監督:ローランド・エメリッヒ
賛否両論あるうちの、『否』のほうが多かったように思う。本公開も終わり、うるさい雑音も出尽くしたので、逆に静かな環境で感想を考える事が出来る。
で、僕は、ためらいもなく『賛』である。それもかなり熱狂的な『賛』。
僕は元祖ゴジラのあの胴長短足着ぐるみ体形の鈍重なスタイルを好きなわけではない。というか、僕は、怪獣が引き起こすパニックに興味があるのであって、怪獣のキャラクターが好きな訳ではない怪獣映画ファンだ。「モスラ」は例外的にあのキャラクターが好きだが。
だいたい、怪獣というものは、映画においては、混乱と破壊をもたらす狂暴な『マクガフィン』でいいのだ。その怪獣が愛されるとかどうとかというのはまったく別問題なのであって、見にきた観客が勝手に好きになってあーだこーだ言うだけの事だ。映画の出来や本筋には何の関係もない話。
その上、本作品はアメリカ映画であるから、元祖日本版の、あの、歌舞伎のような荘重なリズムを受け継ぐ必要もないのである。この作品を見たら日本版のゴジラは「勧進帳」の弁慶みたいな感じだ。
まあ、この作品も、子細に見て行くと、いろいろ言いたいことも出てくる。あまりにあっけなくゴジラを見せ過ぎたんじゃないのか(もっと見せずに引っ張れ、ということ。「ジョーズ」が最高の見本)、とか、ニューヨークを破壊していくのにコクがないとか(せっかく、世界のニューヨーク・マンハッタンを破壊し尽くすのに、もっとじっくりやってほしいよなあ、と思ってしまう。マンハッタン島の先端方面から上陸したのなら、ランドマークをじっくり壊しながら北上してほしかったが(^_^;)。どうせやるならクライスラー・ビルだけではなく、5番街やカーネギーホールやリンカーンセンターや……要するに、名所を一通り壊してほしかった。なんせ怪獣映画とは破壊を見せる映画だと思っているので。高速道路や地下鉄、鉄道、飛行機の使い方も……)、マシュー・ブロドリックの昔の恋人があまりにバカ女過ぎて鼻白むとか、あの日本人船員はどうして「ゴジラ」と口走ったのかその説明がないとか……。
いろいろありますが、それらはこの巨大な破壊映画に対してはハチの一刺しに過ぎない。
エメリッヒと言う人は、前作「インデペンデンス・デイ」を見れば判るように、『大掴みの人』『ハッタリの人』なのだから、細かい事をちくちく言っていてはこの作品を正しく鑑賞出来ない。
その意味で、作品の構造と言う観点から考えると、この映画は傑作なのであって、アメリカ版ゴジラは、この形以外、あまり考えられないのではないか、という事だ。
フランスのムルロワ環礁での核実験で、トカゲが巨大化した責任を取るためにやってきたフランス特殊部隊のオヤジがジャン・レノというのはいいではないか。この映画、やっぱりレノが掠って行った、という感じだ。ずっとコーヒーの味に拘っていたのもいい。
また、この手の映画としては、上記のレノにマシュー・ブロドリックと言うそれなりのギャラを取るスター級俳優を起用したのもいい。特にブロドリックは「パニックになった時の表情」が最高に素晴らしい。彼以上の表情が出来る俳優はいないんじゃないか。「ケロッグ博士」を見てそう感じたが、この作品でその認識を新たにした。
その上、あのバカ女役を腹が立つほどうまく演じたマリア・ピティロとか、脇役にはそれなりのヒトを配している。
僕が感心するのは、ディティール描写、である。ずん、という足音の響きと同時に伝わって来る振動。それで路上の車が飛び上がる。こんな描写、東宝怪獣映画で見たことがあるか?あんな巨体が接近して来るんだから、地震級の振動が発生するべきなのだ。
それに、街中で大砲やミサイルを飛ばしても、かえってビルを破壊するだけ、というリアルな部分もいい。命中させておきながらなまじ「ゴジラにはミサイルなど効かない」などと言わせるのも考えものだと思うからだ。そういう姿勢から妙な『ゴジラ神格化』が始まるのだから。
ここでふと思ったのが、『誰の気持ちで描いていたか』という事。
この作品は、「巨大トカゲの気持ち」で描ききっていた、と思う。トカゲだから走る。日本版は、あくまでも「着ぐるみの気持ち」だ。怪獣の気持ちになってバトル・シーンを構築していたとは思えない。それは原典版にもいえる事だ。「着ぐるみシステムだから無理だよね」とか「中に入ってるヒトの事を考えたら無理は言えないよね」などと観客に思わせてしまうと、それは作り手の負けだろう。東宝怪獣映画はその失点ばかり積み重ねてきた。新ガメラはその点をかあまり感じさせない。
で。
海軍が登場してからは、ミリタリー描写の迫力が増し、「やっぱり世界のアメリカ軍だからして、自衛隊とは迫力が違うなあ!」と思わせる『エメリッヒ節』がますます調子をあげて来る。
日本版(あくまで原点版の事)はいわば男のドラマだったが、ハリウッド版は、やっぱりアメリカ映画である。多少のラブロマンスは映画の必須条件なのだ(例外もある。例えば「アポロ13」には無用だった)。で、その結果、バカ女の計略に引っ掛かって主人公の博士・ニックはチームから外されるが、ジャン・レノのフランス・チームに招かれる。映画が魅力を放つのは、本当はここからだ。アメリカ軍・ニューヨーク市の関係者には魅力ある人物はいないが、ジャン・レノのおかげでフランス・チームがとても魅力的になっているからだ。
しかし、だからといってフランス・チームがミラクルな手腕を発揮する訳でもない。
日本人には、というか、僕には、『ママ・ゴジラは生き残っていた』という展開は、それまででほとんど満腹だったので、その上にステーキを食わされるような感じだった。
というか、結局、見せ場のバリエーションがないのだ。全部をマンハッタン島内で済ませてしまった結果、ビルの谷間を爆走するゴジラ、それを追う軍、という構図が何度も繰り返される。海軍のシーンが良かったのは、そのワンパターンから外れて新しい趣向が出てきたからだ。
この作品に『反核』『反戦』のテーマがないというが、これだけ入っていれば充分ではないのか? これはプロパガンダ映画のリメイクではないのだし、日本版だって、原典版以外、反核も反戦も影も形もないではないか。
日本人がツマらないと思うとしたら、原典版に濃厚な「悲壮な気分」がないからだろう。
しかしあの気分は、戦後そう時間を置かずに作られて、第五福竜丸事件があったという世相があった事を忘れてはいけない。「また戦争になるのか」という気分は、当時としてはすごくリアリティがあったろう。スタッフにも観客にも。
また、ローテクの迫力、というものもある。CGなんか夢想もしない当時である。合成も初歩的だし、シュノーケル・カメラもないからミニチュアを撮るにしてもアングルの制限があった。当時は小型カメラもなく巨大なミッチェルや、せいぜいアイモしか使えなかった。ミニチュアなどの材料も今より乏しかったろうし、フィルムの性能も悪かった。だからこそ出た強烈な迫力というものがあるのだ。それがルーティーンワークになると、途端に堕落の道を突っ走るのだが。
僕はこの作品に大満足だ。ま、やっぱり、条件反射的に、伊福部サウンドを聞きたい!という気持ちはあったが。
願わくば、第2作以降、怪獣トーナメント戦にはしないでほしい、という事だ。