題名 :クラッシュ
監督 :デヴィッド・クローネンバーグ
なんとまあ、ハタ迷惑な変態の話だろう、というのが第一声の感想。変態なんざ密室でやってれば誰も何の文句の付けようもないが、バスに墜落したりカンケーない車に激突していくのは困る。
メタファーというのは便利な言葉だが、今でも余り馴染めない。以前なら別の表現を使っていたと思うけれど忘れてしまった。でまあ、上記の事を書いている瞬間、『もしかしてこれは吸血鬼もののメタファーか』という事が浮かんでしまったのだ。
映画の中でも、この『クラッシュ変態』は増えていく。自分も事故にあうことでこの変態性に目覚めてしまうのだから、主人公たちのような変態が公道で変態行為をして、そのトバッチリを受けた場合、受けた人も変態に目覚めてしまうということは大いにありうる。これは吸血鬼が増えていく理論と同じではないか。噛まれるのとぶつけられるのは同じことだ。
うーむ。
しかし、インテリのクローネンバーグは、そういう事は考えない。なんせ、クローネンバーグにはユーモアやギャグのセンスは皆無のようだから。だからインテリに受けるんですかねえ。それはともかく。
僕は自分が変態である事は自覚している。しかし、そういう自分が言うべき事ではないが、変態というものはすべからく笑いものになるものだと思う。さすがに世紀末。世の中の変態具合はホモレズSMなんぞ初歩の初歩。「トンデモ超変態系」を見れば、脳天が切れそうなウルトラ変態の実際が具体的に書かれていて絶句する。学術的に書いてあるから、その文章に揶揄も嘲笑も侮蔑もなにも、そういうトーンはない。しかし、読者は一拍おいて爆笑せざるをえない。こういう変態行為を思いついた人間の創造性にある種の驚嘆を感じながら。
この映画の主人公たちも、結局はセックスにいきつく。
この世のすべての創造的行為の源泉は性的衝動であると言ったのはフロイトで、その後ユングが否定したけれど、この『宣言』は実に判りやすいから、みんなフロイトの言った事だけを覚えているようだ。
だけどねえ……なにもかもセックスの為にしていてセックスの為に生きているというのは、なんだか、虚しいじゃないですか。
生殖行為という本能は、本能であるがゆえに、遺伝子キャリアとしての動物は生殖行為に駆り立てられるのだ、人間もその中の一種類でしかない、という言葉には大いに説得力があって、『人間っつって偉そうにしてるけど、しょせんは遺伝子キャリアの動物なんだもんね』と思って、ある種の諦観の境地になれるが、『快楽としてのセックス』に溺れきってしまうのが人間だ、と言われてしまうと、やっぱりこれ、情けないものがあるじゃないですか。給料をフーゾクに使ってしまって家庭争議の元になるのが判っているのにやってしまうそこらのオヤジじゃないですか。
セックスが嫌いな人間は数えるほどしかいないとは思うけど、なんかさあ、クラッシュのあと、もぞもぞとベッドの上でセックスするスペイダーとアンガー夫婦は、しゃくとり虫みたいで気持ち悪いぞ。
ホリー・ハンターもねえ……。どうしてこんな変態を、好き好んでやるのですか、と詰問したい心境です。
僕は変態を否定しないし、世の中の人間たるもの全員がなんらかの変態性を持っていると思っている。また、自動車事故に物凄いぞくぞくするような体中の血液が沸騰するようなエネルギーが躍動して止まらないような刺激を受けてしまうというのも理解出来る。だから、この映画に出てくるような変態が存在してもおかしくないと思うし、映画の中で死んでしまうヴォーンは、その自らの変態性について極めて高度な知的分析と理解をしていたと思う。
とはいえ、クローネンバーグのインテリ的しかめ面に騙されてはいけない。
この映画に登場する変態たちは、笑われてしまう対象なのだ。現代社会が生み出した怪物でもないし、現代社会が生み出した刹那的快楽に溺れる高度文明社会の犠牲者でもない。そういう社会学的考察など、無用の長物だ。人間が動物である限り、そしてその動物がまかり間違って知性を獲得し文明を作り、それが複雑怪奇に進化して、すべてのものが本音と建前に乖離しなければ社会がうまく機能しなくなった時、変態が出現するのは当然なのだ。まったくアタリマエの事であって、インテリがこ難しい論争をするテーマでもない。
でも、変態は、そういう変態じゃないものから見れば、どうしても滑稽だ。
僕はこの前デブ専ホモ映画のエキストラに担ぎ出されてしまい、映画の中で「デブのホモ二人が絡み合うのを見ているうちに興奮してきてオナニーしてしまうデブ」を演じたが、これは実にワルノリの成果である。もし僕が真性のデブホモならそんな事はできなかったろう。僕は『デブホモ』をギャグの対象としか認識出来ない感性しかないから(どう考えても、『デブホモ』だけはその快感を創造出来ない)、自分が演じる『痴態』をおもしろがれてワルノリ出来るのだろう。とはいっても、素に戻った現在、自分がしでかした事実は恐ろしく、僕は試写すら見られない(^_^;)。
