ゴジラ モスラ キングギドラ大怪獣総攻撃
監督:金子修介
東宝怪獣映画の最高傑作、と言い切っても過言ではない。金子修介には日本怪獣映画史上に燦然と輝く平成ガメラ三部作があるが、怪獣映画の本家本元に乗り込んでこの作品をこういう形で完成させたことに、背筋に電気が走る興奮を覚える。
全くの私見だが、この作品は、怪獣映画というジャンルを変えてしまうだろう。それは、ミュージカル映画における「ウエストサイド物語」、チャンバラ剣豪映画における「用心棒」、西部劇における「ワイルド・バンチ」、アクション映画における「レイダース/失われたアーク」と比す事が出来るだろう。もちろん「平成ガメラ三部作」ですでに怪獣映画のあり方に革命は起きていたのだが、この作品は、ロバート・ワイズがMGMに乗り込んだような、黒沢が東映京都に乗り込んだような、サム・ペキンパーやスピルバーグが(西部劇やアクションの本家本元ってどこでしょう?)に乗り込んだような、傍流が本家で大暴れした、という破壊力がある。
世の中の形あるものはすべて、革新の波に洗われる。逆に、洗われなければその「もの」は、滅びるか、「古典」としてうやうやしく祭られる代わりに現代性を喪失する。オペラは演出と指揮で革新され、歌舞伎や演劇も新解釈で革新される。映画に置いてもしかり。
が、だいたいの場合、ジャンルを革新する作品は、そのジャンルの爛熟期もしくは衰退期に現れるから、せっかくそのジャンルを革新してもかえって死期を早める作用をしてきた。ミュージカルが廃れてしまったのは、アステアが老いた事もあるだろうが、一人の俳優が支えていたジャンルというものは弱い。色は違うがジーン・ケリーが独り頑張っても、世の中はボーイ・ミーツ・ガールの甘ったるいものより、現実を描く写実的なミュージカルに開眼してしまったのだ。そして、その路線は「ウエストサイド」を越える作品を生み出せなかった。
同じくチャンバラ剣豪映画にもそれは言える。黒沢の「用心棒」はマカロニ・ウェスタンに決定的影響を与え、残酷描写が台頭してきた。それが流麗で踊るようなチャンバラを、血みどろの抗争劇に変えて行くのだが、それだって、「その方が客が入った」からなのだ。現代の観客は、より刺激の強いものを好む。
スローモーションの多用で西部劇のみならずアクション映画を変えてしまったペキンパーだが、その治世も長くは続かなかった。スローモーションは、見飽きるのだ。しかしドン・シーゲルは呼吸するようなカッティングとカメラ・アングルを武器に王座を奪取したが、これも長くは続かず、ハイテンポで山ほどのアクションを叩き込んでくるスピルバーグには勝てなかった。アクションの本家本元、007シリーズも、「レイダース」を前にしては古色蒼然とした古ぼけたものでしかなくなった。(しかしこの『革新されるジャンル』ってみんな脳天気なものばかりだ。恋をして歌を唄って踊ってとか、超人侍が悪党をばったばったと斬っていくとか、インディアンを大量虐殺するとか、共産スパイをぶち殺すとか……)
日本ローカルでいえば、着流しヤクザ映画は、深作欣二の「実録シリーズ」に壊滅させられた。そして……怪獣映画は金子修介に?
確かにこの作品は、怪獣映画を革新するとともに、怪獣映画の幕を引いてしまうかもしれない。しかし、それは罪ではない。作品を賞賛することにこそなれ、それはこの作品の欠点ではないのだ。たった一作(正確には四作だが)で倒れるジャンルの方がダメなのだ。そういうジャンルは滅びるべくして滅びるのである。が、アクション映画は、007チームが復活ののろしを上げて見事変身を遂げた。新しいボンドは、スピルバーグには演出出来ない大人のムードを兼ね備えたファイターだった。
復活するものは復活する。しかし、すでに役割を終えたものは退場するのがこの世の習いというものだ。死にゆくものを稀少動物のように保護するのもいいが、生命を失ったジャンル映画を、誰がどうやって保護するのだろう?
