現在もっとも注目している三谷幸喜さんと僕とは、日芸の江古田キャンパスに1年違いで存在した。一応僕が1年先輩なのだが、そんななんの関係もないことはいちいち書くまでもないっすね。僕はずっと映画を志していて、三谷さんは演劇だった。日芸のムードというのは、ジャンルが違うと宇宙が違う、てな意識があって、無視するというものではなくてハナから存在を関知し得ないようなところがあった。映画の場合は多少放送を意識していたが、演劇についてはまったく意識も何もなかった。
当時は小演劇勃興期で、野田秀樹さんとかいろいろ(詳しくないのだ)注目を浴びつつあったが、こっちだって学生映画、学生出身監督を一気に輩出した時期(このときだけの線香花火だったが)だったので、小演劇などやはりアウトオブガンチューだったのだ。
在学時代、僕はそれなりに評価されて卒業後、意気揚揚と現場に潜り込んで、大きくなるためには修行せねばと、若くして独立するという風潮に背を向けた。
その頃から、僕のアンテナには『三谷幸喜』の名前は引っ掛かってはいた。しかし、芝居好きの素人同然のグループなんか、という意識があって、公演を見もしなかったのだ。元来僕は映像派で、舞台の芝居には生理的拒否反応を示していたから無理もない。その頃までにナマで見た芝居といえば、「吉本新喜劇」「エクウス」「ラ・マンチャの男」「ウエストサイド物語」「仮名手本忠臣蔵の一部」しかなかったのだから。今から思うと、どうして東京サンシャインボーイズの舞台を見ておかなかったのか悔しくてならない。
一方、その頃、ホイチョイプロなどの人々(連中、と書いたがこれは蔑称に当たるかもしれないと思って書き直した)が、ロバート・ベンチュリーなどのスタンダードなユーモアを現代に甦らせるという試みを始めた。「オフィシャル・プレッピー・ハンドブック」(自体がパロディだが)の日本版・「見栄講座」の連載が始まっていた。が、しかし、ユーモアというものは人間としての年輪を必要とする物で、ホイチョイのものはコンセプトとしては面白かったが、ベンチュリー・タッチには達していなく(しかし「OTV」は名著だ)、それと同じような目線を三谷さんと東京サンシャインボーイズに送っていたのではないかと思う。こっちは、基礎教養の足りなさとセンスの磨き不足を巨匠のもとで修行してるというのに、彼らは未熟なまま珍奇さを前面に出して世に出たが、愚かしいし潰れるのは時間の問題だ、と思っていたに違いない。
ホンモノは、残る。この事を忘れていた。自分は本物の『選ばれたヒト』だが、他のヤツらは選ばれてもいないのに、時流にうまく乗っただけのマガイモノなのだ、と思い込んでいたのだ。本物かどうか見分ける見識も識別眼も磨かれていなかったというのに。
その一方、僕は自ら旧来のヒエラルキーの中に飛び込んで、『修行』という不遇の道を自ら選んだのだが、ずっと頭にこびりついていたのは、『おれは選ばれた人なのか』ということだった。
いうまでもなく、これは「アマデウス」の影響が強い。正当な解釈ではないかもしれないけれど、映画版「アマデウス」で、サリエリが精神病院で「すべての凡庸な者を許す!」という場面があるが、僕はこれを見て物凄く恐くなった。
芸術であれなんであれ、才能を試され才能だけが存在理由になる仕事を選んでしまって大丈夫なのかオマエ、という強烈な不安だ。その前にルイ・マルの「鬼火」を見ていたせいもある。この作品の主人公は、若いときは溢れる才気でブイブイ言わせていたのに、中年になると他のみんなはオトナとしてしかるべきポジションにいるのに自分だけが若い頃のまんまの意識だった(取り残された)という気持ちを持ち、最後には自殺してしまう。敬愛する筒井康隆も、30までにモノにならなければ自殺してやろうと思っていた、とエッセイで読んでいたこともあるし、広義のショウビズ界は、幾多の犠牲者の死体の上に成り立っていると思うと、実に恐かった。自分の才能を信じる気持ちは揺るがなかったにしろ、とても恐かった。
でまあ、現在。当時のバブリーな『新しい才能』はほとんど淘汰されて、現在まで残っているのは、ホンモノだけだ。三谷さんはその中でも、何十年に一人の逸材だという事がはっきりしたし、それを否定する人はいないだろう。同時に彼の成功をやっかむ声も聞くが、成功に嫉妬はつきものだし、三谷さんのあのひょうひょうとした人柄ならば敵も作らずにうまくやっていくのではないかと思うし、そう願っている。
