回路
監督:黒沢清
この数年、見る映画見る映画がほとんどアタリで、時間の無駄だったと腹が立ったり金を損したとムカつく事がほとんどなかった。これは、見る映画の本数が激減しているので、見たら全部感動しちゃうのかもしれない、とけっこう危惧していた。それはハッピーな事で結構な事かもしれないが、「映画を見る目」ということで考えるととてもまずい。
が、この作品を見て、「うわ。ダメだ」と思えたから、安堵した。カンヌで賞を取ったとか、そういう事は作品の評価には関係ない。
作る側の苦労がよく判っているから、あんまり批判するのは気に障るし、つまらんと思ったら黙ってるのが一番かも、とは思うけれど、この作品は、駄作と切って棄てるのは惜しいモノがあるので、考えてみたい。
ダビングを終えて、0号試写を見て、初めて気づくことは多い。脚本段階で作品の全体像が見えていればそれは最高なのだが、紙の段階というか机上プラン(絵コンテを含む)で浮かんだイメージをそのまま映像化出来ない事の方が多く、「シナリオはよかったのになあ」という映画は山ほどある。キャスティングにしてもそうだし、意中のロケ地を確保できなかったりスケジュールが押してきたり予算が足りなくなってきたりして欠番を作るとか部分的に脚本を書き直すと、最初の構想からどんどんズレていく。これは悲しい事だが、全世界の監督が毎日直面している根元的問題でもある。
撮影中は、(とくに日本は)ショットの断片を撮り集めていくから、その断片から全体のイメージを再構築するのは経験が必要だ。編集にしても最初はシーン単位でまとめていくから(撮影と並行して編集できるのはメジャー作品に限られるのではないか?)、全体像が見えてくるのは製作スケジュールのかなり最後の方だ。途中でリテイクしたり脚本を書き直して軌道修整できればいいが、それが出来ない場合、ダビングの時に「あ!」と悔やむ監督も多い(と、断言してしまおう)。もっと悪い場合は、初めて全部がつながってすべてが見える0号試写の時に「あっ!」と思う場合だ。
この作品、黒沢清監督は、ポストプロダクションの段階で「あっ!」と思ったんじゃないのかなあ、と僕は考えた。
ホラー映画として考えるなら、この作品がもっているモチーフはなかなかいい。しかし、そのモチーフを生かす設定や展開が脚本段階で考えられていないか、考えが足りなかったのではないか、と思える。つまりそれは、テーマがよく判らないからだ。
テーマとは、主義主張の事ではない。『作品を収斂させていくモノ』だ。なにを描きたかったのか、ということだ。
周りから友達が消えていく恐怖。
というのを描きたいのなら、もっとやり方があったろう。今の若い連中の人間関係は、携帯とかインターネットを介していて昔より淡泊だ、とよくオトナはいう。しかしそれは大人の旧弊な価値観から見ればそうなのであって、人間関係を保たせるメディアやツールがどう変わろうと、友情とか愛情には変わりがない、といえると思う。
ならば、インターネットのサイトを通じて、不可解な映像が送られてくる、というのをテーマに即してうまく活用するならば、その不可解な映像は、登場人物たちに関係のある人間たちならどうなのだ?
この作品ではまるで無関係な他人が映し出されるが、そうではなくて、関係がある人間たちが「引き籠り」になって「助けて……」と助けを求めている、しかし登場人物が助けに行っても彼らはもうすでにいない……、とすると、現代の『引き籠り問題』を田口ランディ的に引っ掛けて、現代というものを考察するフックになり得たはずだ。
なのに、この作品の脚本や演出ではそうなっていない。
これでは、『呪われたインターネットのサイトがあって、そこにアクセスしたものはみんな消えてしまう……』という話だ。しかも、その線ならその線で徹底すればいいのに(「リング」のように。あれも問題のある作品だが、『呪われたビデオ』という線で押しているではないか!)、途中で話が変わってしまって、赤いガムテを張った部屋の中の恐怖に話が変わり、そして最後には「みんながいなくなる恐怖」にすり替わっている。この3つを結ぶものは何なんだ!?「みんながいなくなる恐怖」というのはいい。ならばそれを描く映画だったのか?それなら違う方法論の方がうまくいったでしょ、という事を言いたいのだ。
これでは、映画を貫くモノがない。あったとしても、それに収斂して行かないから、フヌケである。
演出についてもしかり。
ホラー映画として、通俗的恐怖を盛り上げるなら、演出が決定的にヘタクソだ。たとえば、花屋のお兄ちゃんが赤いガムテの部屋に入ると、妙な人影がいて、それがどんどん近づいてくる。お兄ちゃんはわざとらしく置かれたソファの後ろに逃げ込んで、床を見ると、その謎で不気味な人物の足がない。え?と思うお兄ちゃんのアップ。ここで普通なら「もしや……」と思って上を見上げるだろう。その次には、彼の目線で、自分に覆い被さってくるその人物のアップが入って、「ギャーッ!」ということになる。これがオーソドックスなカット割りだ。こういう場合は、オーソドックスなセオリーに従う方がいい。何故なら観客はそういう映画文法に促した展開を望んでいるし、それが一番効果があがるからだ。違う手を使うなら、それよりもっと効果がある新手を開発しなければならない。なのに、黒沢清は、何を間違ったか、謎の人物の背中ナメでソファの影にうずくまるお兄ちゃんを撮る。
これじゃないだろう。
何だかよく判らないものをモヤモヤと撮れば気味悪くてホラーっぽくなる、というのは「リング」で発明されたものだが(そんなことはないけど)、この作品も、上記の『謎の人物』をそういうふうに撮っている。しかし……ライトが当たっていなくてピントもズレているから怖いかと言えば、そんなことはないのだ。
旧来の通俗ホラーを脱して、違うものを撮りたかったのだ、違う文法で恐怖を描きたかったのだ、と黒沢清は主張するかもしれない。
ならば、話の構築においても演出においても、『違う文法』を発明しなければならない。撮影にしても音楽の使い方にしても、しかりだ。
それに、フレームの中の情報量が少なくて(美術のセッティングの問題と照明の問題。こんな平板なライティングじゃ面白くないだろう)、画面がスカスカ。金がないなら手前にナニカナメルとかして画面をもっと密にしてほしい。これならアップで押した方がずっといいぞ。
同時上映の「ザ・セル」はそれなりに金の掛かった映画だが、工夫しだいであれくらいの効果は出せる。
カンヌの連中がこの作品のどこを評価したのか知らないが、黒沢清って、こんなにひ弱な監督だったかなあ、と思わざるを得ない。大映とか日テレが金を出してるんだから、商業映画だしエンターテインメントでしょう?ならば、ハッタリとかブチカマシとかケレンも必要なんじゃないか?スタイリッシュかといったらそうでもないし。
違和感を出すために全編アフレコにして音の面でもむず痒さを演出するとか、いろいろ手はある。
この映画は黒沢清の作家映画なのかもしれないが、それなら黒沢清ひとりにもたれ掛かるには黒沢清は弱い。エンターテインメントなら、スタッフみんながアイディアを出し合って工夫を凝らして作り込んでいくべきなんじゃないのか?
加藤晴彦と麻生久美子はよかった。それから、役所広司は出てくると安心する。
だけど、ラストは、どう考えても、「渚にて」だよなあ。
で、きっと、0号を見て、黒沢清は、「こうすればよかった」とあれこれ考えてるんじゃないのかなあ。