ジャッキー・ブラウン

監督:クェンティン・タランティーノ

 非常に月並みな感想になると思うが、「タラちゃん、大人になったねえ」というのが最初の感想。こんなにしみじみした余韻のある作品を、三作目にして撮ってしまうとは。俳優ゴッコばかりやってたわけではなかったのだ。

 いつものタラちゃん節を期待したら肩透かしを食らうだろうが、その代わりにいいものが見られた、という気分でいっぱいだ。

 やはりタランティーノはタダモノではない、という感を深くする。この作品は過渡期と見なしていいのではないかと思うが、これから先、タランティーノがどういうふうに変貌していくか、絶対に目が放せない。

 僕にとって驚きだったのは、『普通のヒト』をきちんと描ききっている、という事だ。これは映画監督・脚本家には必須な条件ではある。しかし今までのタランティーノは「どこかキレた人物」(たぶん彼自身や彼の周囲にいる人物をモデルにしたのだろう)しか登場させなかった。「レザボア・ドッグズ」しかり「パルプ・フィクション」しかり。そのキレ方が実に鮮やかで、人間の切り取り方が往年の森田芳光を髣髴とさせて新鮮かつショッキングだった。たぶん世界中の人がそう感じて、タランティーノは注目されたのではないか。

 その目差しは健在だ。ただ、描き方が前作まではひたすらエキセントリックにデフォルメして、いわばドタバタ的に処理していたのだが、今作は違う。その人物の内面に踏み込んで造型しようとしている。カタから入るのではなくアクターズ・スタジオ的に内面から描き出そうとしている。そして、それは成功した。

 

 思うに、「レザボア」の成功は、着想の勝利だった。少ない予算でいかに面白くするか。自分の武器は洪水のようなダイアローグだと知っていた(だろう)から、血みどろしゃべくり映画になった。「パルプ」の成功は、その構成の面白さによるところが大きいが、キテレツな人物を大集合させたのも一因だ。常人では思いつかないようなキャラクターがわんさか出てきて、それをスターが演じる。これで、映画全体が「冗談」のようになり、壮大なジョークムービーとして認知されたのではないか。

 タランティーノは彼なりに、俳優の生かし方の実験を(意思的か無意識的にかは別として)したのではないかと思われる。前から「この役者はこう使ったら面白い」というアイディアを温めていた場合もあるだろうし、現場で思いついた事もあるだろう。

 

 前2作は、実験映画と規定してもいいのではないか。

 それほど、今作はきちんとしたドラマを描こうと努めている。そして、それは大成功を収めている。もちろん、お馴染のタラちゃん節も随所に顔を出してニヤリとさせられる(やたらディティールに細かい、しつこい、突然キレる、など)し、映画マニア出身者としての、嬉しい遊び(ブリジッド・フォンダ扮するメラニーがテレビで見ているのは、パパ・ピーターが出ている「ダーティメリー・クレイジーラリー」だったりとか)もある。しかし、前作まででは、それが面白さのメインだったのに、今作では脇に回り、ドラマや人物造型の材料になっている。

 

 パム・グリアー(魅力的だ!)のジャッキーが大立ち回りをするのかと思いきや、彼女は完全に頭脳戦を仕掛けて来る。極めて静か。極めて抑えた演技。これがいい。市井の、悪いことにはちょっと手を染めてはいるけれど、生活の大部分はまっとうで普通に暮らしている、もう若くはない黒人の女。そんな彼女の「生活を賭けた大勝負」が今回の物語なのだから、メキシコのシケた航空会社のシケたスッチーが拳銃を命中させたり悪党どもを投げ飛ばしたり出来るわけがない。使えるのは頭だけ。

 そういうリアリズムを大事にしているし、それに反する事は一切させていない。画面からは彼女の生活感が滲み出るし……「老後の心配」までしちゃうのだ。これが『正しい人間の在り方』だろう。

 その彼女を助け、力になってやろうとする保釈金融の男マックス(ロバート・フォースター、好演!)。この人物の描き方が、滋味溢れるというか、素晴らしい。彼は別にハードボイルドな人生を送ってきたわけでもないし、ダークサイドと繋がりがあるわけでもない、真面目で実直、信用第一で親身な仕事ぶりの男だ。フォースターはB級映画に多く出てきた地味な俳優だから、この役柄がWる。彼にとっては、毎日がルーティーン(犯罪者相手だからそんなこともないか)のツマらないが安定した仕事を辞めようかと思っている時に舞い込んだ、願ってもないオイシイ話だ。うまくすれば死ぬまで遊んで暮らせるかもしれない。初老の男、生活感が染みついた男ととしては、そういう甘い誘惑に駆られる。しかし……最後の最後で彼は跳ばない。そういう人物を、フォースターはこれまた静かに、しみじみと(しかしドライに)演じるし、タランティーノも抑えた演出で見せていく。

