マトリックス
監督:ウォシャウスキー兄弟

 監督デビュー作「バウンド」で、ウォシャウスキー兄弟はその異才ぶりを颯爽と発揮した。新人監督に課せられた低予算という重い枠を逆手にとって、アパートの一室の中でほとんどが進行する、密度の濃い、考えに考え抜かれた物凄い傑作だった。そのウォシャウスキー兄弟の新作は、大作である。
 が、サイバーパンクに疎いし、どこか拒絶反応してしまう僕は、この作品の前半は、カンフー場面を除いて、ダメだった。いろいろと疑問が湧きあがってついていけなかった。
 しかししかし、後半になってアクション全開になると、そのハッタリ精神に大喜びした。
 僕はこの作品、こ難しい事を言わずに、映像の快感に身をまかせておけばいい『イッちゃった』映画であると思う。キアヌ・リーブスが主役だから、なにやら難しい設定だから、観客も笑っちゃいけないムードで真面目に見ているが、これ、実は、相当にヘンな映画であると思う。主演がマイク・マイヤーズで、弾を避けるたびに「シャガデリック!」と叫んでも成立するような世界ではないかと思う。それほど、この作品の世界はトンデモだと思う。
 
 前半、眠くなりそうになるほどに判らなかったポイントは、おそらく筋金入りのSF者なら鼻歌まじりで解き明かしてくれる事かもしれないが、僕には理屈が合わない事だらけで、それに引っ掛かって、先に進めなかったのだ。アクション以外の「理屈」の部分では、どうにも合点がいかない事だらけだ。以下、箇条書きにする。
 
◆ネオはどうやって見出されたのか?(コンピューター犯罪の『輝かしい』犯歴で?)
◆世界はマザーコンピューターの支配されている、というのはいいけれど、どうして本当は2199年なのに、仮想世界ではわざわざ1999年なのだ?
◆ザイオンとかいう人間がオペレートしているらしいコンピューターの事が曖昧。
◆太陽熱が得られなくなったからといって、人間の体温をボイラー代わりにするのは筋が違うのではないか?太陽電池は熱で発電するんじゃないし、人体は熱源にするには非効率すぎるではないか。
◆2199年の『現実世界』の設定が不可解。どうして「人類を救おうとしている人々」は、あんな妙なホバークラフト(って言ってたけど全然ホバークラフトじゃないじゃないか)に乗って、下水の中に漂っているのだ?「予言者」は汚いアパートに住んでいたではないか。
◆コンピューターが管理し、サイバーな世界なのに、襲ってくる敵側は、どうしてあんなイカのような寄生虫のような奇怪な形をしているのだ?ああいう形である必然性がどこにあるのだ?
◆仮想世界で対決するくせに、どうしてキアヌの「眠っている筋肉を目覚めさせる」必要があるのだ?脳の反射神経を鋭くさせれば済む話なのではないか?
◆ローレンス・フィッシュバーンを主謀者とする『レジスタンス』は、他にもいるのか?(勝手連のようなものなら当然他にもいて、てんでバラバラな行動をしているはず)
◆ローレンス・フィッシュバーンはどうして、いつから、どうやって、レジスタンス活動を続けているのだ?
◆万能であるはずのコンピューターは、どうして予言者を捉えて処刑出来ないのだ?
◆ドタバタ走りまわり、カンフーしまくるキアヌたちが仮想の存在ならば、支配者側はどうして総力を結集してネブカドネザル号を撃破してしまわないのだ?コンピューター側としてはそんなのお茶の子サイサイなのではないのか?
◆仮想の世界を舞台にしてキアヌたちがコンピューターと対決しているのなら、どうしてもっと市街に舞台を設定しないのだ?街中で派手なカンフーをやったりした方が、画的に映えるし、その過程でビルをぶち壊し無知蒙昧な一般市民を巻き添えにすれば、もっと盛り上がったではないか。
◆そもそも、敵側は、どうしてキアヌたちを「電子的」に抹殺出来ないのだ?データ転送とかそういうのを断ち切ればそれで終わりなのではないのか?カンフーとか肉体アクションに頼らざるをえないシステムが理解出来ない。
◆ローレンス・フィッシュバーンは、どうして携帯電話から転送出来るシステムを開発しないのだ?高能率データ圧縮法を開発すれば、公衆電話を探しての死闘、というナンセンスな事は避けられるではないか。
◆ラスト、アレはどういう意味?コンピューターに勝って、「マトリックス」を破壊して無効にしたのなら、「1999年のイルージョン」は消えて、あの廃墟の街が広がるはずではないか。もしかして、コンピューターに勝った事で、遡及して本当の1999年が救われた、という意味なのか?それにしてはそういう説明も伏線もなにもなかった。
………

