リディキュール

監督:パトリス・ルコント

 今や映画界の至宝とも言うべきルコントのこの新作も素晴らしい。
 世の中、地盤看板カバンとか人脈学閥などという訳の判らない実体のないモノに左右されるより、言葉や機知で左右される方がどれだけすっきりする事か。その当人の頭の出来がストレートに出るのだから、これはなかなか公平なシステムではないか。中国の科挙も、頭が良ければ成り上がれるシステムであって、東西の二大大国は似たようなしすてむを持っていた訳だ。時代は違うけれど。この際、頭は良くても口下手、というケースは置いて考えたい。
 フランス人は、『言葉』への信頼が厚いとよく言われる。しかしこれはフランスに限った事ではなく、ヨーロッパ系文明においては、言葉は最大の武器足り得る。言葉があまりにもないがしろにされる日本の一般人としては、これはもう、羨ましくて仕方がない。やっと大阪文化が浸透してきて、『お喋り』も認知されるようになってきたが、日本は(というか、武家文化は、というべきか)腹芸が尊ばれ、お喋りは軽蔑されてきた。言葉の文化はお公家の世界ではタシナミとされてはいたが、それは『軟弱』に通じるものだった。
 お喋りで軟弱で理屈っぽくてイヤミで辛辣な比喩が好きな僕のような人間は極めて住み難い社会が、日本だ。だから、僕は、この作品で描かれた世界が羨ましくて仕方がない。本人の才覚一つでのし上がれる(まあ、田舎の百姓からでは不可能だろうが)とは、何と素晴らしい事だろう。貴族にしても、それくらいの努力はしてほしいではないか。支配される民草としては搾取されるんだから、領主とか貴族とかも、それなりの苦労をしてその地位を守ってほしいではないか。だから、貴族には貴族のし烈な戦いがあった、と言われても『そんなのトーゼンでしょ』としか思わない。でもそれは言葉による知力の戦いだけに、白黒はっきり付いて実に明快だ。明快たる事を重んじるフランスらしい。フランスびいきの僕としては、ますますフランスはええのう、と思う。ま、アタマの悪い支配者を持った民草は、そのワリを食うのだから、結局いつでもケツを拭かされるのは民草なんですがね。
 「エスプリ」と「ユーモア」の違い、ということは作品の中でも何度か説明されたが、いまだによく判らない。パンフに載っていた山田五郎の抱腹絶倒のエッセイを読んでも、判ったような判らないような状態だ。『ユーモア』と言っても、イギリスのユーモアはエスプリ同様、インテリの武器であったはずだ。それを描き出したのがマンキーウィッツの「スルース」だが、極めてソフィスティケートされた手法で相手を貶し、如何にしてそれで第三者の笑いを取るか、というし烈なゲームではなかったか?自分を笑いにネタにしてウケを取るようなものではなかったのではないか?
 どちらにしても、相手より精神的に優位に立つための腕力を使わない手段が、ユーモアでありエスプリだ。
 僕は、ウマの合う相手とは何時間でも貶しあいを続けられるし、周囲からもウケる。それは言葉のバトルだが、やっていて面白いのだこれが。あまり一般的な遊びではないかもしれないが、僕がチーフ助監督だった頃、製作担当とスタッフルームでえんえん戦わされた『イチビリ合戦』は大ウケだった。この場合、僕と相手のレベルが均衡していたから楽しめたのであって、どちらかが劣っているとこの言葉のラリーはすぐに決着が付いて喧嘩になったりする。僕はそれで何度も失敗をしたし、その製作担当を激怒させたこともある。それほどこのゲームというかバトルというかラリーは危険だし、それだけスリリングで知的な刺激に溢れたものだ。
 それが生活にダイレクトに結び付いたら、きっと苦痛になるだろうが。しかし、貴族なんだから、それくらいの努力と危険を担保にする事くらいはしてしかるべきだ。
 