で、この作品である。もちろん、この作品は完璧ではない。傷はいろいろある。しかし、作品全体の迫力と気合いの入り方を前にしては、そんな傷などどうでも良くなる。
はっきり指摘しておきたいのは、この作品は、怪獣映画の革命的作品ではあるが、1954年の第一作ゴジラのもっとも忠実な後継者であり、あの作品の精神を正確に継承しているのだ。思い起こすがいい。あの第一作のゴジラが、如何に凶暴で残酷であったかを。あの作品の中で、人々は逃げ惑い、確実に猛火に巻かれ、電車ごと地上に叩き付けられ、瓦礫の下敷きになり、劇中「また疎開かよ」という台詞があったように、アメリカの大空襲と同じかそれ以上の惨劇が展開したのだし、演出もそれをズバリストレートにリアルに表現している。だから、怖い。物凄く怖い。あれほどの恐怖を感じる怪獣映画が他にあったろうか。演出がリアルだったからだ。当時始まったばかりのテレビの生中継を盛り込み、大通りを人々が逃げ惑うという演出は極めてリアルだ。そして……救いがない。第一作ゴジラは極めて悲観的でシニカルな悲劇であり、戦争や核の恐怖へのメタファーがあった。
しかし、観客はリアルな演出でショーアップされたゴジラの破壊にカタルシスを覚えた。隠し味であるメタファーとかテーマはどうでも良くて、観客は、「怪獣大暴れ」を見たくて劇場に駆けつけた。彼らをそうさせたのは、迫真の演出があったからだ。嘘っぱちではないリアリティがあったからだ。東宝のミニチュアは精巧で、怪獣たちが破壊する街には本当にリアリティがあった。
こういう破壊は、怪獣映画でこそ許される。戦争映画だと、日本の町を破壊するとすればアメリカだろうが、そんなものは見たくない。大暴風雨映画というのもあるが、これはリアルすぎて楽しめない。怪獣映画では階のカタルシスを味わうのがもっとも『楽しめる』スタンスがあったのだ。
作り手もその欲求を受け止めた。商業映画である以上、それは正しい行為だったが、第一作ゴジラの精神は歪められていった。というか、第一作とはまた別の流派が生まれたと解釈すべきなのかもしれない。
その新しい流派は、「キンゴジ」や「モスゴジ」まではよかった。関沢新一の脚本がしっかりしていてお話として必然性があり、怪獣どうしの対決にも無理がなかった。本多演出はますます成熟の度を加えた。怪獣にギャグをヤラせる余裕すらあった。しかし、この路線には限界がある。そうそううまく出来たお話を作る余地はないし、怪獣マニアという新しいファン層が勃興し「もっと怪獣をみたい」という要求が強くなる。そうなれば新しい怪獣を出し、プロレスもどきの対決をさせる。
幼児の頃から怪獣映画が大好きだった僕は、怪獣映画の監督になるのが夢だった。わら半紙を綴じた「企画書」に自分の考えたストーリーを書きなぐった。先年、それが物置から出てきて見直したのだが、見事に、怪獣への思い入れというものがなかった。僕は、『怪獣映画』が描くパニックが好きなのであって、『怪獣』が好きなのではなかったのだ。
だからかもしれないが、前作「メガギラス」での怪獣対決シーンがツボにはまってよかった、という評価に接すると、「そうかねえ。プロレスごっこのまま発展してないじゃないか」としか思えない。
話が外れてしまった。この作品の評価である。
上記のように、第一作の忠実な継承者であるという宣言は随所になされている。歴史観がまずそうだ。前作もそうだったが、この作品はよりシビアだ。「防衛軍は怪獣から日本を守れない。この事実を我々はひたすら隠してきた」という台詞には痺れる。また、「アメリカにもゴジラと称する別の生物が上陸し……」というのにもニヤリとさせられる。これは怪獣は複数存在するという事を言いたい台詞だったそうだが……。
金子監督は、怪獣の存在の正統性を、神話に求めるのが好きだ。僕は人間の味方の怪獣なんてナンセンスだと思っているが、平成ガメラの説明は納得がいった。日本というくにを守るものがガメラなのだった。
ゴジラの場合は、日本に対する悪意の総体として存在するようだ。それはまあそうでもいいかもなあとは思うけれど、かなり苦しい。で、日本というくにを守る怪獣として、バラゴン、モスラ、キングギドラが存在する。キングギドラが悪役じゃないなんて! と思うけれど、今回、ゴジラが圧倒的に強いから、正義の側にキングギドラがいないと困るのだ。まあこの怪獣の選択にはいろいろ裏話があるのだが、完成作品を見る限り、この設定はそれなりに成立している。怪獣の中で、バラゴンが実に可愛くてペットにしたいくらいだから、ゴジラにやられるのが実に痛々しい。