遅れ馳せながら三谷さんの世界(三谷ワールド、という表現は鳥肌が立つほど嫌いなので使わない)を知ってビデオで追いついた者としては、彼の舞台のほとんどすべてに心酔している。特にTSBの公演は、素晴らしいの一語に尽きるし、ため息が出る。「ショウ・マスト・ゴー・オン」の幕切れ、さんざん悪口を言い続けていた座長への深い敬愛が判ったあとでも、前と同じようにカードに興じる舞台監督とその助手、という場面には、思い出すだけで感動が走る。「ラヂオの時間」も同様。ウソだと思いつつ、採算度返しで納得のいく物を作ろうと走りだすクルー全員の姿にはやはり感動する。「罠」に至っては、見ている自分も出演者の中に混じっているような、過度の感情移入をしたあげく、今でもあの登場人物は自分の同級生ではないかと錯覚するほどの見事な人物造型と物語の構造と語り口で、しみじみとした余韻に浸れる。
TSBを休団した三谷さんは熟達の俳優を使ってさらに大きな世界を獲得し、「君となら」という愛しても愛し足りないほどの幸福そのものな舞台空間を作り出し、「巌流島」ではファルスの醍醐味を味合わせてくれ、「笑の大学」では、作者が意図した以上の深い感銘を与えるに至った。ギャグが身体に染み込んでいる僕としては、強烈なスピリットを脳天に打ち込まれた感じで、芝居が終わってもしばらくは途方もない感動に呆然としたものだ。
三谷幸喜がここまで巨大なものになってしまっては、ライバル心が起きるはずもなく、彼の名は僕の中で別格の存在になった。
で、「 バイ・マイセルフ」である。
見る前に、いろんな劇評を読んでしまい、認めながらも苦言を呈するモノも読んでしまった。それらの指摘は正しい、とは思う。
虚と実が混同してしまい、演じる事がアイデンティティになってしまい自分とは不可分のものになってしまった『役者』という業の中に生きる老優、という姿を描くには、いろんなアプローチがあるだろう。「ドレッサー」という作品もあるし、向こうの芝居には、この作品よりももっと鋭く俳優心理を抉り切り刻んで白日のもとに晒すものもあるだろう。映画にも「イヴの総て」という名作もあるし。
その意味で「掘り下げが足りない」「もっと深いものに出来た」「もっと突っ込めた」という批評も成立するとは思う。
しかし。これは三谷幸喜の芝居なのだ。ピーター・シェーファーのようにやっては意味がない。いや、彼はすでに、ピーター・シェーファーと同格の作家なのだ。
この作品は、まさしく、三谷幸喜の作品だ。この作品は三谷幸喜にしか書けない。この作品の面白さ、魅力は三谷幸喜にしか作り出せない。
虚々実々を描くのに、三谷さんは、彼の最大の武器の一つである『ツイスト』をこれでもかと使う。僕はスレているから、会場に啜り泣きが沸き起こり、哀しみに包まれても「これで終わるわけがない」と思っていた。案の定、休憩を挟んで第2幕になると、それまでの『感動』が全部ひっくり返されて、泣いちゃった人はバツの悪い思いをする事になる。
そこで。「自分の人生を自分のイメージどおりに再構成したい、飾りたい」と思うのは、かなり普遍的な感情ではないかと思う。人生において成功しても失敗しても同じだ。嫌な過去は消し去りたいし、辻褄を合わせたい。その一方で、人生の辻褄などあうはずがないというのも真理だろう。
この作品のメインプロットからは、いろんなお話のパターンが出来ると思う。老優の醜さを抉り出す話にも出来るし、その反対に、老優をネタに成功者の階段を上がりたい若いライターの醜い野望を暴く話にも出来る。しかし、三谷さんはそれをしない。それがいい。それだからこそ三谷さんだ。
小劇団の芝居には大きなパターンがある。笑わせておいて客をノラせ、こっちのペースに引き擦り込んで、しんみりとテーマ的な部分を見せて感動させ、最後にまた笑わせて幕をひく。これはなんのことはない、大衆演劇のパターンそのものだ。ギャグの種類が今風で、テーマも今風なだけだ。だから、ヘタクソな小劇団の芝居を観ると、そのパターンがミエミエだし、テーマがぼっこり剥き出しになって実に不快になる。笑いが道具でしかないと悟ってしまうからだし、そうなると、その『テーマ』も作者が本当にそう思っているのか、共感して書いているのかが疑わしくなって来る。
しかし、三谷さんの芝居は、そういうバカな罠にははまらない。三谷さんの芝居は、見るものに元気を与えてくれる。これが感動と人気の源泉ではないかと思うのだが、それも、取ってつけたものではない、地に足の付いた、三谷さんや演者が本心から共感したものを提供してくれる(と思う)。
