ど根性物語 銭の踊り
監督:市川崑

 ニュープリントに感謝。
 未見の旧作について考える場合、『今の視点』をどうするか、という問題がある。作品を絶対評価するならば、『今の視点』は邪魔で評価の邪魔になるだろう。しかし、発表当時に見ていない以上、『当時の視点』を疑似体験することは困難だ。それは、推測でしかないのだし、その推測が外れていたら、推測すること自体に何の意味もなくなってしまう。
 ということで、この作品は、『今の視点』で語ることにする。
 
 当時世界的に流行し始めていた、組織犯罪モノというか大がかりなアクション(007とかその亜流)を、当時の日本に移植したらこうなるんじゃないか、という、知的遊戯に満ちた高度なパロディだ。
 日活アクションも東宝アクションも、そして大映も、アメリカやフランスのハードボイルドやフィルム・ノワールの影響を受けたものを作っていたが、日活の宍戸錠モノを除くと、みんなその世界にのめり込んで、精一杯コピーしようと、はっきり言って勝ち目のない戦いをしていた。そりゃ相手がショーン・コネリーやアラン・ドロンじゃ、B29と竹槍みたいなものでしょう。(例外として日活の宍戸錠主演の諸作(監督:鈴木清順・野村孝)は、極めて硬質のツボを掴んだ見事なアクション世界を構築した傑作だったが、あくまで例外だ)
 
 当時と今で最も違うのは、知識階級というか、先端的な「時代を作り人々」の存在の有無ではないだろうか。教養に溢れ海外の文化あれこれに詳しく時代とぴったりシンクロしている人々……ミーハー的な見方をすれば三島由紀夫や石原慎太郎、青島幸男や永六輔、小林信彦(中原弓彦として)たちの存在は、今の『文化人』よりもはるかにきらびやかだったのではないかと想像する。そんな彼らは当時もっとも先端的な盛り場・六本木で毎夜毎夜知的な宴を繰り返している……というようなイメージがあるのですな。小林信彦のエッセイや当時を舞台にした小説を読むと、知的ハイソ(それはアカデミックなものとは無関係で、テレビ関係者やミステリー関係者がメイン)の突出ぶりが羨望を集める存在のように登場して、それはそれは魅力的なのだ。
 で、当時の映画は、斜陽が始まっていたとはいえまだまだ力があって、その中でも市川崑はまだ若いし、作る作品すべてが話題になり、海外でも賞を取り、おフランスとの合作もしようかというほどで、テレビの演出もし(演出指導もしたのだ)、無類のミステリー・ファンで、いちはやくクレイジー・キャッツの面白さを認めた『判ってるひと』だったはずだ。つまり、市川崑は、時代と完全にシンクロしていたのだ。
 
 大映時代の市川崑のフィルムグラフィを見るとため息が出る。すべてが傑作・話題作・意欲作だからだ。
 文学の映画化では天才的才能を発揮して空前絶後の作品を残している(「炎上」「破戒」「野火」「私は2歳」「鍵」「ぼんち」「おとうと」……と並べると、頭がくらくらしてくるほど)が、オリジナル脚本の現代劇を作ると、どこに飛んで行ってしまうか判らないスリルがある。文芸映画での鬱憤を晴らすかのように、物凄いことになるのだ。
 観客に受け入れられ難い、どう評価していいか判らない映画になる。だから、映画評論家も実に凡庸な批評しか出せない。映画評論家は映画監督ほど天才を要求されないからか?
 もちろん、本当の駄作である可能性もあるが、市川作品に関しては、その感性が鋭すぎて、時代の先を遥かに行きすぎていた、と思う。凡庸な人間がきちんと評価出来ないのは当たり前なのだ。逆に言えば、『今の視点』で、当時の批評を批判するのは可哀想なのかもしれない。
 で、当時の評価が低かった「黒い十人の女」は、泣きたくなるほどの傑作だった。凄みのある、恐るべき作品だと思う。
 だけど、この「銭の踊り」は……。
 当時とすりゃ、これは失敗作だとされてもしかたがないような気もするし、キネ旬の「日本映画作品全集」で「市川らしくない」とトンチンカンな事を書かれても、それも仕方がない気がする。この作品の、斜に構えた高度なパロディが凡人にも判るのは、それは今だからだ。
 
