安達Bの読書
『世紀末を一人歩きするために』
村上龍『世紀末を一人歩きするために』(講談社、1995)
「デビュー20年特別企画」の語録集です。
村上龍さんは注意して読むと、句読点の使い方、会話/意識の流れ/地の文の境界
解体など、かなり文体で実験をしてる人です。「語りの方法意識」を持つ、という
ことになるのでしょうか……しかもそれが決して難解ではなく、ダイレクトに感覚
に訴える「明快さ」という形であらわれている。
一見「すいすいさくさく」、しかし実は凝っている、というあたりが、私がひそか
にお手本にしたいと思っている谷崎潤一郎と共通するものがあって、好きなんです。
その村上龍さんの語録集から、私としては(「セックス」「女」以上に気になる)
「小説」に関する項目をいくつかピックアップしてみます。
>> この二十年か三十年の間に、日本の小説シーンは変わると思う。
>> 大衆小説の書き手は人間からコンピュータに移るだろう。
>> 剣豪ものや推理小説やハードボイルドやSFの、頭の悪い読者の類型的な好み
>>を満足させるためのものは、コンピュータが量産してくれるはずだ。(P.186)
……「上等じゃないか」と思いました(笑)。
ものすごいメモリーと演算速度を持つ「コンピュータ」になってやろうじゃないか、
と。
すぐれたコンピュータには「人間のフリ」だって出来ます。
チューリング・テストやってもわからないくらいに。
「文学は、海外から日本に移り住んでいる……人々の子供が担うようになるだろう」
とも書かれていて、それは多分そうであろうし、そこにしか真に「新しいもの」の
可能性はない、とも思います。
しかし「文学」のフェイクをつくることさえ「コンピュータ」には可能です。
「大衆小説」はすでに「編集作業」でしかあり得ない段階にはいっており、そこでは
「あらゆるもの」が「素材」となり得る、と思うからです。
たとえば小池真理子さんの『恋』は、ミステリーでありつつも(従来的な意味での)
日本文学の非常によく出来たフェイク(あるいは「そのもの」)であると思います。
ということで「文学の存在意義」は、いかにして、「コピーしにくい」「消費されに
くい」ものを作ってゆくか、ということになるのでしょうか……。
「虚構」と題して
>>実は、ボクは手紙が下手くそなんだ
>>金の無心ならうまいと思うけど
>>金の無心って、要するに嘘だろ?
>>本当のことを言って金を借りるヤツって一パーセントもいない
>>虚構だ
>>ボクは、虚構専門なんだ (P.190)
これを読んで「なるほど」と思いました。
村上龍さんは一時期(今も?)、過激なSMやセックスを主題とした小説を書いて
いて、それも『イビサ』『音楽の海岸』、あるいは『トパーズ』に収められている
とても怖い短編など「四肢切断系」のものさえあって、しかも真に迫っています。
これはきっと密かに女の人の一人や二人絶対に殺してるにちがいない(笑)、と
ずっと思っていたのです。
けれどもその後、ある対談の本(*)で、お子さんと一緒にテニスをするような日常
について語っていたので、「あれ?」と思いました。
(*)村上龍、山岸隆『<超能力>から<能力>へ』(講談社、1995)
……それはまあ良き父親にして殺人鬼という例もないわけではないですが、その時
ようやく、あれは全部フィクションなんだな、と(当たり前か)直観したのです。
「自分が体験していない」ことでも「言葉の達人」でさえあれば「見てきたように」
書けるのだ、と。
考えてみれば以前、バクシーシ山下さんの『セックス障害者』という本を読んだこ
とがあるのですが、そのなかで山下さんが「メイキング」について語っている数々
のビデオ、「タブー」に極限まで挑んだ一連のAV作品と、村上龍のその系統の小
説が、とても似ているんです。
(あくまで、「活字になった、その内容と雰囲気」ということですが……もちろん
小説のほうがやってる事はずっと過激です。でも、根本にあるアンチ・ヒューマニ
ズムは同質のものだと思いました)
村上龍さんによる一連の「怖い小説」は、あるいは「実体験」からではなく、「メ
ディア」「先行作品」から生まれたものなのかもしれない……と薄々思っていたも
のが、今、この「虚構」という一節を読んで、それを確信しました。
同時に、これは、「小説」「言葉」「フィクション」の持つ力について、現在、大
いなる勇気を与えてくれている一節でもあるのです。
(だって……我々が書いてるような「あまり一般的とは言えない」(笑)セックスを、
「実践」しなきゃ書いてはいけない、なんてことになったら……困ってしまいます
から(^o^)