ギャラクシー・クエスト
監督:ディーン・パリソット
極めて巧妙な映画であって、そして……実感の籠った愛情溢れる映画だ。
「オースティン・パワーズ」系の『おばか映画』(ナンセンス・パロディ映画)とは、その対象へのシンパシーの温度差があるのだろう。モトネタへの愛情失くして優秀なパロディ映画を作ることは出来ないが(この辺を勘違いして単純にモトネタを笑い物にするだけの噴飯モノの『バカアホ映画』もあるが)、向こうはもっと距離を置いている。しかし、この作品は、違う。モトネタへの深い愛情と敬意、そして、なによりもモトネタに夢中になってしまった人々(たぶん作り手たち自身への思い)への深い共感と『スペオペTVシリーズを愛してもいいじゃないか!』という開き直りにも似た(^^;)自己肯定を感じた。そして、それに、不覚にも涙してしまったのだ。
古来、オタクというものは理解されず外部のノンケな人々からはバカにされてきた。それはどんな種類のマニアにも当てはまる事だ。彼らは「理解されなくてもいいもん」と思って話が通じる小さなグループの中に安住の地を見つける(これは人類古来の法則だ。世界各都市の日本人コロニーの存在を見よ)。そしてますます外部の人間に揶揄される……。
ダニー・ケイの旧作で、ユダヤ人の主人公が追っ手を逃れてとにかく逃げ回る映画があり、「私のようなツマらない人間でもツマらない人生をおくる権利くらいはあるんじゃないか」と精一杯の自己主張をするシーンに感動するのだが、ま、僕は、この作品に、それに似たものを感じてしまって、かなりの感動をしてしまったのですな。
誰が見ても「スター・トレック」とそのマニア「トレッキー」をパロディにしたとしか思えないシーンは、痛い。僕はトレッキーではないしあのシリーズをそんなに面白いとは思わないが、「タイムトンネル」「宇宙家族ロビンソン」「原潜シービュー号」にはかなりハマッたから、そのファン心理は理解出来る。
だから、あのファンの集い(コンヴェンション?)のシーンの描写はとても辛辣で、ズキズキ突き刺さってくる。「今回発見された幻の第92話!」というのも、人気シリーズにはつき物のアリガチな事で、それがのっけに来るのだから、もうツカミは充分である。
そして……『クエスタリアン』たちの異様に詳しい知識と熱中具合もさる事ながら、シェイクスピア役者のプライドを棄てられない(このシリーズしか目立ったキャリアがない)アラン・リックマンの役は、そういう実例がごろごろいるだけに、リアル過ぎて笑いが凍りついてしまう。アラン・リックマンという『力のある舞台俳優なのに「ダイ・ハード」のテロリストで有名になってその線の悪役になってしまうかと思いきや、そうならなかった名優の域に達した偉いヒト』というスレスレのキャスティングが、なんともスリリングだ。マーティン・ランドーなどの例があるから、この俳優たちの設定は、笑えないんだよなあ。
『指示を繰り返すだけのグラマー』な女優をシガニー・ウィーバーがやっている、というのも『スレスレ感』たっぷりでものすごくスリリングだ。なんせ「エイリアン」シリーズでスターになったけれど、その他の映画で名女優の地位を確固たるものにした演技派のエライ人が、胸の谷間を強調したコスチュームで役柄を楽しそうに演じているのだから(そして、この作品の彼女が全キャリアの中で一番きれいに写っているぞ)。
沈着冷静でリーダーシップの権化のようなイメージで売る『艦長』も、役者として他に仕事はなく、18年前に終わったこのテレビシリーズの『遺産』でのみ食っている。割り切ればそこそこ食えるし(なんせ艦長はプールつきのけっこういい家に住んでいるし、他のメンバーもそこそこいい暮らしをしている)イベントに呼ばれてちやほやもされる。イメージが固定してしまって今や役者というよりイベント要員だが、そう割り切れば、いいのだ。
しかしそこに葛藤がないはずはない。前述のようにアラン・リックマンは「もう嫌だ!」と思っているし(しかし生活を考えると止められない)、他のメンバーも艦長だけがイベント仕事を独占している気がして心穏やかではない。そして、テキトーにこの生活を楽しんでいるように見えた艦長も、トイレの中でファンの冷たい声「あいつらもバカだよなあ。おれ達にチヤホヤされて喜んでるんだからさあ」というのを聞いて大ショック。
ここらへん、彼らはもっと落ちぶれていて生活も荒れていて、というふうにしたらどうだろうかと思ったが、それはさすがに本物の「スター・トレック役者」たちに失礼だし、映画のバランスを考えると、得策ではなかっただろう。現状が一番収まりがよかったのだろう。
コンヴェンションの会場で会った「重度のクエスタリアン」が、本物の宇宙人(サーミアン)で、彼らは「ギャラクシー・クエスト」を歴史ドキュメンタリーだと信じ込んでいて(なんせ彼らには『嘘の概念』がない……これが終盤、泣かせるエピソードになっていく)、艦長に出動を要請しに来たのだ……。
ついに、筒井康隆的発想がハリウッドにも定着した、という感慨もあるが、とにかく、この設定がうまい。彼らは犬のように従順で疑いを知らない。そして彼らは、宇宙一邪悪な帝王に征服されようとしている。これはトゥルー・ストーリーなのだ。
こういうバカバカしい話を、映画は、金をかけ丁寧な演出で見せていく。
アメリカ映画が凄いのは、こういう映画でもけっして手を抜かずきちんと作るところだ。練り上げられた脚本は随所に伏線が張り巡らされ、キャラクターも明確で、そして特撮が凄い。当然の事だが、宇宙空間で繰り広げられるバトルは『本当の事』なんだから。
