ゴジラ対メガギラス
監督:手塚昌明

(東京映画祭オーチャードホール)

 いろいろ科学的に問題はある部分はあるとは思うが、まともな映画を作る気がなかったのではないかと思われた前作を遥かに凌駕する熱気の籠った作品である。
 この作品、編集段階とダビング段階で摘まみ見していて、多少的はずれな印象を持ってしまったが(一部の芝居がオーバアクトに見えて「ああこれは東映変身ヒーローものの線なのね」と思ったり)、全篇きちっとみると、そうではなかった。
 
 怪獣が、渋谷でアベックを襲う描写は、極めて残酷、暴力的で、これを見て、僕は快哉を叫んだ。
 そうだ!怪獣というものは残酷で怖いものなのだ。ビルを壊す、というだけじゃ怖さの実感はないが、猛獣よりも怖い存在なのだ、ということを一瞬にして判らせる、この短いシーンのインパクトは相当だった。この件はあとに詳述。
 
 ゴジラが単独で現れて、ゴジラの恐怖をきちんと描けばいいじゃん、というのが僕の持論だが、それは諸般の事情で出来ない話なのだろうから、おいておき、なんらかの新怪獣と戦わねばならないのだ、という前提で話をすすめる。
 
 前作やそれ以前の作品と本作を比較することは余り意味がないとは思う(一応シリーズだが、内容はつながっていないのだから)が、本作がはっきり示した『基準』は大切なのではないか。

・ゴジラはガメラ(なんせguardian of the earthなのだから)と違って、あくまで人類の敵である
・ゴジラは、その闘争本能に従って、戦うのである
・ゴジラは、エネルギー源を求めてやって来るのである

 今回、「現在に至るまでのこの世界の歴史」を開示したのはとてもよかった。ゴジラが存在するパラレルワールドをきっちり見せ、設定したのだ。その際に、邪魔で余分な旧作の設定をすっぱり切り捨てた判断は素晴らしい。ゴジラの原点は、54年ゴジラのみにあるのだ、という鮮明な姿勢は、「世界一のゴジラマニア」を自認する監督としては当然の、そして、彼だからこそ出来た判断ではないか。ゴジラとゴジラが存在する世界に対するポリシーがなければこういうことは思いつかないだろう。
 
 天災というか大地震というかそういうふうな「日本だけを定期的に襲ってくるもの」である存在と規定されたゴジラに対して、日本は、対策官庁を作る。その戦いの経緯で、自衛隊から分かれた別組織、ゴジラ攻撃に特化した部隊である、というのも納得できる。その実行部隊の隊長が若い女であるということも、一応、理解は出来る。
 
