不思議の国のゲイたち

監督:伊藤清美/ソルボンヌK子/五代暁子


 小生は、はっきり言って、偏見の持ち主である。特に自分の嗜好に合わない物は簡単に偏見の対象にしてしまう偏狭な人間だ。
 ホモ・ゲイ・オカマ関係については、頭では理解出来るし理屈では同性愛も異性愛も何の変わりがあろうかと思うのだが、でもやっぱり、そのケがないから、ギャグの対象にしか思えないのだ。同様に僕はオヤジもコギャルも人妻も役人も宇宙人も政治家も右翼も左翼もインテリもギャグの対象にしてしまうから、ま、そんなものである(どんなものだ?)。
 そんなワタシの、しかしエキストラとは言え出演してしまったのだから他人事ではない感想文が以下のものだ。
 
<第1話・エチカ>
 オムニバス3作の中で一番まともでオーソドックスな作りだと思う。女性が感じる同性愛に対する感覚を、素直に表現していると思うが、それだけに新味がない。
 ホモ二人の濡れ場については、3作の中で一番『感じる』撮り方になっていると思う(他の2作も、やる事はやっているのだが、他の部分に目が行ってしまうのだ)。異性愛者が、『男と女の絡み』をビデオや映画で見るとき、一番みたい部分をきっちり見せてくれている、とでも言うか、これまでのピンク映画の手法をきちんと踏襲して見せてくれる。相手の股間を丹念に揉みしだき、下着の上からであるが(これがハードコア足り得ない一般劇場公開映画の辛いところ)口づけし舌を這わせる。ねっとりしたディープキス。脚を絡めあい、躰を擦りあわせる。僕にそのケがあえば、なかなか興奮したんじゃなかろうかと思う(当日は、異質な客が大挙して見にきていたから、常連の皆さんは大変迷惑した事だろう。
 だが、映画としては、オチが弱い。ドラマとしても、ストレートでオーソドックスな分、ヒネリもないし、見応えがない。その分、その道の方には愉しめる逸品になっていたのだろうが、ワタシには詰まらなかった。
 
<第2話・映画の中心でアイを叫んだけだもの>
 この作品は、ワタシ、出演しているので、客観的に見られないし、見てはいけないのかもしれないが、努力して書いてみる。
 この作品を正しく鑑賞し味わう為には、予習が必要であった。すなわち、かの『エヴァンゲリオン』を知っていなければ、この作品の狙いであるパロディによるギャグが理解出来ない。
 パロディ映画において、モトネタを知らないと、致命的な鑑賞の妨げになる。小生、撮影中に「登場人物の名前がやたらにヘンだな」とか「こんなシュールでアヴァンギャルドな撮り方をして大丈夫なのだろうか」(ふとブニュエルを想起したのだ)とか思ったのだが、それはすべて、かの『エヴァゲリ』を知らなかった無知故のことであったのだ。
 元来、パロディ映画は、民衆に広く膾炙している有名作品を使わなければマーケットを狭めてしまう。あの『ボギー、俺も男だ』も、日本では『カサブランカ』はあまり有名ではないからという理由で、ATG(!)で公開されたほどだ。
 とはいえ。
 中野貴雄はヤクシャである。もともとユーモラスな風貌であるが、こんなに捨て身の鬼気迫る演技が出来る人だとは思わなかった。撮影中に人生を棄てたのではないか、と思えるほどの体当たり演技だ。普段女優たちにすごい注文を出して監督しているのだから、そのお返しに自分が演じる時も思いきりやっている姿を見るのは清々しい。生き方に確固とした一貫性を感じる。一歩筋の通ったその真摯な姿勢は尊敬に価するのだ。顔中ザーメンだらけにして口からどぶどぶと白濁液を溢れさせるカットは秀逸だ。
 ホモ映画としてはいわゆる『禁じ手』を使ったのではないかと思わないでもないが(だって、普通の観客が『エヴァゲリ』のパロディを進んで見たがるとは思えないもの)、しかしそれはそれ。ゲイ・ホモ映画を離れて、普通の映画としてみると、極めて実験的で先鋭的な手法を駆使し、見事に独自の世界を構築し、一本の作品にまとめてしまった監督の手腕には敬服する。
 撮影中は、「こんな撮り方で編集の時繋がるんかいな」と、元助監督としては心配だったのだが、脱帽した。見事な編集だ。カットの飛躍が鮮烈なのだ。この感覚は、長年助監督をやったり映画を見続けて、旧来の『映画文法』が染み込んでしまった人間には発想出来ないものだ。あと一歩で映画が崩壊する寸前で踏み止まっているのもスリリング。大胆なろーアングルを生かした撮影(下元氏は現場では怖いお兄さんだったが、仕上った結果を見ると、とても優秀なキャメラマンで、現場でコワモテなのもさもありなん、と思った)も素晴らしい。
 音楽の使い方も、『エヴァゲリ』を意識したものらしいが、ベエトォヴェン氏の第9からはじまってケテルビィ氏の「ペルシャの市場にて」まで使うそのゼイタクな選曲センスもニンマリする。予算がないのを知っているから、大丈夫なのかなあと心配してしまうほどだ。
 知り合いという事で身びいきするわけでは決してないが、ソルボンヌK子氏には、もうすこし予算を与えて、また一本作ってほしいものである。次回はホモでフンドシ姿ではない役で出してほしいものだが(^_^;)。
 