 あだしごとはさておいて。
 
 ルコントは、そういうひりひりするような知的バトルを、極めて面白く描き出した。もちろん、(読んではいないが)脚本が秀逸なのはもちろんの事だ。ルコントがこの脚本を高く評価して、初めて他人が書いた物を映画化したのもよく判る。
 主人公の田舎貴族(志は高い。とても立派な人物だ)が、その才覚と機知でどんどんのし上がる太閤記みたいな話ではないのも素晴らしい。それではマンガになるが、主人公は存分に苦い目に遭うし、きっぱりした成功を手にしない。これがいい。
 この作品のテーマを考えてみても、本編のラストカットが、主人公に『エスプリがすべて貴族社会』を徹底的に喝破されて茫然と立ち尽くす伯爵夫人で終わっているのがすべてを物語っている。エスプリが命、とはいえ、この伯爵夫人のような『影の実力者』の暗躍でモノゴトが動いて行く社会の空虚さを抉りだしているからだ。これは、今の感覚から言えば、まあ、その通りの事で、だからなんだ的なことではある。エスプリ貴族社会は、程なくフランス革命で潰えるのだから。本人の才覚と機知がすべての局面を切り開いて行くのではなく、『その時の実力者に取り入るため』の武器でしかなかった事が、虚しい。金とおべっかよりは多少マシと言う程度か。
 と、なると、僕の当初の印象である『エスプリ社会バンザイ』論は意味をなさなくなる。これがこの作品のミソだ。脚本や演出がオトナだなあと感嘆する部分であるし、こういう作品を生み出し得るフランス映画界もオトナだし、それをきちんと評価するフランス社会もオトナだ。オモテがあればウラがある。その両面をきっちりと、苦いユーモア(エスプリ?)で描ききっている。
 構造的には、ジャン・ロシュフォール(「髪結いの亭主」以来、他人とは思えない)のベルガルド侯爵は、主人公にエスプリの神髄を指南する。彼はエスプリの素晴らしさを讃え、エスプリ社会にどっぷり浸かり、その意味を疑ってはいない。しかし、極めて知的であるから、その空虚さを指摘されれば理解も出来る。たぶんこの作品に登場する人物の中で一番知的な人物だろう。その娘・マチルドは、そういうエスプリ社会に背を向けていて、エスプリ社会を利用して目的実現の手段にしようとする主人公に批判的だ。しかし彼女は完全な正統性を持ってはいない。金のために、娼婦的な結婚を是としているからで、この点を主人公に批判される。この『批判しあう仲』の二人がこの作品の中軸だ。
 当時の社会としては致し方ないのは判るけれども、ブラヤック伯爵夫人(ファニー・アルダン)は、その時々でエスプリ的に一番勢いのある男を掴んで、黒幕的役割を演じる事で、自分のアイデンティティを再確認する。これは、今の目で見れば実に嫌らしい人物だ。男を通して一種の自己実現をするというのは、世の教育ママと同じ精神構造ではないか。ならば自分が努力して偉くなれよと思うけれど、当時は無理な話。この作品ではこの夫人をまったくのワルにしていないところが、懐が深いというか重層的というか、重いのだ。彼女自身は、今までの『エスプリ社会全面肯定』の男ではない、異端である主人公に触れて、おそらく『エスプリ社会』の裏表を理解しただろう。それがあの本編最後のカットだ。
 映画の構成としてうまいのは、その後、エピローグ的に、フランス革命の後イギリスに逃れたベルガルドで締めているところだ。さんざんエスプリ全盛期を懐かしんでいると帽子を飛ばされて、「頭じゃなくてよかった」と英国貴族に貴族が軒並みギロチン刑になったのに引っ掛けた『ブラックユーモア』を飛ばされて、「あ、それはユーモアだな!」と言うので締めるあたりの呼吸は最高だ。まさに上質。(上質のコニャックのような、というのが常套句だけれど、僕はコニャックの味など判らないのでこの比喩は使えない)
 
 名人芸の域に達した監督は数多いが、ルコントも、この作品で名人の風格が決定的になった。語り口の緩急自在さ、構成の妙、言葉の映画だが映像で納得させてしまうワザ、などなど、余人には代えがたい。コミカル(ユーモア感覚、と言いたいところだが、エスプリ感覚なのかもしれない)な味つけを随所に散りばめ、しかも、人間生きていくのは辛いよねえ、と肩を叩きなるようなペーソス(愚鈍なデブ三流貴族のエピソードなど、最初は笑っていたが、最後は哀切溢れているではないか)、ざくりとヒトの心を切り裂くような悲劇性。今までの作品で積み上げてきたものの集大成というか、すべてが結集して融合したような、実に贅沢な味だ。
 僕は、ルコントという名前を聞くだけで、「髪結いの亭主」の笑ってしまうけれども哀切極まりないラストカット、「仕立て屋の恋」の一切の感傷を排したドライな、それだけに観る側の気持ちをざくざくにしてしまうラストカットが、音楽とともに浮かんできて冷静ではいられなくなる。「タンゴ」のまばゆい陽光の中で繰り広げられる『諦めきれない男たちの情けなくも真摯な探求の旅』に頬が緩む。
 この作品「リディキュール」は、エスプリ万歳、才覚弁舌機知万歳とは言わない。それだけにその内容は現代を照射している。だから、重い。観てきてほいほいと感想文を書けない。しばらくは僕の中で熟成させないと、この作品を理解することはできないだろう。
 
 ジャン・ロシュフォールは、観ていて安心する。この人が演じる人物は信用していい、という理由もない気持ちが働いてしまう。ことにこの作品のように虚実入り乱れる物語の場合は特にそうだ。
 主人公・ポンスリュドンを演じきったシャルル・ベルリングは、フランスのビリー・クリスタルと言いたいようなイメージを持ってしまうのだが、うまい。どこまで本気なのか、どこまで策略としてやっているのか判らないことろが、うまい。
 マチルダのジュディット・ゴドレーシュは、若さゆえ一番直流な考えを持っているから、判りやすい人物だが、その内面の葛藤をこれまたうまく表現していて、その美貌とオッパイの美乳さとともに賞賛されるだろう。急に俗になって恐縮だが、エエチチしてまんな。潜水服の研究と言う、意表を突く研究に没頭しているという設定が面白い。
 ファニー・アルダンは、もはやフランスを代表する女優と言う風格満点だが、この『悪役』になってしまう人物を、これまた説得力満点で演じているんですなあ。
 その他、悪徳神父(と言ってもいいのか?)とかルイ16世とか、ピッタリの配役。
 
 撮影とか美術も、もちろん素晴らしい。しかし、物語のテーマと役者の演技と演出ばかりに目が行っていたので、どう素晴らしいのかをきちんと表現出来ない。
 音楽は、バロック調を実にうまく『再現』して、典雅な響きの中に、あたかも主人公を表すかのようなホルンが強く割って入るテーマ曲がいい。こういうところで時代のムードをうまく盛り上げて、観客を映画の世界に没入させてくれる。
 
 ああ、フランス映画は、大人の映画だなあと、改めて感じいった。
 
 でまあ……小説家なんてものは、己がエスプリだけを武器にしてるわけで、エスプリ貴族社会を羨む事もない。あの貴族たちの闘争を、何の事はない、僕自身もやっている訳だ。一度しくじったらどっかーんと奈落の底に落ちるのだって同じ。ないのは仲間内の足の引っ張り合いの権謀術数くらいのものか。別に羨む事はない。毎日実践してるんだからねえ……。