 この作品は、基本的に、アクション映画なんだから、上記の設定をきちんとしたら、なんの面白みもない、机上のオハナシにしかならないだろう。アクション映画にするために、わざと設定に穴を空けてあるのは確かだし、そうするのがエンターテインメント作家だ。穴を空けておくことで、「あれはおかしい」という話が盛り上がるし。(その反面、だからマイク・マイヤーズ主演にすればナンセンスコメディになる要素が山ほどあるという事なのだ。優れたアクション映画はコメディとほとんどスレスレなのだ、という小林信彦説は正しい)
 そんなわけで、未来社会の設定や、コンピューターの支配とか、そのレジスタンスの設定について本気で突き詰めて考えてはいないのが、この作品であろう。わざと(確信犯)か失策(過失犯)かは判然としないが。
 ま、しかし、ツッコめる映画だから、ファンがつくのも事実。一回だけでは謎が判らない、とリピーターと化してしまうのも理解出来る。が、僕にはそういう興味はない。
 
 酔ったのは、映像だ。準備に4ヵ月を要したという、アクション・シーンが素晴らしい。日本のテレビゲームをそのまま実写化したとしか言い様のない、あのカンフー・シーンは、ゲーマーなら凄く喜ぶんじゃないだろうか。僕はまったくゲーマーではないが、キアヌたちのあのシャープな動きには感心を通り越して感動すらした。ジャッキー・チェンがやれば当たり前に見える事でも、キアヌとかフィッシュバーンが軽々とやると、感動する。生身でやってるのが判るから、余計に感動する。そして、それを盛りたてるCG。飛んでくる弾のその勢いを、空間を歪ませて表現するあのセンスは見事だ。凄いハッタリとなって、作品を決定的に印象付ける。
 ゴテゴテとSFチックな設定を身にまとっているが、この作品は、肉体の映画ではないか。で、あそこまでカンフーを極めた男なら、弾丸が止まって見えて、手で払い落とせるんじゃないか、と思わせる。それだけの説得力が出る。
 口だけじゃ、なんの説得力もないけど、鍛練の末、大変な思いをして映像化してくれると、それはもう、物凄い説得力を生むのだ。素晴らしい映像は、その裏にある努力も感じさせてくれる。「どうやって撮ったの」と興奮する映像は、感動に結び付く。デジタルスタジオで、デジタル・デザイナーが苦労して作り上げた映像も凄いし、感動するけれど、CGじゃなきゃ出来ないような事を鮮やかに実写で見せられると、CG関係者には本当に悪いけれど、原始的根本的に驚き興奮し感動してしまう。この事は、未来永劫普遍の事実であろうと思う。
 
 キアヌ・リーブスはいいですな。素直にファンになれちゃう。キャリー=アン・モスも素晴らしい。後半、あの見事なアクションを見せてくれなかったのが残念だ。
 ローレンス・フィッシュバーンは、うまい。彼が下手だったら、現在かろうじて成立している『こういう設定もアリかな?』感が崩壊していたことだろう。どしっとした彼がひたすらキアヌを救世主と思う、あの感じはなかなかにパセティックで、うまい。
 コンピューター側の『追っ手』は、どう見ても「メン・イン・ブラック」のあの二人にしか見えない。わざと真似したのか偶然そうなったのか知らないが、サングラスを取ったらあのオヤジじゃないかと思ったりしてしまうのだ。