クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲
監督:原恵一

 大感動を巻き起こしているこの作品だが、その感動の中心には『郷愁』がある。
 『郷愁』は記憶の蓄積あってこそのものであって、幼い子供にそのようなものはないのは当然だ。で、「20世紀博覧会」というものを出してきてそのギャップを導火線にしたのはとてもうまい作劇法だと思う。
 子供にとって、オトナというものは始めっからオトナなのであって、そのオトナがかつては自分と同じようにおネショをし親に叱られ先生に叱られ遊びに熱中しお菓子を貪り食い恋をしたなんて想像も出来ない。オトナはコドモの延長である、という事はオトナになって初めて判る事だ。
 このテーマを描いて秀作だったのは、大林の「さびしんぼう」だった。完全にオバサン化した自分の母親に美しい少女の時代があって、胸を痛める恋をしたこともあったのだ、ということを知って感動する話で、まだオヤジではなかった僕はこの作品を見ておおいに感動したものだ。
 それが意識にあったせいか、僕はこの作品に熱狂しなかった。熱狂しなかったけど、泣いたけど。
 冒頭の万博ノスタルジーとウルトラマン・ノスタルジーにはほとんど無縁(年代的にはばっちりだし万博には2度行ったけど)なのだ。万博とその時代は、僕にとっては非常に恥ずかしい。この作品にも出てきたが、ガイジンを見たらサインをねだるという『奇習』を僕も目撃した。当時は「どうしてサインをねだってはいけないのか」が正確に理解出来ていなかったが、なんとなく「スターでもない人にサインをねだるのは如何なものか」と思って外人を見てコーフンしているクラスメイト(四国の小学校の修学旅行で1度行ったのだ)を冷笑していたのだ。横須賀生まれでガイジンが珍しいとは思えなかったせいもあるし、妙に斜に構えたいやなガキだったせいもある。ウルトラマンに至っては、ガキの頃から怪獣のプロレスのどこが面白い、と好きではなかった(「ウルトラQ」は大好きだったが……だから怪獣映画もプロレス・トーナメント戦のようになって観なくなった)。
 なので、こういうセンなら辛いなあ、と思っていたのだが……。
 20世紀博覧会の主謀者で、なにやら「トゥルーマン・ショー」のあの芸術家みたいなケンとその愛人であるチャコが出てきて、「夕日町通り」(だったっけ?)のシーンになり、ギターの音がスネーク・インして、それがベッツィ&クリスのあの歌だと判った瞬間に……。
 不覚にも落涙してしまった。『郷愁』というものは、かくも甘く切ないのである。
 
 しかし、微妙でデリケートな感情であるからこそ、郷愁のツボというのはとてもナローだ。この作品に現れた郷愁のごく一部しか僕にはヒットしなかったし、心を揺さぶられはしなかった。
 
 基本的に、僕は、昨日より今日が「まし」と思っている。昨日の方がよかった、とは思えない。夕日町通りのイメージは、昭和三十年〜四十年前半のイメージだが、あの頃より今の方が絶対に住み易いはずだ。トイレは和式だったし汲み取りも多かった。僕は和式の汲み取りほど嫌悪するものはない。電話だって長距離は申し込んで待たされたんだぞ。所得は低いし道路の舗装率も低かったし……こういう部分以外の、あの頃まだ色濃く残っていた悪しき社会的因習とかなんとかも、今はすっかり薄れて、要するにあのころの日本は発展途上国だったのだ。
 子供の頃を懐かしむ最大のポイントは、『あの頃は生活の心配をしなくてもよかった』という大きな安心感が、記憶を甘美にするのであると僕は硬く信じる。あの頃は、親に言われるがママに学校に行き授業を受けて宿題をし親に叱られていれば、食う寝るところに住むところは保証されたし銀行預金の残高にハラハラする事もなかったのだ。親はハラハラしていたんだろうけど、コドモはそんな事知った事ではないから、休みになったらどこかに連れて行けとわめいたしおもちゃを買えとわめいたしこのおかず嫌いだとわめいたし(考えてみれば相当にいやなガキだねおれは)。誰の庇護も受けられないオトナになってみると、この安心感がいかに素晴らしい事であるか、身に染みてよく判る。親孝行したいときには親は居ず、という言葉そのものである。
 このポイントがなければ、昔より今の方がずっといい。……こう思うのも、今住んでいるのが昭和三十年代を引きずっていてバブルの繁栄に完全に取り残された街・北千住に住んでいるからだろうか。この街は、夕日町通りそのまんまだから……。腐った木造の小さな家がひしめいて、ソバ屋の出前が走っていて、家にあがれば白黒真空管テレビがよく似合ってそうな茶の間があって、晩飯がカレーだと御馳走に感じたりする生活感と生活レベルがまだあるんだよね。ひょっとしたらオート三輪も走っててもおかしくないくらい。
 だから……夕日町のシーンに多少ぐっとはきたけれど、それ以上のモノはなかったのだろう。
 