<第3話・在宅看護>
 3話中、もっとも映画的に安定し洗練された作品。ピンク映画界の名優・野上正義氏のフケ演技が見事で、味わい深い。ワタクシ事で恐縮だが、小生が学生時代一本だけやったピンク映画の助監督に出ていたのが野上氏で、そのシャレものぶりと男盛りを知っているので、「うーむ。歳月を感じるなあ」と思ってしまった。この作品の成功は、野上氏の渋い演技と、それを引き出した五代監督の演技指導の賜物だ。
 だが。
 この映画は惜しいところで失敗している。
 スタイルが中途半端なのだ。全編『活弁』を使い、役者のセリフを排しているのだが、その『活弁』が『活弁』足り得ていない。また、映画のフォルムが『サイレント映画』になっていない。
 つまり、『活弁』が『ナレーション』というか、『目の不自由な人の為の副音声』でしかないのだ。
 見たところ、色彩は色を押さえて、なんとかセピア・トーンを出そうとしているように思えたし、フィルムの回転数を多少落として、サイレント映画特有の動きがチャカチャカした感じを出そうとしている。
 つまり、監督の意向としては、サイレント映画のスタイルをやろうとしているわけだ。スポークン・タイトルも多用しているから、それは一目了然だ。
 ならば、『文化映画のナレーション』ないし『目の不自由な人の為の副音声』ではいけない。『活弁』たらんとするならば、『活弁』をやるヒトは、その口調を再現し、役者の台詞を声色を駆使して喋らなければならない。動きの説明の部分も、この映画でやっているような「普通のナレーション口調」ではいけないのだ。
 「過ぎ去りし若き日は、ラディカルなゲイで鳴らした千吉も、今や老いさらばえて寝たきりになっているのでありました。そこに現れましたのはホームヘルパーの〇〇君……」というような独特の口調でなければ。
 また、役者が喋りだしたら入るスポークン・タイトルの使い方もおかしい。本来この『字幕』は、役者が喋り出した途端に現れて、喋り終わり寸前で元の画面に戻すのがサイレント映画のルールである。この作品では、それを知らなかったのか、あえて無視したのか、役者がその台詞を喋り終えてからスポークン・タイトルが入る。これはやっぱりヘンだ。無視したのならば、どうしてあえて無視したのか、その狙いが判るカットなり仕掛けを見せなければならない。
 そのスポークン・タイトルにしても、本業者に発注する予算がなかったのは痛いほど判るが、あの字と撮影では興ざめである。真似をするならせめてそのスタイルに肉薄した上で遊んでほしい。
 そういう演出上の欠陥はあるにしても、お話は実に良くまとまっているし、映画としての完成度も高い。ラストには、哀感すら漂って、一服の名作を見たような感慨があった。だからこそ、演出スタイルは極めてほしかったのだ。
 僕ならば、『いかにもサイレント』というムードを出す為に、撮影スタイルは小津調のフィックスのローアングルに固執し(つまり、パンや移動はしない)、すこし露出を開けぎみにしてもう少しフィルムの回転を落とす。20コマを切るくらいか。あまりクロース・アップは使わない。使ってもバスト・ショット。もっといえば、画面の左右をマスクして、スタンダードにしてしまう。スポークン・タイトルは自前で作るにしても、もっとちゃんとした黒のタイトルカードに、それらしい文字で字詰めも考えて書いて、キャメラマン(いや、プロデューサーか)に泣いて頼んで、ハイコントラスト・ポジでタイトルを撮影してもらう。そして、これを入れるタイミングを編集にうるさく指定して、昔のスタイルを醸し出す。
 
 しかし、こんな実験映画的な作品を作ってしまったというのは、かなり凄い事ではなかろうか。これがヒットして、この路線の次回作が出来るのを期待したい。いや、もっと言えば、ゲイ・ホモ映画の範疇を越えて、ソルボンヌK子氏と五代暁子氏の新作を見たいのだ。