アメリカン・ビューティ
監督:サム・メンデス

 僕は、自分が見るまで他人の批評・感想を見聞きしないようにしているのだが、朝日新聞の映画評は目に入ってしまった。『好況に沸くアメリカゆえの悩みといえないこともない』と、まるで日本人には関係のない事柄を描いているかのような、アメリカの好況をやっかむような他人事のような事が書かれていたが、この批評はまったくの的はずれである。この批評を書いた人物は、この作品の事を理解出来ていない。
 この作品に描かれている事は、全世界の中産階級のオジサン・オバサンに通じる事である。この作品を見て身につまされない中年はずいぶんお気楽だと思う。
 まさにこの作品は、『中年の危機』を描いているのだから。
 
 アカデミー賞の発表の時に流される映像を見ていて、中年夫婦にまつわる程のいいライトコメディかと思っていたが、さにあらず。監督のサム・メンデスはビリー・ワイルダーを尊敬していると監督賞受賞のスピーチで語っていたが、その辛辣でビター・ユーモア満載な語り口は、英国風ワイルダーだ。あまりに身も蓋もないので見る側が困ってしまうほど。主人公がこれほどあからさまにオナニーするアメリカ映画があったろうか……。
 それでも、主人公レスリーが娘の友達の美少女に恋してしまったり、妻がやり手の不動産王に参ってしまうあたりまでは笑っていられるのだが、だんだんと恐く、切なくなってくる。
 それは、子供達のエピソードが語られはじめるからだ。彼らの娘ジェーンはふてくされて登場して、最初の好感度はゼロに近い。旧来のアメリカ映画の場合、ハリウッド製なら娘は不自然なまでに『よく出来た健気な子』で笑顔を見せて映画全体の救い、というポジションになるのが定番。ニューヨーク製もしくはインデペンデント製なら、グレちゃって手の付けられない不良として描かれるのが今の流行か。
 しかしこの作品では、彼女は、ふてくされているけれど、それは無気力な父親と虚栄に満ちた母親が生み出す空虚な家庭のせいなのだと判ってくるし、唯一『正しい』価値観を持ち、ナイーヴな心を持っている事も見えてくる。そして、隣人の「サイコ君」リッキーも、盗撮をしているがそれは変態性欲からではなく、彼のナイーヴな心ゆえなのだと判ってくる。
 彼は、厳格な軍人の父親に面従腹背している。初めはビデオマニアでマリファナ野郎なとんでもない変態ワルのように登場するが、それはとんでもない先入観であると、丹念に、愛情を持って描かれていく。「この世でいちばん美しいものを撮った」と、風に舞うスーパーのビニール袋のビデオをジェーンに見せるが、この映像が、リッキーの寒寒とした心象風景を想起させて、なんとも哀しい。そして……その映像を「美しい」という彼の気持ちが、ジェーンとともに見る側にも判ってくるのだ。
 問題を広げて解釈すると、これはなんだか、今日本で大流行の、少年凶悪犯罪の、根っこを見たような感覚に襲われて、恐ろしくなるようだし、とてももの哀しいし、凄く切なくなってくるのだ。
 それまで感動するものに出会えなかったようなジェーンは、彼に大いに共鳴する。観客も、そんなジェーンに共鳴する。
 本来真っ直ぐな少年達を歪ませるのは大人達だ、というありがちな主張が聞こえてくるようなのだが、この映画の中では、まったくその通りなのだ。リッキーの父親は異常なまでに秩序を重んじゲイを嫌悪し、息子の言い分も聞かずに暴力で「矯正」しようとする。
 レスリーや妻のキャロリンも、関心事は他に向いている。親の関心がすべて自分に向くのも暑苦しいが、まるで向いていないと感じるのは、寂しい……。
 子供達の真情が伝わってきて、とても切なくなる。しかし、この作品に出てくる親たちは、彼らの気持ちなど判っていないのだ。
 
