どら平太
監督:市川崑
元になったシナリオを読んでから検証しようと思ったけれど、そのシナリオがないので、いきおい印象批評になってしまうのだけれども……。
このプロットは、どう考えても、「ひょんなことから仕官することになった三十郎が、その頭脳と度胸と腕っぷしを見込まれて、ガタガタになったある藩の立て直しに送り込まれるが……」というプロローグがありそうな気がしてならない。それほど、主人公・どら平太のキャラクターが三十郎なのだ。武士のしきたりを無視して、明快な論理と豪快なワザと痛快な行動で悪いやつをやっつける話。「用心棒」と「椿三十郎」に続く、『三十郎三部作』なのだ。どう考えても、その思いが抜けない。
だから、望遠を多用した往年の黒沢流ダイナミックな映像を期待してしまうし、音楽だって佐藤勝のあのブルドーザー・サウンドが耳の奥で鳴ってしまう。そして……ミフネのあの声とガキ大将のような表情が、浮かんできてしまうのだ。
これは、市川崑にとってはたいへんに失礼な事だと思う。一方の日本映画を代表する巨匠に向かって黒沢流を望むというのは、キューブリックにジョン・フォードを求めるようなものであって、いけない事なのだ。
いけない事なのだが……このプロットで、この主人公の設定では、黒沢=ミフネの三十郎が浮かんでしまうのを誰が止められるだろうか?
思えば、「用心棒」で、仲代達矢に「こっちに来るな!」と言われてもニヤリと笑って懐手でのしのし歩き出し、あのズンチャッチャッズンチャッチャッの音楽が鳴り響く、映画史上有数の『幸福な瞬間』を想起するなというほうが無理な話だ。三十郎というキャラクターは、黒沢が造型していなければ擦り切れるまでシリーズ化されていても不思議ではない希有なヒーローだったのだ。
市川崑は、求められて色紙に書くのは決まって、『静謐』という言葉だ。考えてみれば、市川の映画は、この言葉がよく似合う。どんなコメディを撮っても文芸作品を撮っても、ジャンルは多様だしタッチも多様だが、市川作品の全体を流れるものは、この『静謐』だ。
きちんと美的に整理されたフレームの中の情景。交通整理されてまったくうるさくないサウンド。ギリギリまで練り上げられた編集。それらが作り出す映画空間の中で、俳優たちはクールな芝居をする。市川雷蔵を見よ、船越英二を見よ、石坂浩二を見よ、山本富士子を見よ、岸恵子を見よ、吉永小百合を見よ……。
彼らは、荒々しい熱情に突き動かされて行動する黒沢映画の三船の対極にある。彼らは貧しく卑怯な百姓に無償の協力をすることもないし、悪に支配された宿場町を浄化しようともしないし、危なっかしい若侍に見兼ねて助太刀することもないし、核戦争に怯えて狂ってしまうこともないし、使用人の息子が誘拐されることもない。飢えた戦場でも良心に苦しむし、部落差別に苦しむし、老境のインポテンツに苦しむし、女難の相に苦しむし、二歳の赤ん坊に苦しむし厳しい父と冷たい継母に苦しむし、船場の大店のプライドに苦しむし、難事件に苦しむが、不思議と彼らに汗と涙は似合わない。黒沢に似合うのは、汗と涙と大雨だ。黒沢はロシア文学よりアメリカン・ハードボイルドがもっとも似合うと思うのだが、画面のドライさとは裏腹に、描く世界はウェットそのものだ。しかし、市川崑は、画面では水の光沢のようなもの、湿り気を帯びたものをこの上もなく美しく描くが、描く世界そのものは極めてドライだ。望遠を使っても、黒沢は力強いパッショネイトな画作りになるのに、市川はアートになる。
どっちがどう、というのではない。これは、作家の体質の決定的な違いなのだ。
……黒沢明は作風をどんどん変えていったが、その意味では市川崑はあまり変わっていない。研ぎ澄まされた映像美の極致の中で描くものは、あまり変わっていない(名匠・巨匠になって以降の話だが)。『静謐』を描きつづけているのだ。
その意味で、三十郎的ヒーローが熱気たっぷりに暴れまくらなければ、この作品は面白くならないのだ。