 そして、今まで取ってつけたように登場した新怪獣が、「呼び寄せられるように」出現してしまった、というのは理にかなって、うまいと思う。
 
 とはいいつつ……ここらで、この作品への不満を列記してしまおう。
 
・「ブラックホール」って、ああいうふうに扱えるものではないのではないか?空間の歪みは続いて、どこかにホワイトホールがあるはずなのに、この描写ではブラックホールはそれ単体で閉じた球体のように設定されているが。そして、ブラックホールは特定の物体のみを吸い込むわけではない。星を飲み込むほどなのだから、ブラックホール兵器が使用された地点では、周囲の大気も吸い込まれ、それはもう大変な事になるのではないか。
・そのブラックホール兵器『ディメンション・タイド』を搭載した人工衛星が落下しながらゴジラ攻撃に成功するが、この衛星、静止衛星なら特に、真下に『墜落』しないんじゃないか?静止衛星は地球の自転と同じ速度で飛んでいるのだから、制御不能になって静止軌道を離脱して大気圏内に突入したら、長い放物線を描く形で落ちてくるはずだ。そして、その摩擦熱で崩壊し、特に下の部分が摩擦に晒されてるのだから、本来の攻撃能力は最初に破壊されるはず。
・日本映画がコンピューター関係を扱うと、いつも基本的なミスを犯すが、今回は、OSとユーティリティ・アプリケーションを取り違えていないか?あの看護婦が出てくるOSで他のシステムをチェックする、というのは、ウィンドウズでリナックスで構築されたシステムをチェックする、というようなもので、これはもう、ノートン・ユーティリティーズと取り違えているとしか思えない。それに、看護婦のCGをあんなに出したらグラフィックにましんぱわーをかなり取られて、本来のチェック能力が低下すると思う。リアルにやればコマンドラインがだーっと流れるだけになって、それじゃ映画的ではないとは思うが……。以上、SF関係。
・中村嘉葎雄の生物学者。突然出てきて棒読みセリフを喋って、消える。誰これ?
・少年が近所の下水にメガヌロンの卵を棄てた事を田中美里に告白するシーン、これはカットしたほうがいいのでは?少年が棄てたシーンと直結だし、少年と田中美里の繋がりがまったく描かれていない以上、唐突だ。このシーンを使うなら、被害が増大したあとだろう。少年が罪の意識に苛まれて美里に会いにくる、としなければ。が、被害が増大した時点では田中美里はてんてこまいになっているから、このシーンは繋げられない。ならば、少年はもう忘れてしまってもいいのではないか。実際、ドラマに関ってこないのだし。
・セリフで不適切なではないかと思われる表現が……。「渋谷の地下水脈が決壊しました」というこれ、「決壊」というかなあ……、と。(以上、中身関係)

 とはいっても、前作のようなリアリティ無視という姿勢とはまったく違う、なるべく理にかなった展開にしていこうという姿勢はみられるし(平成ガメラほどには徹底されていないが)、キャラクターの描き方、動きも自然だ。
 これは、演出はまっとうだが、脚本にやはり、不備がある。上述した不満は、すべて脚本段階で訂正できるものばかりであると思う。編集でカットして不自然になった部分もあるだろうが。
 しかし、新怪獣の怖ろしさをハッキリ見せるシーンの残忍さは、「サンダ対ガイラ」でスッチーを鷲掴みにして食ってしまう、というシーン以来の(しかも描写の迫力は段違いに本作の方が凄い)ものではないか?渋谷の水中に潜んだメガヌロンが自衛隊員を残酷に襲うとか、あと数シーンダメ押しすれば、迫力は増して、かなり怖い怪獣映画になったのではないかと惜しまれるところだ。
 特撮の見事さは、絶賛に値する。特に実景との合成は見事で、渋谷水没とか、東京の町の空撮の中にゴジラがいる、というカットの鮮烈さは特筆すべきだろう。
 
 あと、監督のウィンクを感じる部分が随所に散りばめられていて、「好きなひとが楽しんで作っている」という魅力は満載であると思う。とにかく、平成ゴジラの場合、本作までの長い間、ゴジラが好きでもないひとが作って敗退してきた歴史にピリオドを打った、という感がある。
 完成した作品にあれこれ文句をつける場合「じゃあお前が作ってみろよ!」と言いたくなる事が多いのだが、今回僕が感じた不満はすべて、「脚本段階で意見を言わせて貰っていれば脚本のバグ叩きは出来た」という自信というか気持ちはある。
 
 前作で、長期低落の底を打ち、ゴジラは反撃に転じたような気がする。手塚監督のもとで、平成ガメラとはまた違った、まともな怪獣映画を作れる雰囲気を感じる、というと楽観的すぎるだろうか。特撮はOK、演出もOK。後は脚本だけである。大嘘は細かなリアリティに支えられる、という法則をもう一度思い出してほしい、と切に願う。
 
 最後に……舞台挨拶で着ぐるみゴジラは出さないでくれ〜!出すなら、現寸大の足だけとか尻尾だけとかにしてくれないと、怖くないぞ!スーパーの屋上でやるイベントじゃないんだし。