監督:舛田利雄
数年振りにBSで再見し、あまりの素晴らしさに呆然とした。これまで何度も見てるのに、映画館でも見たしビデオでも見たのに、一体どこを見ていたのか。
この作品の素晴らしさは、渡辺武信の名著「日活アクションの華麗な世界」にあますところなく描かれて論じられていて、僕はその文章を何度も何度も舐めるように読んでいたのだけれど……。
全篇を貫く、冷え冷えとした孤独感。
この、厳しいまでの冷たさは何なのだろう、と思う。
渡辺氏によると、日活アクションがジャンルとして追求したテーマは「アイデンティティの追求(オレって、なんだ?)」であるらしいけれど、日活という会社としては、そんな現代的なテーマを追い求めたわけではもちろんなくて、裕次郎やアキラやジョーが歌って暴れて恋をする大娯楽篇を量産して儲けたいだけだったはずだ。
そして、30年代後半、裕次郎が年を取って来て太って『貫禄がついて来た』あたりで、『オトナの世界』を舞台にする『ムードアクション』路線が定着する。
この路線、裕次郎出演作に限定すると、驚くほどプロットが固定されてどれを見てもよく似た設定の話が展開する。「若大将」もそうだし、かつての人気シリーズの定番だろう。
裕次郎は孤高のヒーローで過去を秘めている。ルリ子はそんな彼に恋をする。そんなルリ子に横恋慕したり裕次郎にライバル意識を燃やす二谷。こういう図式で数多くの『ムードアクション』が量産され、「青春大統領」のような失敗作(途中まではいいのだが、人気取りでジャニーズが出て来て映画をぶち壊した)もあったし、うまくいかない作品「二人の世界」などもあった。
「赤いハンカチ」は、そういうシリーズのルーティーンワークの中から突如、すべての要素がそろって臨界に達して出来上がった作品ではないか。似たような人物は位置と設定でも、それにハマるストーリーと脚本(小川英・山崎厳・舛田利雄)、役者の演技(裕次郎・ルリ子・二谷・金子)、監督の演出(舛田利雄)、撮影(間宮義男)、音楽(伊部晴美)、編集(辻井正則)がそろうと、いつもの世界から大きな飛躍を遂げて、思いがけない傑作になってしまう、希有な例なのではないか。
僕は、この「赤いハンカチ」は、日本映画有数の古典悲劇の格調を持った、希有な、途方もない傑作である、と思う。日活アクションの、裕次郎の、と思っていると、この作品の真価を見逃すはずだ。
主題歌は、本編と関係はない。この作品は歌謡映画じゃないから、主題歌と作品タイトルは中身にはほとんど関係がない。しかし、映画用に編曲された「赤いハンカチ」は、レコード版と比較にならないほど品格がある。生ギター一本の演奏だからだろう。レコードの「ずんたかたったずんたずんた」というリズムではない。陰影深い映像でギターを奏でる手のアップ、そして、夕暮れの横浜の点描。このタイトルで、作品世界に引き込まれる。ただならぬ悲劇が待っている事を予感させる。
波止場での捕り物。警察での調べ。容疑者の娘・ルリ子の登場。
この、浅丘ルリ子が、ため息が出るほど美しい。以前、ルリ子さんに、この映画が如何に素晴らしかったかということを憑かれたように話した事があったけれど、この作品におけるルリ子の登場は、鮮烈なショックを与えるほどだ。薄汚いスラムのような住宅街で、「お豆腐屋さーん!」と鍋を持って走ってくるルリ子(ナチュラル・メイク)の、はっとする美しさ。このワンカットで、観客も裕次郎も、ルリ子に恋をしてしまうのだ。
よく笑うルリ子お手製のおみおつけを飲んで、「うまいっ。ヘソまで温まる」というシーンの微笑ましさが、直結する次のシーンの悲劇を倍加させる。当たり前といえば当たり前の展開だし計算だけれど、それがあまりにうまく、自然で、作り手と観客の感情がシンクロするとき、こうもうまくいくのか、という奇跡のような例ではないか。
