ザ・セル

監督:ターセム

 アメリカ映画は、よくまあいろんな事を考えつくものだ。
 サイコ・スリラーには新手の残酷な設定が登場するが、この作品の「時限式溺死水槽」もかなりのものだ。
 こういう設定は、残酷であればあるほど善の側の主人公たちを燃え上がらせる。
 いや〜しかし、この仕掛けは、よく考えついたなあ、と脚本家の鬼畜度に感服してしまった。昔から満潮になると水没する洞窟に縛って放置しておく、という残酷でしかもタイムサスペンスを引き起こす設定はあったが、今回の水槽は、被害者が溺死していく様子を余すところなくビデオに撮れるという『利点』がある。それを、フィクションの、作り物の、嘘のことだと判りつつも血の気が引いてしまうほどにおどろおどろしい演出がすごい。水槽の中で悶え苦しみながら死んでいく姿を据え置きで撮りっぱなしにしているのだが、その素っ気なさが逆にとても残酷で(ここで異常者の犯人が、死んでいく被害者を見ながら「ひひひ。もっと苦しめ」などと顔を歪めて喜んでいると、途端にダメになる。誰にも見られずに、オートマティックに死んでいく、というのがこの上もなく残酷なのだ。作り手は、そういう『残酷な仕組み』に精通している。すごいねえ。
 
 映画の基本アイディアは「ミクロの決死圏」みたいなものだが、それに異常者を絡めてサスペンスも盛り上げるというアイディアは凄い。ここまで捻りを効かされれば文句はない。
 
 のっけに異常者の身の毛もよだつ異常な犯罪を描いて、ツカミはばっちり。
 で、監督がインド人だからか、ジェニファー・ロペスがいつもより東洋人のようなテイストで映し出されているので、あれ?と思った。
 問題のあるひとの脳内世界をどう描き出すのか。それがこの作品を見る興味の一つだったが、もしかすると、西洋的な感覚では、この『脳内世界』はそれっぽく表現できないのかもしれない。誰も見たこともないものだが、この世のものではないんじゃないか、というイメージを誰しも持っている。だから、最初のエドワード少年の脳内世界からして東洋というかインド風だし、異常者の世界においては、(くわしくないけど)ヒンドゥーというかマハラジャの内部の壁画というか、そんなテイストで、甘ったるく夢のようで、しかも違和感があって気味が悪い。インドの人にはそうではないかもしれないが……。
 CG処理で、アマアマのソフトフォーカスに色処理が施されて、ジェニファー・ロペスのメイクもインド風というか東洋風。着ている衣裳も東洋風。いやー、不思議な感覚。
 で、そのなか(異常者の精神世界の中)で、SM的に拘束された(後ろ手に手錠をはめられたりギャグを口に噛まされたり……)ほとんど全裸の美女たちがディスプレイされているのは……これはもう、SMマニアには見馴れた光景で、僕はドキッとした。SMもこうして見たら、物凄く異常な世界だ。
 
 とにかく、捜査のために異常者の脳内に入り込んだジェニファー・ロペスは、異常者の幼年期のトラウマを知る。激しくひどい幼児虐待。ウィルス性疾患が作用してこの少年が異常者になった、という設定だが、これが医学的に正しいのかどうかは知らない。ま、ギャガ・ヒューマックスのサイトには精神科医の感想文が載っている。まったくデタラメなら医者たちは相手にもしないだろうから、ある程度は正しいのだろう。
 この少年がけなげで可愛い。しかしモンスターのような犯人でもあるのだ。少年は「あの時死んでいればよかったんだ」という。
 ジェニファーと一緒に犯人の脳内に潜入した刑事は、手懸りを見つけて覚醒し、被害者が捉われているであろう場所に急行する。ま、ここの展開が実に乱暴で「おいおい」と言いたくなるのだが、観客としては一刻も早く可哀想な被害者を救い出してほしいと願っているから、「最初の家宅捜索でそんな手懸り、見つけておけよ!」と言いたくならずに、刑事を応援してしまう。
 で、タイムサスペンスの方は刑事に任せて、ジェニファーは、なんとか可哀想な少年を癒してやろうとする。しかし、少年は異常な犯人でもある。犯人を殺せば少年も死ぬ。死ぬなら、優しくしてあげたい……と、ここは泣かせる。
 
 被害者は助かる。ま、こういう捜査法はきっと法律に引っ掛かるのだろう。刑事はFBIをクビになるかもしれない、というところで終わるが、ジェニファーは、この事件で経験を積んで、冒頭のエドワード少年の治療に成功するかもしれない、というところで映画は終わる。
 
 なんだかんだといっても、やっぱり、アメリカ映画は作り方がうまい。どうすればうまくいくか、考えに考えられている。救いもあって、観客の気持ちも整理してくれる。サスペンスも満足させられるし、SM趣味さえも満たしてくれる。そしてジェニファー・ロペスのノーブラ姿まで拝めるのだ。
 
 アメリカ映画はこれはとてもユニークなのであって、フランスやイギリスもアメリカ映画のように作っているかといえばまったくそうではない。日本映画だってアメリカ映画のマネをすることはさらさらないのだが、見せ方の工夫とか映画としてのドラマツルギーというか、作家的狙いを通俗的表現の中でどうやって昇華するか、というテクニックは大いに学ぶべきだと思う。……って、こんな事、昭和22年の黒沢明のエッセイにすでに書かれている事なんだけれども……。
 
 この作品は、ちょっとずれると俗悪趣味な、イヤーなC級映画になっていただろう。それが奇妙なテイストをともなった不思議な映画になっていたのは、監督の手腕のみならず、スタッフみんなの力量のせいだろう。
 
 このテーマは、日本映画でも、低予算でも、工夫して考えれば作れそうなものだと思うけど……今の日本の若手監督はみんなひ弱なインテリになってしまって、活動写真的演出の出来るひとはいないのかなあ……。