アヴァロン
監督:押井 守

 唸った。天才の仕事は、違う。凄い。あまりの素晴らしさに絶句状態だ。
 
 ……見終って数時間経過して、多少落ち着いてきた。が、やはり、この作品についての脱帽状態と、見終った後の虚脱感は変わらない。
 
 昔、パソコンなどない時代に、テーブルボードゲームが盛んだった。アメリカ直輸入の戦争シミュレーションゲームに、たしか「アヴァロン」というのがあったような気がしていて、この作品はてっきりそのボードゲームを実写で再現したものであると早合点していた。
 この作品は、そんな凡人が企画会議の前の晩に苦し紛れに捻り出したヘタレ企画とはまったく無縁の、極めて物凄いものだった。
 
 近未来のヨーロッパ(場所はどこでもいいのだ……ロケ地がポーランドであるという理由で、ポーランド人がポーランド語を喋っているが、これは普遍的な物語である。外国映画のように撮ったことで、日本人が日本語を使って演じるものちは比較にならない普遍性を作品に与える事に成功している)。
 若者たちは非合法なヴァーチャル戦闘ゲーム『アヴァロン』に魅せられている。このゲームが凄いのは、腕が確かなものはそれで食って行ける、プロが成立するゲームであることだ。僕のようにRPGゲーマーに良くない感情を持つ(姫がどーだ宝がどーだアイテムがどーだパラメーターがどーだなどと夢中になるんじゃねえ!たかがゲームだろ!と思ってしまう)者でも、金が掛かってプロが存在するゲーム、という事になると興味を惹かれるし、それに打ち込む者を認めたくなる。プロ野球とかプロサッカーと同じだもんね。
 で、主人公・アッシュ(この女優が極めてうまい。一見魅力が無さそうなのだが、そんな事はない)は、抜群の技量を持つソロの『戦士』。市電でゲームのアクセスセンターに通い、『仕事』が終わると自分のアパートに帰る。その生活の具合は、アラン・ドロンの「サムライ」に似た、殺風景というか潤いがないというかストイックというか、そういう感じ。あの映画の主人公がカナリアを飼っていたように、大きな可愛い犬を飼っている。
 彼女たちのやっているゲームは、いわゆる『アガリ』がない。そういう無限に続くものがゲームなのか?と思うが、それは、パソ通におけるバトルに似通っていると思った。バトルにも『アガリ』はない。弱い相手なら明確な形で勝てる(相手が消える、相手が負けを認める、などの形で)が、手強いか根性が曲がっているか負けという意識がない人物の場合は、不毛な戦いは永遠に続くように思える。それを観戦するギャラリーの存在と、ゲームマスターのような役割のシスオペが火に油を注いだり水を掛けたりしてゲームを管理する構造がこの作品における『アヴァロン』というゲームの在り方に似ている。なんせシスオペはそれで金を得ているんだからね(ニフティの場合)。ムキになって続いていくのは同じだし、先が見えないのも同じだ。そのゲームの参加者は、自分のプライドとそのゲーム世界における自分の地位を守るためにも続けなければならない。それに気づいたので、僕は、この作品のストーリーに親近感を持ったし、登場人物たちの心理も理解出来る気がした。
 この作品の主人公・アッシュも同じような理由でゲームを続けているが、彼女の場合は、「もっと上のステージがあって、そこに行ける方法をちらつかされる」。まあ、ゲーマーとしては上のステージには行きたくなるものだろう。そして彼女は、以前組んでいた無敵のチーム(パーティ)が瓦解して仲間の一人だった人物が廃人になっている事に自責の念を持っている。もしかして自分の判断ミスがすべての原因だったのでは、という思いだ。
 彼女は、その腕で上のステージに入るのだが……。
 