この作品で僕が思わず泣いてしまったのは、若いライターが「みんなが選ばれたものにはなれない。僕は選ばれなかった人間だ。でもあなた(老優)は選ばれた。選ばれたからって、普通じゃいけないってことはない。普通だからこそ、いろんな事を演じられるのだ」(かなり記憶が脚色しているはず)というセリフだ。昔からずっと引っ掛かっている「選ばれし者」(「アマデウス」を意識しているのは明白)についての、三谷さんなりの答えを聞いたような気がしたからだ。
『選ぶ』のは人智を超越した『神』だと思う。モーツァルトは神に選ばれて神の言葉を人間に伝える役目を負わされた。サリエリは何故自分が選ばれなかったのだ、と憤慨し、神を棄て、神への復讐を誓う。それは『神の代弁者』たるモーツァルトを殺す事だ。その一方で、普通の若者でスカトロ趣味の下品な男たるモーツァルト本人は、それを重荷に思う。彼自身としては、頭に浮かんで溢れてしまうモノを表現したくてたまらないと言う『業』を背負ってしまったからだ。彼本人は、フツーに生きたいと思っていたであろうに。
僕は、『選ばれた者』でいたい。けれどそれは単なる願望であって本当は選ばれていない凡庸な『その他大勢』の者であるかもしれない。また、選ばれたからといって、破滅的な人生も歩みたくはない。
とすれば、この作品の主人公・老優は、最高の人生を送ったという事になる。家庭運には恵まれなかったのかもしれないが、過酷な運命に翻弄されることもなく、成功者として人生を終えようとしている。三谷さんはそれを大肯定する。「いい芝居をするというあなたの役目は充分に果たした。それのどこが不満なのです」。他の作家なら「それでいいのか」と激しい口調で言い募るかもしれないが、三谷さんは「いいじゃないですか」と穏やかに切り返す。それが一種の『癒し』の効果を産む。
その上に。三谷さんは、このテーマの掴み方をすべてに浸透させている。人物の描き方がそうだ。彼は、老優を決して否定的に描かない。実に人間臭い、愛すべき人物にしている。どんな偉い人も、どんな威張りくさったヤツでも、人間臭い愛すべき部分はあるはずだ、と三谷さんは日頃から思っているのだろう。エッセイを読むとそう感じる。僕など、ヤなヤローは全面否定してしまうから、この境地にはなかなか達することが出来ず、故に懐の小さい人間に留まるのだが。三谷さんの作品に出てくる人物に、嫌なヤツは一人もいない。『犯罪』ドラマ「古畑仁三郎」でも、ヤな奴は、ただ一人、キムタク演じる大学院生だけで、それ以外はみんな愛すべき『犯罪者』だったのだ。この作品でも、幕が降りるとき、ああこの二人の話をもっと見たい、この老優のひっ掻き回しをもっと見たい、この二人のじゃれあいのような関係をもっと見たい、と思う。
評論家なら、ここに『三谷の中の欠落し、渇望する愛情関係』を見るのかもしれないが、彼自身「裕福なお坊ちゃま」で「頭もルックスも良かった完璧な子供時代」を過ごし「女には関心がなく芝居に没頭した」と言っているのだから、僕はあれこれ詮索したくはない。
以前の僕なら、こういう素晴らしいものを見ると「ああ、俺も芝居をやりたい、戯曲を書きたい」と思ったかもしれないが、今はまるで思わない。一時期芝居をやってそのしんどさを知っているし、映画をやって集団製作のしんどさを嫌というほど味わったあとだから、今の小説書きほどいい商売はないと思っているからだし、こういう才能の輝きを目の当たりにすると、「おれの出る幕はない」と思える冷静な判断力が備わったからだ。ガキのようにスピルバーグの映画に興奮し、俺もこういうのを作りたいというような無謀な夢を抱く子供の時間は過ぎたという事かもしれない。
松本幸四郎・市川染五郎の演技に付いてなにか言うのなら、あと数回見なければならないだろう。1回だけの観劇では、感激しただけで話を追うので精一杯だ。
しかし、あの幸四郎さんが、あんなことをしてこんな事を言って!というミーハー的驚きと悦びに満たされた2時間であったし、染五郎の柔軟なうまさに舌を巻いた。
日本のタレントは層が薄い、などという訳知り顔の論評をよく読むが、それは、間違いだ。当人が不勉強で知らないだけだ。歌舞伎のプリンスにここまで素晴らしい現代劇の芝居をされて、現代劇の役者たちが何も思わないはずがない。
カーテンコールで、拍手を受ける幸四郎の、胸に手を当てるポーズが、それはもう決まっていて、「ニッポンイチ!」「大統領!」と声をかけたいほどであった。
僕は、三谷幸喜と同時代に生きている喜びを、しみじみと噛み締めているのだ。