 で。
 不可解なのは、このケンが、『オトナ帝国』を作る動機だ。薔薇色に染まっていた21世紀が来てみたらこの体たらくでお先真っ暗。景気は回復しそうもないし凶悪なキチガイが増殖して残酷な事件も増えてるし、食い物はまずくなったし、世の中世知辛くなってしまったし、イイコトなんかまるでないじゃないか!『あの頃』のほうがずっといい。ずっといいから時間を止める(未来をやり直す、という事を前半では言っていたらしいが、1回見ただけではその印象は飛んでしまっているし、この方法では未来は変えられない)、というのは、まあ判る。賛成したい部分も大いにある。しかしそうならば、そういうコミューンを作って、ヤマギシ会みたいに、同好の士が集まってやってればいい話……と、言ってしまうと、この作品が成立しないか。だから、日本中のオトナを集めて、『あの頃』に戻し、歴史を逆回転させてやり直そうではないかということか?
 マジに考えることではないとは思うが、それは日本が鎖国していればアリだけどそうじゃないんだから、ハナから無理な話。版権の問題か、あの頃ヒットした外国テレビ番組がまったく出て来ないけど、こういう部分でも「外の世界」と繋がっているんだから、日本だけが時間を戻すことは出来ない。
 生活感覚というか、価値観を戻す、ということなら出来るだろうが、それをエンターテインメントで(それもゴールデンウィークのアニメで)描くのは至難の業だと思う。
 
 それと……子供を連れてきたお父さんが見たら、わんわん泣いちゃうだろうと思えるのが、しんちゃんの父・ひろしが「自分に戻っていく」時に見る半生記のシーン。独身の僕でも泣いちゃったのだから、(緑多き故郷、というイメージは、田舎者の全くのステレオタイプで貧弱であるが)就職して、仕事を頑張って、恋をして、結婚して、子供が出来て、頑張って、春日部といえども一戸建ての家を買って、みんなで庭に出て新居を見上げて……というところでは声をあげて泣いちゃうんじゃないか。
 足が臭いだの、趣味が悪いだの、オヤジギャグが寒いだの、甲斐性なしだの、英語が出来ないからハワイに行って恥かいただの、巨人が好きだの、スケベだの、キーボードが苦手だの、サラリーマンで潰しが効かないだの、生きている価値がないように言われるオヤジ。しかしアンタは頑張ってるじゃないの!立派にやってきたんじゃないの!と、がんがん肩を叩かれている(誰にだ?しんちゃんにか?原監督にか?)んだもの。
 
 「最後の一日になっても私は木を植える」と凡人が言うとカッコつけんなとドツカレそうだが、しんちゃんの口を借りて「ケンカしてても一緒にいたいもん!」と言わせる方が素直に感動できる。子供にそう言われてふにゃふにゃにならない親はいないんじゃないか(思わない親も確実に存在するのが21世紀なんだね)。
 マトモに言うとお説教臭くなることを、巧みに描き、しかも、大声で言い切ってしまえた脚本と演出の力量はすごい。
 
 僕は、郷愁とかノスタルジーの部分ではツボを突かれなかったけれど、オヤジの部分では見事に突かれてしまった。
 
 夕日町のような地域社会(この言葉、お役所みたいで血が通っていないが)は、バブルが殺してしまった。だけど、バブルによって日本は発展途上国ではなくなった、ともいえる。NASAの研究は日常生活のなんの役にも立っていない、だから無駄だったというバカが今でもいるが、人類が月に行く研究の副産物で人類のタメになったことは山ほどある。同様に、バブルのせいで良くなった事もなくはない(悪くなった事の方が圧倒的に多いけど)。
 この作品が出来たのも、バブルが崩壊したからだ。というのは強弁か?
 
 この作品は、かなり重くて巨大なテーマをやや未整理に提出したぶん、混乱があると思う。しかし、それは観客に考える余地を残してくれたのだ。
 
 ギャグは冴えていて、客のほとんどいない平日の昼間の映画館で、僕の笑い声がひとつだけ響いていた。