 というストーリーを、オタクのマスターベーションみたいなものじゃなく、スケールの極めて大きな、そしてスタイリッシュで映像美の詰った、どこから切り取っても『映画』としか言いようのないスペクタクルな作品にしてしまった、押井監督の手腕は、タダモノではない。
 この作品に限っていえば、どんなに脚本が優れていても(伊藤和典の脚本は、その統一された世界観をまったくの破綻なく展開しているという意味で傑出していると思った上での話だ)、それを具体的に映像化する段階で、少しでも異物が入ってその純度が下がると、とたんにその世界は瓦解してしまう。映像化するには、極めて高い純度で一貫した美学と世界観を求められる。ほんの少しのミスがあっても、その「架空の世界」はゴミ一つだけで否定されリアリティーを失い、世界という綿密な統一性と結合性が必要なものは成立しなくなるのだ。つまり、フィクションの嘘が感じられてしまう。おかしいじゃん、とあれこれ疑問が浮かんでくる。「マトリックス」がいい例だ。が、この作品は、違う。
 日本を舞台にしないで日本人を出さず日本語を使わせないということで、押井監督は演出を有利に進め、マイナス要因を排除することに成功したのではないか。ぶっちゃけた話、ポーランド人が出てきてポーランド語を喋り、舞台がポーランドだったら、観客のほとんどは、スクリーンの中に映し出されるものの真贋を見極められないし、ガイコクものだと自動的に認めちゃう、みたいな心理が働いてしまう。こういう観念的な話の場合、日本人の顔よりも白人の彫りの深い顔の方がもっともらしく見えるのだ。これはもう、人種的に仕方がない。見かけの説得力なんだから。その上、字幕の制限された表現から、観客は意味を掴みとろうと必死になるが、日本語のダイアローグだと気を抜いていても判るし……同じことを文字で読むより日本人俳優のオーバーアクト気味のセリフで聞くほうが、馬鹿らしく響いてしまうのも事実なのだ。そして、東京が舞台なら、いくら美術スタッフが苦心して架空の街並みを作っても、その嘘は見破られてしまい「これ、日光江戸村じゃん」てなことになってしまう。しかしポーランドならそうはいかんだろう。
 同じ筋立てで同じ予算なら、白人を使い外国語を喋らせて外国でロケーションした法が、映画はもっともらしくなる。これは、洋画で育った日本人観客の心理を逆利用するいい方法だ。
 と、いうことを書いても、この作品の価値をいささかでも貶めることにはならないであろうと僕は硬く信じる。この作品は、そういうすべてのものを利用して、確固としたフィクションの世界を構築しているからだ。それもリアルに。
 
 街に戦車がやってきて人々が逃げ惑う、という本当の映像は、凄い。最高のCGは本当の映像(ロケーションした実写という意味)に等しくなるはずだが、それでも実写の方が凄く感じるのはどうしてだろう。映画の冒頭に登場する戦闘シーンのド迫力は、今までの日本映画にはまったくなかったものだ。それで観客を映画世界に引き擦り込むのだから、押井監督の戦略は冴えている。
 
 また、その演出を支える撮影が素晴らしい。全篇のうち2/3はデジタル処理を施されているが、そのアングルやレンズの選択などといったカメラ・セッティングは完璧に近いのではないか。セピアのようなトーンで滲んだような画面効果にローキーの画調はディジタル処理されたものだろうが、オリジナルネガがダメだと、あとでどんな処理をしてもダメであろう。オリジナルから優れていることは、ラスト・シークェンスのカラー画面のパートでハッキリ判る。
 
 そして、川井憲次の音楽。オルフの「カルミナ・ブラーナ」を彷彿とさせるスケールの大きな音楽(フルオーケストラと合唱とソプラノ独唱)。美しい旋律に豊かなオーケストレーションは、この作品によりそってくる。ずっと画面が白黒で観客に異様な緊張を強いる分、音楽が観客の感情をほぐす。これがまた、監督の仕掛けであるのだが。
 
 僕は、押井監督の作品は、恥ずかしながら、これが初見だ。だから、なんの先入観もなく、白紙で見た。そして、高踏的、と言ってもいいスタイルで、極めて観念的な事象をぐいぐい見せてしまう演出には、心から脱帽して、参りました、という気分だ。
 観客をノセていく演出手法についてはいろいろタネが判ったが、物語というかテーマを語る部分での細かな仕掛けが全部判ったかどうかについては自信がない。あと数回見ないと判らないだろう。こんな巨大な作品を一回で理解するのは不可能だ。まずは凄いと感じる事が大切だと思う。自然食品だけに色が付いていたり、ラスト・シークェンスがカラーだったり、登場人物のいろんな行動すべてに仕掛けがあって、その総体がなにを表現しようとしているのか。それを考えるのは愉しみだ。
 ただ、この終わり方については、キューブリックの「シャイニング」に通じる、あるずるさ(エンドレスというか、無間地獄オチのような……)を感じてしまったのだが……。
 
 この作品が全世界でヒットして、話題になることを、心から願う。そうすれば、日本映画にまた新たな可能性が開けるのだ。
 
 日本映画が、こんな凄い作品(映画でなければ表現できない映画そのものな作品)を生み出し得たことに、素朴に大きな感動を覚えている。この作品に関った、すべての人に、最大級の賛辞を送りたい。

 あなた方はすごい仕事を成し遂げた!