アメリカ映画は、やっぱりすごいと思う。
で、本物の世界を体験してしまった艦長は他のメンバーも参加させ(新手のイベントだと思ってみんなやって来る)、悪の帝王と戦う事になるのだが、脚本もなければ監督もいない。スタニスラフスキー・システムよろしく、すべてアドリブで『生きた役柄』としてキャラクターを演じなければならない。
死ぬ思いをして、一度は逃げ帰ろうと思うけれど、疑うこと知らないサーミアンたちに心から尊敬され、でたらめな設定で登場した『デジタル転送機』がきちんと作動して艦長の窮地を救い、だんだんと「役柄を越えた使命感」に目覚めていくところが、泣いちゃうほど、うまい!こういう展開はお約束であるのは判り切っている(じゃないとお話が続かない)のに、彼ら全員が本気になるところはゾクゾクするし、極めて嬉しい。
が。帝王に宇宙船を拿捕され、サーミアンのリーダーが掴まってしまい、艦長はすべてフィクションで自分たちは英雄ではなく単なる役者なのだと告白(というかなんというか)して事態の打開を諮ろうとするが、そんな『込み入った事情』など、悪の帝王には関係のない話だ。が、自分たちが信じきっていた『偶像』が嘘だと知ったサーミアンのリーダーは、声をあげて泣く。この部分、意表を突く哀切さが込み上げて、こんな映画でなんでこんなに泣いちゃうのだ、と思ってしまうほど見る側も泣いてしまう。これは実に不思議な感動だ。いや、この役を演じるエンリコ・コラントーニが最高にうまいからだし、ここまでの展開が水も漏らさぬ完璧さゆえなのだが。
リーダーの身を切るような泣き声に、彼らは『フィクションの壁を乗り越えて』、悪の帝王を倒そうと決心する。
役柄に完全になりきってしまった彼らの勇姿を見よ!
しかし、何百話もある長いシリーズのこと、細かな設定など覚えているわけもない。艦長は、地球にいるクエスタリアンの少年(彼はヒッキーだ!)に連絡をして(「私だ。艦長だ」「あ、艦長、僕もバカじゃないから、この前言われた事を自分なりに考えました。テレビはテレビであって本当のことではないのだと……」「いや。本当の事なんだ。君の助けを借りたい」「ヤッホー!」という抜けた会話が、これまた泣けるんですなあ)、宇宙船の炉心を停止させなければならない。
スタッフが適当にその場しのぎで考えた設定を、マニアは論理的に解明し矛盾を正して驚くほど精緻な設定検証をしている事が多いのは、現実に周知の事実である。それをこの作品は上手に利用している。クエスタリアンの少年の知識を利用して、艦長とグラマー少佐は炉心へ進むが、スリルを盛り上げるためだけの意味ナシな仕掛け(それが実に意味がないので爆笑するのだ)に遭遇して絶体絶命。「これを書いたシナリオライター、殺してやる!」というシガニー・ウィーバーのセリフが秀逸。
しかし少年たちの驚異的な知識と知的能力によって間一髪、危機は回避される。
自分の役柄とキメのセリフ「トカゲアタマにかけて……」を自ら口にして悪の帝王に復讐を誓うアラン・リックマン! お約束だがこのシーンも感動する。
サーミアンのリーダーも回復し、全員は一丸となって、悪の帝王の宇宙船を撃破する。このシーンの、全員ツボにはまった活躍は、テレビシリーズの再来というべきもので、ファンならずとも血湧き肉踊る(ま、そもそもこれは架空のシリーズなんだが)。
サーミアンたちと涙の別れをして地球に戻った彼らは、帰還船でコンヴェンション会場に突っ込み、やんやの拍手を受けるが、帰還船には悪の帝王が乗っていた。しかし鮮やかなアクションで一発で仕留めてしまう艦長。凝った実演ショーだと思い込んで沸きに沸く会場。
しかし、艦長たちと、クエスタリアンの少年たちは知っている。これは本当の大冒険なのだし、自分たちは試練に耐えた本当のヒーローなのだと。
こんなバカな話で、なんでこんなに感動するのだろう。話の展開はすべてお約束通りだし、なんの破綻もない。現実とフィクションの問題は、シュワルツェネッガーの「ラスト・アクション・ヒーロー」でもやっている。が、あの映画には、こんな感動はなかった。
ダメ人間の再生、とか、価値観の転換、とか、いろんな感動の要素は詰っているのだが……僕自身、スペオペは好きではないし、ヒロイック・ファンタジーなんか屁だと思っているし、「スター・トレック」は好きじゃないし、このプロットの核心アイディア自体そんなに目新しいものでもないのに、かなり深い感動を味わってしまった。
それは、脚本の作りが完璧で、演出がきっちりしているからだろう。そして、役者がみんなうまいからだ。主役のティム・アレン、シガニー・ウィーバー、アラン・リックマンがうまいのは当然の事として、「92話ではCM前に死んだ」脇役のサム・ロックウェルもいいし、なによりエンリコ・コラントーニが出色の出来だ。
ラスト、「18年の歳月を経て、ついに『ギャラクシー・クエスト』映画化! introducing...」でサム・ロックウェルが紹介される(ついに彼はレギュラーの座を掴んだ!)ところまで、笑いに笑わせ、しかしこの『予告編』は、同時にじんとくるのだ。フィクションへの回帰、というのはおかしいが、彼らも念願の役者の仕事が出来るのね、というお祝いしたい気分と、もはやフィクションの役柄とは不可分になってしまった彼らの帰る場所はフィクションしかないという(悲劇的否定的哲学的厭世的ではない)辿り着くべき場所への帰還、というような事が頭の中を去来して、じわじわとした感動が後まで残った。
ここまで入れ込んで感動しちゃうのが、異常なのかなあ?