まで遡ることができます。当時は、場所も千住河原町にあり、
「千住青物市場」と呼ばれ、主に青果物を扱っていました。

 「千住青物市場」は、天正年間に始まったと言われており、立地が奥州街道・中仙道に通じ要衝の地にあったことから
神田・駒込とともに江戸3大青果物市場に数えられ幕府の御用市場として繁栄しました。
しかし、明治維新後は御用市場としての特権が失われ、問屋・仲卸及び組合が一時解散し、市場は衰退します。

 東京府では、衰退した市場の復興策として、明治10年に、「魚鳥並びに青物市場及問屋仲買営業例規税則」等を公布して
市場数を定め、問屋、仲買に鑑札を与える等して市場の保護発展に努力しました。

 大正12年3月、中央卸売市場法が公布されます。
この年の9月に関東大震災が発生し、日本橋の魚市場は芝浦に移転しますが芝浦に搬送される魚類が、
南千住「隅田川駅」に集積されましたが、輸送手段の不足から芝浦まで運びきれず多くの品物が廃棄されました。
 このような状態を危惧した人々の力により、南千住に「汐入魚市場」が開場します。

 大正13年3月、東京市においても同法により中央卸売市場の建設計画に着手し、
第1次計画として本場(築地)・神田分場及び江東分場を建設し昭和10年にそれぞれ開場しました。
また、昭和7年7月には、各地に散在している私設卸売市場を統合吸収するために、
第2次計画(足立・荏原・豊島及び淀橋分場)を策定しました。 
この間「汐入魚市場」は、大正14年2月に西新井に移転して、「東京北魚市場」に変遷しました。

 東京都は、昭和17年、現在地(橋戸町)に28,433uを買収、同17年3月に着工し、同20年2月11日に完成しました。
この市場は、千住河原町にあった青果市場荷受組合と西新井村本木町にあった東京北魚市場を収容し、
城北地区の中核的役割を担う水産物部と青果部の中央卸売市場足立市場として開設しました。
しかし、時代は第2次世界大戦の真っ只中で、会場わずか62日目の、
昭和20年4月13日に戦災に遭って施設が全焼したため、木造での営業を余儀なくされました。

 戦後は、市場整備のための用地買収を次々と行い、昭和43年から新しい施設の建築が始まりましたが、
取扱量の増加に伴って施設の狭隘化が著しくなったために、
青果部門を昭和54年9月17日に足立区入谷(北足立市場)に分離・移転させ、
足立市場は水産物専門の市場として改めて発足する事となり、現在に至っています。
参考文献   東京百年史   千住魚河岸50年史   新修 足立区史下巻



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