恋におちたシェークスピア


監督:ジョン・マッデン


ビデオにて鑑賞

 助監督をしている頃、しくじって仕事に自信がなくなったり、嫌になったりした時、当時なけなしの金を叩いて買った輸入盤「アメリカの夜」(日本語字幕版やレンタル店がまだなかった頃だ)のビデオを観て、よしやっぱり頑張るか、と映画への愛情を再確認してファイトを燃やし直した。
 「アメリカの夜」という映画には、それだけ映画への愛情が詰まっていたし、バックステージものの面白さも詰まっていた。
 (映画を含めた広義の)ショー・ビジネスというものは、一度味を覚えたら止められない。だから、人類が言葉を覚えて以来綿々と、幾多の宗教的政治的弾圧を乗り越えて栄えてきたのだ。やってて詰まらないものなら、とっくに廃れている。
 ヒトにウケる。拍手を浴びる。笑わせ泣かせ歓ばせる。
 これは、何物にも代えがたい麻薬だ。一度アプローズの洗礼を浴びてしまうと、その鮮烈な記憶は一生付き纏う。
 舞台に関して言うと、三谷幸喜の傑作にしてすでに古典とも言えるほど完成度が高い名作「笑の大学」は、そういう芝居作者の心意気を描ききった快作だった。あの主人公は、高邁な芸術などではない、軽演劇の作者だ。だからこそ、胸に堪えた。
 
 さて、この作品である。
 素晴らしい作品を見終ったあとは、なにも喋りたくなくなる。ぼーっとして作品を反芻したくなる。まさにこうなった。一晩、ずっとあれこれ反芻して感動に浸った。
 主人公・ウィル・シェークスピアの恋物語も悲恋ゆえに心を揺さぶるが、何に感動したかと問われれば、やっぱり、出てくる連中がみんな、芝居が好きなのだ、という事に尽きる。
 芝居好きに悪党はいない、というのがウソなのは、犬好きに悪党はいない、というのと同じだが、しかし、そう思いたくなる。
 ローズ座の座主を火焙りで脅す高利貸は、血と金に飢えた教養のかけらもない悪党かと思いきや、座主(犬と海賊を出して喜劇にすればいいと思っている)よりもずっと芝居が判る「感動する心を持った男」だ。貸した金の回収にうつ興行に噛んで、練習を観ているうちに「これは素晴らしい」と思い、シェークスピアを先生と呼び、芝居にのめり込んでしまう。
 ローズ座のライバル・ガーデン座の座主は、女優とファックするのが愉しみの粗野な男だが、宮内長官のローズ座閉鎖という『弾圧』に立ち上がり「おれたちを虫けら扱いするあいつらの鼻を明かしてやろう!」と劇場の提供を申し出る。
 スター役者にして座長のネッドは、自分の役がマキューシオで脇役なのに内心穏やかではないが、戯曲の素晴らしさを素直に認めて上演に打ち込む。
 シェークスピアのライバル、というよりも彼よりも売れていて評判もいい作家・マーローは、武士の情けというべきか、酒場でシェークスピアにアイディアを授ける。
 そして……なんとも話の判る女王陛下。ジュディ・デンチの存在感もあるが、この女王の存在で救われた気になる。
 また、情実で口上役に採用されたドモリの男が、本番では見事な口上を述べて見せる、とか、乳母が、ヒロインを助けてなんとも泣かせるとか、脇役の隅々までが生きている。
 ……というように、この作品は、芝居への愛情に満ちているのと同時に、実に巧妙な、ウェルメイドな、考えに考えた、しかも定石を外さない、作劇になっているし、人物の配置になっている。
 対立関係にある人物がくるりと変わって主人公側の味方になる、というのは、古来よくある手(ビリー・ワイルダーが極めてうまく使う)だが、それを、これまたうまく使っている。
 この脚本の出来は、さすがアカデミー賞を取っただけあって、見事だ。
 
 そして、演出。これも、定石をきちんと踏襲した安定感あるもので、見事といえる。
 特に、リハーサルと実際の恋の現場をシンクロさせて、同じ台詞繋ぎで場面が変わって進んで行くが、すべてのカットを、同じスピード・同じ方向で移動撮影している。これは、カットが変わっても一体感を醸し出し、このシークェンス全体が一つのものだという印象を強め、かつ、この恋が夢のようであり、そんな相手と出来る芝居のリハは、まさに夢の真っ只中のエクシタシーそのものである、という演出効果を生んでいて、誠に素晴らしい。
 その上で、観る側にシェークスピアの戯曲についての知識があれば、もっと面白く愉しめたろう。いろんなくすぐりが判らないとすれば、それは観る側の無知のせいである。僕はその意味で、この作品を完全に満喫したとは言えない。
 
 脇役を演じる役者が、全員、本当に見事で、ため息が出る。イギリス人キャストが軸なのだろうが、素晴らしい。あのネズミ少年に至るまで、みんなが素晴らしい。
 そして……グィネス・バルトロウ。この人ならば、シェークスピアが道ならぬ恋に落ちてしまって溺れもがいても仕方がない、というか、恋に落ちないでどうする、というほどの魅力を発散している。美しいのはもちろんだが、才気煥発、悪戯っけもあり、なによりシェークスピアにとっては、自分の作品を(という事は自分の内面を、という事だ)愛してくれている、という事に優る歓びがあろうか。こんな素晴らしい女性に。
 だからまー、エセックス卿と決闘しても、と思ってもおかしくはないですな。
 そういう至上の恋愛をこれまたうまく描ききっていると思うが、僕には、芝居への愛情の描き方は具体的によく見えたけれど、こっちの方については、うまいとは思うがどういうふうにうまいかはよく判らない。ただ、グィネスならば、惚れないやつが野暮なのさ、という感じだろう。
 
 ケネス・ブラナーがシェークスピアをいくつも映画にして、この映画が登場する下地を作った。しかしこの作品は、あの古典をきっちり映画にするのではなくて、からめ手で来た。精神分析医にかかっている(当時あったのか?)というようなギャグも折り混ぜて、今の目で見た「当時の売れっ子作家ウィル君」の姿をヴィヴィッドに描ききっている。
 だから、シェークスピアに疎い僕などは、ブラナーの映画には二の足を踏んだけれど、この作品はすっと入れて、魅了された。
 
 ショー・ビジネスからは足を洗ったけれど、あの素晴らしさは一生忘れることはできない。その思いを、この作品を繰り返し観る事で、噛み締めようと思う。