 いくつかの批評や感想(すべてをシャットアウトする事は出来ない)は、タイトルに囚われて、「真の美(ビューティ)を求めて、どうのこうの」と書いているものもあるが、この作品の眼目は、『美』ではない。キーワードのように作中に『美』という言葉は出てくるが、それに収斂していく作品ではない。これは、『中年の危機』すなわち『人生の意味の喪失』を描いているのだ。
 主人公レスリーは、妻や娘に理解のある開明的オジサンを自認していた。妻が資格をとって仕事を持つことにも協力したし、彼女が嫌だといえばセックスを無理強いしない(でオナニーする)。娘のプライバシーと自主性を重んじる。生活はまさにミドルクラス。金持ちではないが貧しくもない。日本人の感覚ではいい家に住んでいい暮しをしているように見えるが、あれはアメリカでは大都市近郊のミドルクラスのアベレージだろう。
 日本の場合は、妻の変化に夫がオタオタしてついていけずに家庭に亀裂が入って、という展開になることが多いが、この作品は正反対だ。「家庭のために」と自分を押し殺すあまりに無気力になっていたレスリーは、突如開き直って、上司を罵り嬉々として会社を辞めてハンバーガー屋に転職してしまうし、70年型のスポーツカーを買ってしまうし、ラジコンのミニカーを走らせるし、娘ジェーンの友達の美少女が「もっと逞しかったら寝てもいい」というのを盗み聞いてトレーニングをはじめるし、娘の前であからさまに夫婦げんかもしてしまう。で、妻は、自分の仕事がうまくいっていないせいもあってオタオタしてしまう。
 子供達は、最初から『人生の意味』に出会えていないので、空虚で焦燥感すら持っている。
 親たちは、いつしか『人生の意味』を見失って(もしくは、はぐれてしまって)、訳が判らなくなって『中年の暴走』を始める。
 レスリーの暴走は、僕にはとても良く理解できる。若い頃やっていたマリファナを久々に吸ってみたらうまかった、とか、久々にピンクフロイドを聞いたら良かった、とか、若さを求めるゆえにロリコンのように若い娘を追い求めはじめる、とか、昔とった杵柄を試してみたくてハンバーガー屋に転職するとか。……そして、それらは、けっして、『人生の意味』を再び見出せる事には繋がらないのだ。
 そんなレスリーも、「女房の浮気」に遭遇し、「隣のマリファナ供給源で娘の友達である少年の父親が実はゲイだった」事を知り、ずっと娘の友達アンジェラとセックスするために体を鍛えてきたのに実は彼女は処女でプレイガールめいた口の利き方はすべて背伸びだったと知って、この3連打で、彼はようやく、「オジサンの分別」を取り戻す。欲情していたレスリーが、「私、はじめてなの」と言われて我に返るあたりのケヴィン・スペイシーは、絶品だ。
 
 自分の欲望のままに生きることが、『本懐』ではない。
 彼がやっと気づいたときには遅かった。
 『人生の意味』とは?という問いへの答えを、きっちり語ると、これはもう、言うのも恥ずかしい日曜学校の牧師の説教のようになってしまう。その代わりに、映画は、死んでしまったレスリーの『死の瞬間のパノラマ視現象の時になにが見えたのか』という描写に代えている。それは大正解だった。
 
 ラストシークェンスの展開の意外さと衝撃は、凄い。まさか隣の大佐がゲイ(をひたすら押し隠していて、レスリーを『やっと出会えた同好の士』と思いこんでしまった)だとは思えなかったし、レスリーが、やっと42男の分別を取り戻し、アンジェラに大人として優しく接することが出来、娘の事を案じられるようになったのに、キャロリンが取り乱してレスリーを撃つのかと思ったら、そうじゃなかったし……。
 
 ライトコメディのように始まって、だんだんと「これはシャレにならん」展開になって、切なくなって哀しくなってくる。
 
 語られることがあまりに多いので、一回見ただけでは、この作品の全貌を掴むことは出来ないのだろう。多面的多層的で、書けば書くほど指の間から書くべき事柄が漏れ落ちていってしまう。
 細かなギャグも多いし(一家の食事の時に、こともあろうに「バリハイ」を聞く、とか)、世代的共感もたくさんある。スクリーンで展開されるのはアメリカの白人の一家の話だけど、こういう問題は今の東京にもごろごろしてる。いや、出てくる話がリストラから子供の引き籠りまで、あまりにタイムリーでアクチュアルで、怖いほどだ。バーナム家の周りに起こったことは、東京の山田家に起こってもまったくおかしくないのだ。
 病んだ話、とはいえまい。これは、ごく普通の家庭の話だから。
 
 かつてビリー・ワイルダーは、アメリカ社会を辛辣に描き、描きすぎて(「地獄の英雄」)総スカンを食って、コメディに転向した。が、コメディの中でも鋭い諷刺でアメリカ社会をネタにした。それは異邦人だからこそ持てる「外からの目線」があったからだ。それでいうと、この作品の監督のサム・メンデスも同じだ。しかし、脚本を書いたのはアメリカ人のアラン・ボールだ。これはアメリカ人の自虐なのか、40男世代の真情吐露なのだろうか。そして主人公は、なにを悟ったのだろうか。
 その答えを見つけるには、あと何回もこの作品を見直さなければならないだろう。
 それほどこの作品は複雑で、深くて、怖い。