キル・ビル2
監督:クエンティン・タランティーノ
やっぱりこれは畸人が真面目に描いた歪んだラブストーリーだ。
前篇では無茶苦茶な展開と無茶苦茶なアクションで押しまくって観客を圧倒させたが、後編にあたるこの作品は、「静」なイメージで進行する。
「こんなに愛した女が出て行ったまま帰ってこず、探しに行ったら違う男と仲良くしていて結婚まですると言うじゃないか。で、つい混乱して」ビルは結婚式場にいた全員を惨殺したわけだが、これはこれで、理解出来ない事はない愛の形ではある。規模は違えども、似たような痴情事件は頻発しているし。
名前がなくて「ザ・ブライド」と呼ばれた主人公には一応の名前はある。彼女もビルにはかなり屈折した愛情を抱いている。屈折しているが故に、その愛情は非常に強い。これもメロドラマによくある愛情の形「あなたは好きだけど、あなたとでは幸せになれない。だから、私を幸せにしてくれる人を選んだの」というアレだ。だから、オハナシの芯は実にオーソドックスと言うか、ありがちなものだ。しかしこの作品が全然ありがちではなくて実に独創的で面白さに満ち溢れて映画的興奮に満ちているのは、タランティーノの熟練の域に達した映画表現があるからだ。
タランティーノは、前例のない事を発明するというタイプの天才ではない。既存のものをアレンジして組み立て直して新しいものを引き出す天才なのだ。
すでに世の中には「全く新しいもの」と言うのはほとんど生まれないと言っていい。特にミステリーのトリックとか映画や小説のプロットは五十年代までに出尽くした、と考えられている。遅れてきた観客が「新しい」と思うものは、はるか昔のリバイバルか、巧妙な『焼き直し』なのだ。その意味で、タランティーノの映画はすべて『焼き直し』ではあるが、タダの焼き直しではない。ここが凡庸な人間と全く隔絶するところだ。
一つには、オマージュを捧げる対象に、彼の純粋な愛情を強く感じる。小ばかにしてカリカチュアするのではなく、愛するが故に、リスペクトするが故に引用したくなるし、表現を真似てみたくなる。幼児的と言ってもいいけれど、幼児的故に、その感情は純粋だ。
だから、見る側も、東映実録映画(というか深作アクション)や「さそり」「修羅雪姫」が出てくると嬉しくなってしまう。小ばかにして揶揄うようにパロディにされたら凄く不快になったかもしれない。パロディも素晴らしいものはその対象に愛がなければならないのだが。
そして後編では、徹底的にカンフー映画がその対象になる。余りズームを使わないタランティーノが、怪僧パイ・メイのシーンでは安直なズームを使うが、これは当時の香港映画のスタイルだった(日本映画だって安手のものはズームを多用していた)。パンフにもそう書いてあって、やっぱりね!と思ったが。
そういうタランティーノだが、異物をドッキングさせて発想やお話や展開が飛躍するから、かなり大胆で無茶な事をやっている印象を受けるが、撮影や編集、そして演技指導といった『演出』はしごくオーソドックスだ。たとえば市川崑やヒチコックみたいに、突然大俯瞰が入ったりアオリが入ったりアップが入ったりしない。会話のシーンでは、極く自然なサイズの切り返しが続くし、その編集もとても自然だ。だからとても見易いし映画にノって行ける。これがヘタクソな監督だと、各所で引っ掛かりを感じて生理的に不快になるのだ。やはりポジションとサイズ、編集のリズム感はとても大切であって、超映画フリークのタランティーノは肌でそれを知っている。これは凄い事なのだ。判ってない監督が多いのだから。
芝居にしてもそう。デヴィッド・キャラダインの芝居は自然で落ち着いていて、風格があって見事だ。とても渋い。悪党のくせに魅力に満ちている。だから、主人公がどうしようもなく愛してしまうのだ。そういう説得力がある。
その逆もしかり。ユマ・サーマンはこの作品を支えるだけの魅力とパワーに満ち溢れている。全身泥だらけになり血まみれのリアルなメイクをしても、きれいだ。「ビル」がこれまたどうしようもなく惚れてしまう説得力がある。
マイケル・マドセンもしかり。どうしようもないヤツだが不思議な魅力があって、こういう造形をされるから、役者に好かれるのだ、タランティーノは。
アクション・シーンは短いカットで迫力たっぷりに畳みかけるし、主人公が生き埋めにされるところの閉所感覚をきっちり描き出して息が詰まる演出力も見せる。前篇は痛快この上なくて、細かい演出を味わう暇が無かったが、後編ではそれがたっぷり味わえた。映画的魅力が横溢している。CGだらけの物量作戦で見せる昨今のド派手な映画には無い映画の悦びすら感じるではないか。
千年近く生きている「超人」パイ・メイが、どうして簡単に毒殺されるの、とか、武道の達人で格闘感覚が研ぎ澄まされているはずの主人公がどうして安直にマドセンのトレーラーに乗り込んじゃうの、という「二流映画の感覚」(B級映画、とはあえて言わない。映画の世界において、本来B級とは二流の同義語ではないからだ)も塗されて、それが突っ込みどころにもなって、愛嬌(というかタランティーノの映画ファン的ウィンク)にもなる。モノゴトは良い方に転がるとすべて良しになるのですなあ。不思議な事だが。これはもう、観客が乗せられているから、というしかない。うまく乗せられないと「アソコはヘンだ!」と批判の対象になってしまうのだ。
音の使い方が鋭いのもタランティーノ映画の魅力の一つで、選曲の妙もあるが、効果音がまた、いい。棺桶に被さっていく土の量感がすごくリアルで恐ろしい。音だけで「埋められていく」恐怖を表現しているが、この感覚がまた、とても映画的なのだ。
映画のオープニングとエンディング・タイトルの部分は白黒で、車を運転している主人公のショットは、昔懐かしのスクリーン・プロセスをあえて使っているし(今はもう、実際に車を牽引して撮ってしまう)、黒バックのタイトルに一条の光を入れたり字体が古めかしいのも、40〜50年代のB級ハリウッド映画のスタイルだ。「これはいわゆるラブストーリーなんだよ」というタランティーノのサインなのか?
今最も信頼出来る映画評論家にして映画研究家の町山氏の指摘で、出世作「レザボア・ドッグズ」の構成がパクリだったことが暴露されているが、すでにタランティーノは大きく進化して、パクリの末に新しいものを生み出す境地というか手腕に達している。
「ジャッキー・ブラウン」は練達の演出を会得したタランティーノが、大人の映画をきっちりマトモに撮れることを示した名作だと思うが、あの作品なら、ブラック・スプロイテーション映画の本家本元の監督でも作れるものであって、タランティーノでなければ、というものではなかったのは確かだ。だから彼の作品歴の中ではひときわ地味で、あまり語られない。しかし、この「キルビル」前後編は違う。オーソドックスで映画的に豊かな演出手腕で、畸人故のぶっ飛んだ発想(本人にしてみれば普通なんだろうが、他人から見ると彼しか出来ない独創的な発想だ)を作品化したと言う、極めてゼイタクなものなのだ。