ヒロインは、新山千春。金子監督のキャスティングの趣味は僕とぴったりなので、金子映画の歴代ヒロインはみんな好きだ。今回も、新山千春の懸命さときりりとした表情が実にいい。これまでのゴジラ映画の主役の中でも最上級だと思う。(いや、今までの歴代作がいい加減過ぎた)
彼女はBSデジタルの零細チャンネルのスタッフ。いかがわしい心霊現象とか超自然現象をネタに最低の製作費で番組を作っている。しかし彼女は「いつか本物のネタを……」と思っている。そんな彼女のブレーンが物知りの科学ライター。この設定はヨイ。
で、彼女の父親が「防衛軍」の幹部。宇崎竜童は監督が望んだキャスティングらしいが、もうちょっと軍人らしい仕種をキメられる人はいなかったのか、と思う。この父親は54年のゴジラの来襲で両親を殺され、ゴジラの恐怖を身をもって経験している。だから、大和田伸也の上官が意気地のない指揮をとるのにいたたまれない。
で、金子演出が見事なのは、脇役の捌き方だ。ゲストの顔ぶれが凄くて、小さな役で数カットなのに意外な役者が出ていたりするが、そういう『オトクな特別出演』があるからといってサービスして派手な芝居をさせたり重要な役を与えたりすると、途端にイモ臭くなる。金子監督はそのへんが実にうまい。ゲストだから助かるだろうと思っていると、いきなり無惨な最期を遂げたりするのが凄い。この辺りのテイストはレニー・ハーリンに似ている。女子供は殺さないというハリウッドの不文律を平気で破るフィンランド野郎だが、監督というものは、意地が悪い方が作品は良くなるという見本だ。
で、新山千春はデジビデを携帯(まさか……PHSだよね)に繋いで決死の実況放送。父親も自ら志願して特攻の覚悟でゴジラに向かっていく。
この辺りの描写は、ガメラ三部作で磨いた腕で迫力満点で緊迫感もいやがおうにも盛り上がる。
この作品、はじめのうちはシーン変わりのカットのタイミングが少し早い感じで、せめてあと12コマくらいほしいよな、と思っていたのだが、そんな事はだんだん気にならなくなる。
横浜を舞台にした三大怪獣の激突シーンは見事の一言。怪獣のデザインで何か問題があったらしいが、怪獣は別に好きではない僕としては映画の進行に集中していたので何が問題だったのかよく判らない。
で、ベイブリッジが崩落してヒロインも海中に没する。この辺りの畳みかける演出も見事。
ラストは、大団円で終わるのだが、なんせこのゴジラは怖い。ハム太郎を見にきたガキ共を震え上らせて一生消えないトラウマをつけてやればよろしい。それほど怖い映画は過去にもあったんだから。
映画を思い出すと、「あ。ガメラのときの方が思い切ってやってるな」と思えるカットもあったりするし、「ガメラ3」の渋谷炎上シーンの恐ろしくも美しい、映画史上に残る怪獣激闘シーンに横浜港のシーンは負けてるか、とも思うが、トータルで見れば、この作品は大成功であろう。
これから、怪獣映画は何処へ行くのか。怪獣映画はどう変貌するか。
ミュージカルもチャンバラも西部劇も、そのジャンルの消長については他人事に思える(実際、他人事なんだが)が、物心ついたときから見続けてい来た怪獣映画には、それらとは比較にならない思い入れがある。だから、このジャンルについてはいろいろ言いたいこともあるし、なんとか理屈で説明したいとも思う。
怪獣映画はジャンル的に孤立していない。戦争映画や自然災害映画と隣接しているから、余計に評価の基準が厳しくなるのかもしれない。(その逆に、「怪獣が出てくればそれだけで許す」という全面肯定派もいる)
過去の東宝怪獣映画の路線は、落ちるところまで落ちた。それが前作「メガギラス」で、センスのある監督が撮れば何とかなることを示した。しかし、この作品を前にすると、ちょっと覚悟の度合が違う感じがあるのだ。前作は、決闘と聞いても「まさか殺しあいにはならないだろう」と木刀を持って行ったら、相手は真剣を振り回していた、という感じだろうか。
アメリカの同時多発テロがあった今、怪獣映画に描かれる、大都市の理不尽な破壊は、現実のものとなった。ならばよけいに、金子流のハードでリアルな怪獣映画が求められるのではないか。僕はそう思う。