あの頃ペニー・レインと

監督:キャメロン・クロウ

 ワイルダーに心酔している、という一点で他人とは思えないキャメロン・クロウの作品。実は彼の作品を見るのは初めてだ。
 これが完全なフィクションなら、「こんな出来過ぎた話を作って……」と思ったろうが、彼自身の実話をもとにしているんだから、なにも言えない(どこまでが本当の話か判らないが)。こんなエキサイティングな体験をしていたら、映画にしない手はない。長期に及ぶワイルダーへのインタビューの間にこの脚本(アカデミー脚本賞)を書き進め、ワイルダーにも読んでもらったのが判る気がする。
 ロック界の話だからワイルダーに何の関係もないようだが、人間の掴み方とその表現にワイルダーの匂いを感じたのだ。
 
 主人公の少年は、ナチュラリストの強い母に育てられて飛び級を重ねて15才で高校を卒業しようとしている。そのせいか友達がいない。ポップスやロックが好きなのがもとで母親と対立して家を出てしまった姉の影響でロックを聞き始め、それが昂じてロックに関する文章を投稿したらあちこちのメディアに採用される。
 その縁で「クリーム・マガジン」の編集長(業界ではマイナーとみなされている)と知りあう。この編集長が、実にいい。いいんだなあ。演じているのが、ご贔屓のフィリップ・シーモア・ホフマン(古い表現で恐縮だが、「ヤクシャヤノー!」と言いたい。「ブギー・ナイツ」では暑苦しくて知恵が足り無さそうなホモのポルノ映画のスタッフをやり、「ビッグ・リボウスキ」ではクールな富豪の秘書を演じ、他の映画でも好演を重ねている)で、主人公に折り目折り目に人生の機微を教え、ロック評論をやるなら正直に書け、と諭し、原稿の切り口を教え構成を伝授してやる。
 人間、生きるに当たって、こういう人物がいるかどうかで、大きく変わると思う。決定的に変わると思う。
 「ローリングストーン」誌はロックの雑誌だからカウンター・カルチャーの雑誌だが、その世界ではメジャーであり権威である。世の中一般の主流にはならないしなりえない(しかしレコード界ではロックの売り上げは大黒柱)という意味で永遠のサブカルなロック界では最高の権威。で、フィリップ・シーモア・ホフマン演じる編集長は、そんなロック界でもマイナーで「格落ち」な雑誌をやっているが、見る目は確かで、業界を客観視できる知性も持っている。商売から離れた場所から、好きだから、という立場でロックを論じているからこそ、確かな目を持っている。そして……主人公は、そんな彼に好意を持たれ、助けて貰う。
 こういう関係は、人生の駆け出し期において、これ以上有り難くて素晴らしいものはないだろう。見ていてキャメロン・クロウが、いや、主人公がとても羨ましくて仕方がなかった。と、いうか……僕が映画界に潜り込むにあたって、親身に指南してくれて、その後もいろいろ面倒をみてくれた先輩がいたので、懐かしい気にもなったのだ。
 そして、今まで平凡な世界にいたのが、一気に『夢の世界』に入ると、まるでオズの魔法使いのドロシーになったようで、目が眩んでしまう。すべてがきらめいていて、すべてが違う。今まで『向こうの世界』にいたひとが現実に自分の目の前にいて、同じ空気を吸っている。この高揚感と足が地に着かないふわふわ感がヴィヴィッドに表現されていて、ロック界と映画界は違うけれども、自分の夢だった世界に足を踏み入れた時の何とも言えない気分も、思い出した。
 この作品は、この編集長と、そして、グルーピーのようでそうでも無さそうな(バンド・エイドと自らを呼ぶが)ペニー・レインと名乗る女の子を軸に話は進む。
 
 ワイルダーの教えとはなにか。つまるところ、テクニックではなくて、人間の捉え方ではないかと思う。それがあった上での小道具の秀逸な使い方とかプロットの捻りなのだろう。キャラクターへの理解無くしてドラマは作れない。ましてやコメディにおいておや。
 三谷幸喜は意識してワイルダーの諸作の構図をそのまま使う事もあるが、キャメロン・クロウは、お話のせいもあってまったく自分の世界に消化して、しかし自分なりのワイルダー理解のエッセンスを見せる。
 その端的なものが、後半の「絶体絶命の決死の飛行」シーンではないか?どうせ死ぬなら本音を言っておこうと言いたい放題になる中、メンバーのひとりが「おれは、ゲイだ!」と叫んだ瞬間、飛行機は態勢を立て直してしまう。ドタバタ風味だが皮肉な展開。しかも赤裸々なものも描いている。まさにワイルダー・タッチ。
 
 青春とはほろ苦いものだが(甘くて愉しい青春をおくったヤツをおれは信用しない)、この作品は、「アイドル視していて信頼もし、心が通い合っていると思い込んでいたロック・ギタリストの真の姿とその裏切り、そしてその真情」「恋心を懐いた(もしかして主人公の初恋?)ペニー・レインへの複雑な思い」の2つの軸で青春のほろ苦さを描いていく。ハッキリ描かれたのはロック・ギタリストとの部分。映画の邦題や広告ではペニー・レインとの関係がメインなような印象だが、実際は、主人公の心情そのままに、彼女との部分は実にほのかに淡いタッチで描かれている。
 このペニー・レイン、バンド・エイドとは言うけれど実際やっていることはグルーピーとどう違うの?と思ってしまうのだが、グルーピーは単にスターと寝る事でサインを集めて歓ぶファンと同じなのだが、彼女たちは「アーティストたちを励まし創作意欲を掻き立て刺激し、鼓舞する」。見た直後は「あれ?同じじゃん」と思ったのだが、思い返していくと、たしかに違う。というか、違うように思える。ロッカーたちがそう思っていなくても、本人たちがそういう『使命感』をもっているなら違うだろう。それほどロックへの、くっついて廻る彼らへの思い入れは深いしロックを自分と不可分のように思っているのだ。
 でまあ、この意識の差が最後で露呈してしまい、ペニー・レインは傷つき、彼女を好きになっていた主人公も傷つくのだが。
 
 この映画がいいのは、普通なら、書いた原稿は没になったまま、ロック・スターに棄てられた女は棄てられたままなところが、逆転ホームランになるところだ。「サンセット大通り」時代のワイルダーは救いのないままにナイフでぶった切ったように終わっていたが、コメディを撮るようになってワイルダーの目差しは優しくなった。そんな感じだ。
 
 スティル・ウォーターというバンドは架空なんだろうから(僕はロックの事をまるで知らない)、このまんまの体験があったとは思えない。主人公の主観で話が展開するから、ギタリストのラッセルの内面が描かれないのは無理ないのかもしれない(15才のヤクも女も知らない少年にロッカーの内面なんて想像も出来ないだろう)が、彼が来訪するエピソードもつけているのだから、そこのところが描かれていれば、もっと違った印象になっていたかもしれない。
 
 ケイト・ハドソンもよかったけど、彼女の役がイマイチ理解できなかったし……そうでもないか。睡眠薬を飲んで自殺を計るんだから。ただ、なんとなくフワフワした感じのまま終わってしまった感じがあって、よく判らない。が、主人公を演じたパトリック・フュジットは、いきなりロック界の裏側に入り込んでしまった戸惑いと関係者になった誇り、そして記事を書けない焦りと弱気をうまく表現していてうまい。そのママになったフランシス・マクドーマンドは達人ですな。うまいの一言。ポレクシア役を演じたアンナ・パキンは、スクリーン上で探せなかった……。