4年後。事件の真相を暴きたい金子信雄の刑事によって、過去のわだかまりをほじくりかえされて横浜に舞い戻る裕次郎。ここから真の悲劇が始まる。
二谷英明は、『裕次郎の二番手』『裕次郎には決して勝てないライバル』『裕次郎を追撃しようとするが実力がないので、つい悪事に手を染めてしまう弱い男』という役柄を、たぶん、本人が嫌になるほど繰り返し演じて来たが、本作の役の設定は、その白眉であり、二番手演技の集大成で、突き抜けてしまったのでははないかと思える。
ともすれば彼の手から漏れてどこかに行ってしまいそうなルリ子の心を掴んでいようとする一心の、彼(の役柄)のぶざまなほどの必死の努力は、人生における一面の真実だし、だからこそ二谷の役柄が「悪役のための悪役」に堕ちていない、必然性溢れる悲劇的な悪役になりえている。それが見る側の心をうつ。
裕次郎は、ボガートもここまでは、と思えるほどのストイックさとハードボイルドさを見せ、そうやって自らを律して縛って行動する。それによって、そこまでしなければならないほど彼の思い求める物は重いのだ、と観客に思わせることに成功している。下手にやると、単に主人公がカッコつけてるアホになってしまいそうな(実際、裕次郎は他の映画ではそういうアホになってしまった例もある)、極めて微妙な感情のせめぎあいであると思う。そしてこの作品では、見事に成功して、主人公の感情が行動に現れ、それがテーマを描き出すのに貢献するという、最高の連鎖を作っている。
ラストの、警察の中庭。ここはいっぱいのロング・ショットの長回しで、二谷の演劇的と言ってもいい大芝居を堪能出来る。これが浮いてしまわずに映画の世界にきちんとハマッていることも日本映画としては奇跡に近い事ではないかと思う。
元来、日活アクションは理屈の多いシリーズで、主人公たちは口数が多い。どうしておれはこうするか、どうしておれはこうしなきゃいけないのか、と、寡黙で背中で喋る東映のヒーローとはまったく対照的に、日活アクションのヒーローは、裕次郎もアキラもジョーもテツヤも、みんな自分の行動原理を喋る。それはもしかして「太陽の季節」からの伝統なのかもしれない。だから、映画の中で理屈を喋り、歯の浮くような美文的表現を使っても、日活のスターは恐ろしいもので、まったく浮かない。苦笑の対象にならない。パロディの対象にはなっても嘲りの対象にはならないのだ。これは、日本映画の伝統の中でも、いや、いまだに論理的に喋る事が下手な日本人にとって、異例の事だろう。
作品としても、ラストの三人だけの演劇的クライマックスは、こうじゃなければこの作品は終われない、という切実感を有しているだけに、積み上げて来た石の最後の一つ、という趣を持つ。素晴らしいの一語。
そして、ここに登場するルリ子は、最初の登場と同じ、虚飾のないナチュラル・メイクだ。こういう計算はプロとして当たり前なのだろうけど、唸りましたね。
エピローグ的ラストシーンは、深い余韻を持って、この映画を締め括る。
この作品のあと、似た形のものもいくつか作られたが、どれもうまくいっていない。同じ顔ぶれで作っても、この作品が持つ根源的悲劇性と品格は再び創造できなかったのだ。
この「赤いハンカチ」と「憎いあんちくしょう」そして「コルトは俺のパスポート」は、日本映画の最高傑作にランクされる作品であるし、正当な評価を受けるべきだと思う。なんせ黒沢・溝口・小津以外の映画は、きちんとした扱いを受けてないように(映画館からもテレビからも評論家からも)思うので。もちろん、他にも、正当な評価を受けてしかるべき日活アクションはまだまだたくさんあるが、それはまた機会を改めよう。