で。
例えば、高度に知性を持ったインテリで自分にはない変態性についても理解と共感が出来る作家(しかし彼にはそういうことを客観し出来なければならない)がこの映画を撮ったらどうなったろうか。
例えば、タランティーノ。
例えば、コーエン兄弟。
例えば、ルコント。
例えば、ウォーターズ。
彼らは、たぶん、その作品にユーモアの要素を付け加えるだろう。そして、それだけ観客にとって見やすい映画に仕上げた事だろう。キャスティングにしても、見るからに『アブ』な感じの役者を使い、あらかじめ観客と映画世界の間に線を引いて「君たちはこっちにいるから安全だよ」と宣言するだろう。
クローネンバーグは紛れもない変態だが、その分、そういう自分を客観し出来ず、ユーモアを付加する余裕すらない。一途に自らの変態性に正面から対峙し、格闘する。観客との間に線を引かず、アブな世界に観客を引き釣り込もうとする。スペイダーとかジェレミー・アイアンズとかの、一見してもっともらしい好感すら持てる(アイアンズはもはやアブナイおじさん世界一だが)俳優を使う。ユーモアを醸し出させて自体を客観視する知的態度も見せない。
それが偉いんだろうなあ。それだからこそ、世の中のインテリ系俳優が出演に応じるんだろうなあ。ホリー・ハンターはそういうアカデミー役者(ぞろぞろいるぞ)がハマる穴には落ち込んでほしくないなあ。一途に変態な役をする事がインテリ俳優だ、演技派だ、というような思い込みは持たないでほしいなあ。スペイダーはどうなってもいいけど。男はさ、アイアンズみたいに変態役者として売れるからいいんだけど。わしゃ、エイダや天才テレビ・プロデューサーをやった彼女のこれ以上の変態ぶりを見たくないのだ。
変態の目から見ると、そうは言ってもクローネンバーグの腰が引けていると思う。だって、この映画の描写は曖昧すぎるからだ。彼らは『事故』そのものに興奮するのか?『事故でぐちゃぐちゃになった被害者の体』を見て興奮するのか?自分の身にふりかかるあの死に至るかもしれない恐怖の瞬間がスリルに転化し、それを際限なく味わいたいというマゾヒズムなのか?
ここまでやったんなら(ホリー・ハンターに駐車場でセックスさせたんだぞ、くそっ!)、スペイダーが事故車両の中でミンチになった死体に頬ずりするとか、奥さんの車を追い回している最中にオナニーしてるとか(奥さんの車が落下した瞬間に射精するんでしょうな)、いやいや、ラストはスペイダー自身がオナニーしながら(もしくは同じ変態の奥さんと交わりながら)ダンプカーにでも突進していくべきなんじゃないか。
ま、そこまでやったら、誰も出演してくれず、普通の映画館では公開されず、いかなインテリ変態クローネンバーグといえども、ただの変態オヤジとしか認識されなくなるだろうけど……。
スペイダーは「堪え性のない芯のない男」をうまく演じていたとは思う。
デボラ・アンガーは、その風貌から邪悪な匂いぷんぷんで、だから、ラストでああなっても「自業自得・身から出た錆」としか思えない。この人は、この風貌を活かせば、映画史に残る悪女女優になれるかもしれない。(しかし、一連のセックスシーンのあれはおかしい。あれじゃ……。「素股行進曲」というフレーズを思い出してしまった(^_^;))
ホリー・ハンターは……。まあ、彼女はいつも冷静で快楽に溺れる事なく、垣間見た幻のような悦楽を追い求めているようで……そのほうが嫌だなあ。まあ、一番色気を感じなくて良かった。
ロザンナ・アークエットは、もう普通の役はやらないし、やる気もないんでしょうね。世の中には『義足フェチ』『半身不随フェチ』というのもあるから、彼女のやった役はいちばん判りやすいしきちんと描けていたと思う……そうでもないか。しかしこの人はいつ見ても少女のようですな。無垢だからこそ怖い少女。
エリアス・コーティアスは、これまで知らない人だったから、僕の中では永遠に「事故フェチというかクラッシュ変態のひと」という記憶が定着してしまった。この人が刺青を掘るあたりから、僕は笑いながら見ていた。あのあたりから、物語は完全に一線を越えて、笑ってなければ仕方がないようなトホホな世界に突入したのだ。
同じ変態として言うと、クローネンバーグは変態のくせにカッコつけすぎ!変態というのは、回りも自分も『処置なしだなあ』と思うだろうに、キレイキレイなんだもの。ファッショナブルな変態とでも言うべきか。でも、そんな変態はイカサマだ。まあねえ、すでに書いたけど、ホントの変態をホントに描ききると、一部のビデオ店でしか売れないような作品になってしまうだろうけど……。