俯瞰が多い気がした。俯瞰というのは、冷静に状況を見せる効果があるから、客観的になるし対象を突き放すような意味も出る。これは僕の気のせいなのかもしれないが、城内での「藩のご重役」を主人公が追及するシーンに俯瞰気味のショットが入ると、さーっと冷静になってしまう。かなりアップも多用されているのだが、冷たい色調とも相まって、とても冷静になってしまうのだ。
それには、音楽のせいもある。谷川賢作の音楽は、監督からの注文があっての事だろうが、シンセサイザーをメインにしたものだ。その上、メロディがないし、リズムもない。じょろろん、というような、サスペンス映画におけるキッカケ音楽(アタック、というのか)が集まっているような感じでしかない。が、画面は同じでも、口ずさめるメロディを持ったオーケストラ演奏の音楽が付いていれば、映画の印象は随分変わったであろうと思われる。佐藤勝のあのダイナミックな音楽を引き合いに出してはいけないとは思いつつ、「用心棒」「椿三十郎」におけるモダンで、時には皮肉っぽく、しかし主人公の破天荒さを思いっきり表現したあの音楽の表情豊かな味わいが、堪らなく懐かしく思い出されてしまう。
と、いうような作品の構造というか、監督の持味を考えてしまうと、ヒーロー劇であるこの作品において、敵が魅力的で強大であればあるほどヒーローが輝くのに、という作劇の問題など霞んでしまいそうになる。
だが、古今東西のヒーローが『正義』を実現するまでに、どれほどの苦闘をしただろうか。桑畑三十郎は瀕死の傷を負ったし、椿三十郎も計略がバレそうになって絶体絶命のピンチに陥った。なのに……。
この作品のヒーローが無類に強いのは、いい。しかし、強いからといって、敵がこうも簡単に恐れ入ってしまっていいのか? 巨悪に対する処置にしても、(「椿三十郎」の)伊藤雄之助は平和が好きそうな事を言いながらかなり厳しい処断をしたではないか。
この作品においても、主人公がピンチに遭遇するチャンス(?)はいくらでもあったのに、こんなに主人公の思惑通りに事が運んでは、このプロットの存在価値すらないのではないか。藩を揺るがす大問題であり、歴代の町奉行が志半ばで辞職していったという『悪の撲滅』だというのに。
「親分三人」がヤクザの論理で恐れ入るのはまあ、いいかもしれない。主人公の度胸と腕っぷしは彼らには強くアピールするだろうから。が、主人公を嫌う武家社会の主流たる藩のご重役たちは、どうしてこうも簡単に(一回の会議で事が決してしまうのだから『簡単』だ)諦めてしまうのだ? 自分の地位も富も失うというのに。室戸半兵衛はあれほど策を弄し、最後には面目を賭けて三十郎と対決したではないか……。
町奉行は人を殺せない、という「禁じ手」を作ったのなら、それに代わる「凄い見せ場」は絶対に必要だ。ヤクザ50人を一気にやっつけてしまうのは、みね打ちだからイマイチ迫力がない。大ハッタリな見せ場がほしかった。そういう見せ場を作れる人物もいたというのに。
……というのは、すべて『三十郎三部作』として考えたら、という事だ。あの頃のクロサワなら、ということで考えてしまうとこういうふうな不満が出てしまう。
で、この作品に、そういう不満を吹き飛ばし、まったく違う映画なんだ、と思わせる魅力があれば、よかったのだが……。
役所広司は、並居るお侍の中では軽い現代語を駆使し、ヤクザの中では水を得た魚のように元気に動き回って、飄々とした味を出している。
片岡鶴太郎も、最近の「大物俳優」ぶった芝居ではなく、気さくで実直な真っ直ぐな侍を好感をもって演じている。鶴太郎と宇崎竜童扮する大目付が「真の黒幕くさい」候補なのだが、鶴太郎があまりに素直にいい人物を演じすぎたので、宇崎竜童しかいないじゃん、ということになってしまう。
浅野ゆう子は、もっと気っぷがあってベランメエで伝法な芸者にしたほうが感じが出たのではないか。
というわけで……豪快なはずの主人公のキャラクターだったのに、痛快なはずのプロットだったのに……愉快なはずの映画だったのに……と言わざるをえないのがとても残念で仕方がないのだ。敬愛してもし足りない、市川さんの映画であるだけに……。