 この二人の描き方は、本当にうまい。ほれぼれするほどで、いつのまにタランティーノはこんなに腕を上げたんだ?と思ってしまう。大失恋でもして人生の苦い味を噛み締めたか?とすら思ってしまう。余計なお世話だけど。

 フォースターに関しては、彼をこの役にキャスティングしたのは大正解だ。この役は彼しかいない、と思えるほど、ぴったり。この作品の中でも白眉ではないか。

 若いヒーローとヒロインならば、「お別れね。手紙を出すわ」と言われて見送っても、なんという事もないが(だってすぐに次を見つけるでしょ、と思ってしまう)、ジャッキーもマックスもけっして若くはない(44なら若いじゃないかとも思うけれど、無鉄砲になれないし先の事を考えてしまう知恵もついた年齢だ)。だからこそ、この別れが胸に来る。さらりと別れているだけに、余計に胸に応える。

 「エイリアン5」も「スターシップ・トゥルーパーズ2」も見たくはないが、「ジャッキー・ブラウン2」は絶対に見たい。彼女と彼のその後を、是非見たい。

 

 しみじみ味で締め括ったこの作品だが、しっかりハードボイルドしているし、これ以上のハードボイルドもないかもしれない。ハードボイルドとはスタイルではなく生き方・考え方なのだ。

 『あの夜』、ジャッキーは考え抜いた作戦で、自分が生き残る事を考えた。その為には、心を通わせられるのではないかと思う相手・マックスすら犠牲にする覚悟がある。ジャッキーこそ、真のハードボイルドの体現者であろう。それゆえマックスも腰が引けちゃって、人生最後の花火を打ち上げずに退場していくのだ。

 ジャッキーは普通の人ではあるが、ハードボイルドの世界の住人だ。マックスはハードボイルドめいた世界の(ハードボイルドの隣の)住人だが、どこまで行っても普通の人でしかない。例の大金横取り計画の時も、彼は立案に参加することもなく、ただジャッキーの助手として動くだけだ。その時のモノローグがいい。ウブな一般人が初めてヤバい事に手を染める瞬間の心情を的確に吐露している。

 うまい。

 

 『いい人側』に比べると、『悪い人側』はこれまでのタランティーノ・テイストを色濃く残している。特にサミュエル・L・ジャクソンの役はそうだ。ジャクソンは、「パルプ」の好演で、いい人を演じる事が増えていたが、久々にチンピラの嫌な野郎を(気持ち良さそうに)演じている。古巣に帰ったような感じで、これがまたいい味だ。

 いい味といえば、デ・ニーロ。役者に人気のある監督というのはトクだ。こんな役をデ・ニーロがやってくれるんだから。昔はキレモノだったのに、刑務所から出てきてみればただのボケオヤジ。しかしデ・ニーロがやってるんだから……と思ってみていると、そのボケぶりはますますエスカレートするという大ドタバタ。『本番』のショッピングセンターの場など、大爆笑だ。その後、ジャクソンに難詰されてぶつぶつ返事する「もっさり加減」も最高。この役は、そこそこの役者がやっても面白くなる役ではない。その意味で、タランティーノのキャスティングは見事だ。しかし、いくら見事な配役をしても、出てくれなきゃ意味ないし……。

 ブリジッド・フォンダにしてもそうだ。この役は、典型的『目の保養』の役回り。だから、あとちょっとでハードコアに出そうな女優(もどき)がやったりするような役だ。まあ、「横取り」を計画するから、そこそこの女優じゃないと無理か。だけど、普通の監督がブリジッド・フォンダをキャスティングしても、絶対出てくれないよ。出てくれても役柄や設定に強烈な注文が付くだろう。「もっと見せ場を作れ」とか「芝居場を作れ」とか……。

 とはいえ、これまでの彼女のイメージをぶち破りかける存在感を示せて、彼女も良かったのかもしれない。今までの彼女は線が細くてイマイチ存在感が弱かったから。駐車場でえんえんデ・ニーロをいびる場面は「おお、あの上品なブリジッドが」と驚いたが。ずっとガムを噛んでるとか、そういうことをさせた方がもっとこのキャラクターの下品で低脳なイカレポンチぶりが強調出来たかもしれない。

 マイケル・キートンの役は、そこそこ儲け役。しかし、ジャッキーの計略を見破れなくて、しかし猛烈に引っ掛かりを感じて「うー」と唸っている刑事を、愉しんでやってる感じが伝わって来る。

 

 プロット自体は、昔からよくある「お宝の奪い合い」。大金があれば横取りするのが人情というもの。この場合、論理的に言って、運び屋が一番有利な位置にあるということを証明してくれたのがこの作品だ。今回、ジャッキーは警察を味方に付けるが金は頂戴するという最高にアタマのいい方法を開発したが、これは司法取引のあるアメリカならではで、日本では使えないだろう。実に惜しい。