題名 :Mバタフライ

監督 :デヴィッド・クローネンバーグ

 今や『危ないオジサン』を演らせたら比類なき独壇場の芸風を確立したジェレミー・アイアンズ。その彼にとっては、『ダメージ』の一卵双生児といえる役。今まで破綻なく勤めてきた職を、人生を、一人の人物を愛する事によって破滅させる。前作では生ける屍状態になっても彼女の想い出のみに縋って生きていたが、今回は自殺する。

 元が戯曲だけあって、緊密で論理的な構成には唸らされる。

 主人公・ルネはフランスの外交官だが、赴任地の中国及び一般教養の足りない男である。彼は自分に教養が足りない事はよく判っている。この「無知」というのがポイント。その無知ゆえに彼は「東洋の神秘」の虜になるのである。幻の東洋の神秘に。

 はじめて見た『蝶々夫人』に感動した彼は、それを歌ったプリマに賛辞を述べる。が、その内容は実に素直に「愛に殉じる東洋の女の美しさ」に感動した、というもので、中国人のプリマにぴしゃりと「それは西洋の男の願望にすぎない。その逆を考えてみればよく判る。東洋の女が愛に殉じるのが美しいのではない。音楽が美しいだけだ」と言われるのだが、彼にはその意味が本当は判らない。「教養を増すためにも京劇を見にいらっしゃい」と言われる。

 そのプリマは本職は京劇の俳優。しばらく経ってルネは京劇を見に行くが、その美しさに心を奪われてしまう。で、彼はそのプリマをモノにしてしまうわけだが、彼には東洋に関しては無知だというコンプレックスがあるから、ホモ特有の体位を「これが慎み深い東洋の愛の形」などと言われると、そのまま信じてしまう。そのかわり、プリマを「バタフライ」と呼び、自分は東洋の女、相手がどんな男でも、その男のための愛に殉じる従順な、女としては理想的な東洋の女を手に入れて有頂天。相手は自分が考える理想の女。まさに「蝶々夫人」の世界。

 最高の東洋の女を手に入れた事で、無知なくせに彼は東洋に通じた気になってしまう。一人の女を惚れさせたのだから、東洋なんて判ったようなものだという思い上がり。昇進した事もあって、彼は自己流のデタラメ東洋論をぶちかます。

 映画は既に「バタフライ」が男である事をバラしている。京劇俳優は歌舞伎のように男が女形を演じる事がある。京劇に詳しければその事は知っているはず。推理映画としてみても、決定的な判断材料はすでにルネに渡してあるのだ。その上でのめりこんでくるのは、向こうが悪い、という理屈だろう。京劇俳優は、俳優という事で排斥されるのを防ぎ、恐らくは父親の件の余波で、この「任務」を引き受けている。女形ということで、ゲイ・セックスはこれが始めてではないだろう。

 で、ルネは「東洋の」と言われるとそれを素直に信じる。で、大使館ではデタラメの東洋・中国論を語り、「バタフライ」にはアメリカの情報を漏らしてしまう。

 いいことは長く続かない。「バタフライ」は紅衛兵に逮捕され(これは偽装ではないが、諜報員として働く彼がどうして捕まり矯正キャンプに送られるのか?紅衛兵の文革がそれほど徹底していたという事か)、ルネも、デタラメ中国論をぶちかましていた結果、本国に召喚される。

 パリでは、副領事まで勤めたルネは妻とも別れ、カフェで中国時代は良かった、と愚痴をこぼしみすぼらしいアパートに帰ると中国のカップにスープを入れて飲んでいるような(内装は中国風。すっかり東洋の幻想の虜になったまま)、「ダメージ」のラストの延長のような生活をしている。そこに突然現れたのは、もう逢える事もないだろうと思っていたバタフライ!ルネは「バタフライ」としか呼ばないのがミソである。

 で、ルネのスパイ容疑がバレて、裁判。「バタフライ」は本来の男の姿で出廷する。もうルネはバカまるだし。10年も男を女だと信じこんですべてを失いつつも愛情を捧げてきたのだから。それも自分の東洋への無知から。

 裁判所からの護送車の中で「バタフライ」は全裸になり、「私を愛していたのではなかったの」と迫るが、ルネは「私は男を愛したのではない」と突っ撥ねる。

 刑務所で、ルネは余興の時間に一人芝居をやる。自分の滑稽な物語をやるのだ。

 ルネは京劇風のメイクをしつつ物語る。「私は下らない男を愛していた。なんのことはない、私が『バタフライ』だったのだ」と。幻想の中で生きる、と宣言したルネは、蝶々夫人のように、自殺して果てる。

 

 西洋人が長年思い込んできた「東洋への憧れ」「東洋人の女の神話」をもっとも残酷な形で叩き潰したことになるが、幻影を信じ、その中で生きてしまう事の不思議さと至高のえも言われぬ陶酔、そして恐ろしさ、というものを感じる。そして、その幻影のなかで抱いていた関係が現実ではまったく正反対であった、という強烈さ。愛に殉じる東洋女こそ最高の女と信じ、その女を自分のものにしていたはずの、西洋男が、じつは愛を弄ぶ東洋男にいいようにあしらわれていたのに、相手を信じ、それでも愛に殉じていた西洋男。

 相手に幻影を見たとき、相手は「バタフライ」でもなんでも、ある記号にしかならない。生身の人間ではなく、名前などどうでもいい架空の存在になる。これは東西文化がどうのこうのという以前に、まず、男と女の間にあることだ。そのうえ文化が違ってしまえば……。

 主人公ルネを笑う事は出来ない。このテーマは日常にも溢れているからだ。それだけにこの映画が伝えることは重層的である。

 ラスト、「バタフライ」は男の姿で涙ぐんだが、それは女装して女を演じていた自分ではなく、生身の自分を愛して欲しかった者の涙だったのだろうか、それとも、ルネを愛していたものの涙だったのだろうか。

 ジェレミー・アイアンズは、そのものずばり、この人でなくては出来ない演技を見せた。ジョン・ローンは「男が考える最高の女は男しか出来ない」という台詞そのものの女の怪しい魅力を出した。はかなげで切ない目線が最高である。

 音楽も哀切きわまる美しさ。もちろん、撮影もジョン・ローンだと知りながら魅力的な女として映しだし、素晴らしい。

 幻影とは、男とは女とは、そして、東洋とは、と、非常に重層的な問題を突きつける傑作である。


  94年インデックスに戻る