 この作品は「ど根性物語」シリーズの第3作。しかしカツシンのシリーズとしては知名度がない、ということは他のモノより成功しなかったということだろう。
 すでに大映の看板監督になっていた市川がカツシンのエンターテインメント・シリーズのそれも第3作目を引き受けた、というのは、本人の「こういうのもやれるんだぞ」という意志だったのではないか。
 で、当時の観客にはお馴染の「町田八百」がある陰謀に巻き込まれて、大暴れするのだが……。
 しかし、その陰謀のセコいことセコいこと。これには笑える。いや、陰謀自体(日本を陰で牛耳っている進駐軍脱走兵上がりの悪のボスを倒す)はそうセコくはないのだが、陰謀の実行部隊が……。
 そういうシークレット・チームが、近所の安食堂(日雇労務者クラスが常連の店)から出前を取るか?チームの事務所も掘っ建て小屋同様だし。
 ボスを見張るシーンでも、望遠鏡を見ながら、
「あそこに何げなく立っているのはみんな奴のボディガードだ。(洗濯屋のご用聞きが自転車で通り掛かる)あれもそうだ」
 というのには、爆笑。
 意図していたのかしていなかったのかの判別が今となっては難しいのだが、こういうセコさ(これは当時の日本の生活レベルだったろう)を強調してギャグにしてしまう、というのは、今なら一般的になったギャグだが、当時としては笑えなかったんじゃないか。どんな高度な陰謀をめぐらす悪党も、平気で近所の食堂から出前を取っていたのかもしれないし。
 ……市川はギャグのつもりで作ったけど理解されずに現在に至った、としたら、この作品は、生まれるのが明らかに早すぎた。
 しかし、だからといって今の時点でオリンピック前夜の東京を舞台にしてこれを作っても、ダメ。この作品の天然ボケの面白さは、出まい。この作品の面白いところは、この天然ボケにあるからだ。
 で、直情的な正義漢カツシンが、オメメまん丸で、可愛い。愛嬌がある。周りがあんまり持ち上げすぎてこの希代の役者をエライ人にしてしまって結局は殺してしまったんじゃないのか、と思う。
 その相手役(というほどではない)江利チエミが田中美佐子みたいで可愛い。
 この江利チエミ、安食堂の店員かと思ったら突然一流ホテルのメイドになって出てきたり、あげくに警察の民間麻薬モニターだった、という破天荒さ。だけど任務じゃなくてカツシンに惚れた、というのが実に簡潔に説得力をもって表現されているので、ラストの別れが妙に切ない。
 浜村純とか船越英二といった市川映画の常連が「正義の殺し屋組織のメンバー」なのがおかしい。浜村純が憲兵のたたきあげ、船越英二が機械オタク。その相棒に懐かしのロイ・ジェームス。この三人、マジにやっているのだけれど、マジでやればやるほどおかしい。パロディの基本が出来ていると思うのだけれど、意図していなかったのかな?
 一連の事件を追う刑事も出てくるが、この刑事が潮万太郎と懐かしやスマイリー・小原。この二人、なんだかんだといいながら、結局事件に絡んでこないまま映画が終わってしまうという凄さ。
 プロットとしては、彼ら『正義の殺し屋』が命を狙っている悪のボスが、実は彼らのボスだった、というどんでん返しがあるが、ほかの奇妙なディティールに目がいっているので、このどんでん返しが衝撃にならない。
 彼らは、ボスの胸三寸で自分たちの運命が決まってしまうのが堪えられないから、ボスをやってしまおうという事で、超強力接着剤を使って貨物列車を脱線させそれと平行して走る湘南電車だか横須賀線の電車を脱線転覆させて、それに乗っているボスを殺そうとする計画。
 が、正義漢のカツシンは「そんなことしたら関係ない人も死ぬじゃないか!」と猛反発。ボスだけを殺せばいいんだろ、と単身殺しに出るが……。
 ここからはナイト・シーン。
 予算の都合かスケジュールの都合か、本夜景では撮らずに、殆どを擬似夜景で撮影しているので、何がなんだかよく判らない……。名手・宮川一夫にしても、この擬似夜景は、どうにもならなかったのだろう。
 暗闇の中、一気に事件は解決し、江利チエミとの別れまでして、カツシンは海を泳ぎ去って行く……。
 娯楽映画としては、やっぱり、今の視点で見ても、かなり破天荒な出来だと思う。
 
 音楽がハナ肇と宮川泰、というのが、凄い。この起用センスは、やはり当時の市川さんが、時代そのものだったというか時代とシンクロしていたということの証明のように思える。
 
 この作品の後、あの「東京オリンピック」を作った市川は、長いスランプに陥り、そして「犬神家の一族」で復活する。
 
 僕は、黙っていれば文芸映画の巨匠、なのに、それに飽き足らず、いろんな実験をする市川さんが好きだし、やっぱり敬愛する。これほど映画を愛し新しい表現に挑もうとする人はいない、と思う。そう思うとき、「やっぱり市川崑は最高だ」としみじみ感じる。
 タイトルに「監督 市川崑」と出る瞬間のあのワクワク感。市川さんの映画は、こちらの想像を超える何かがあるから、とにかく、見てみないと判らない。小津も溝口も黒沢も、「だいたいこんな感じね」という予想通りだけれど、市川さんは、違う。
 映画が中々作れないこの時代、市川さんみたいな監督は、もう出てこないかもしれない。