黒い十人の女

監督:市川 崑

 まず、劣悪な映写状態を糾弾しておきたい。ロードショー館が素人のような映写をしてどうする。ピントの確認をするのは映写の初歩ではないか。それを怠るようでは、金をとって映画を見せる資格はない。当夜の映写担当者は厳しく自己反省すべし。

 そういうこともあって、画面が命の市川映画なのに、ピントが甘く、イライラしどおしだった。こういう事が続くと、映画館で映画を観る気が失せてしまう。

 

 で……。

 昭和30年代は、まごう事なく市川崑の時代だった。この歴史的事実を最近知ったヒトにあれこれ言ってほしくない、という気持ちもあるが、なにはともあれ再上映の機会が持てた事には感謝すべきだろう。楽隊の後押しで実現した、というのが割り切れないが……。

 市川崑の絶頂期は、昭和30年代の大映時代である。順不同に「炎上」「おとうと」「野火」「鍵」「ぼんち」「雪の丞変化」「破戒」と並べれば、説明は不要だ。どの作品もため息が出るほどの完成度と高度なセンスに溢れている。「作り物を極めて真実に達する」という言葉を市川崑が言ったかどうかは定かではないが、まさにその言葉どおりの作風だ。テクニックをこれほどまでに作品に奉仕させきった監督はいない。

 僕が思うに、作品を決める大きなポイントは『贅沢さ』だ。別にタイタニックの現寸大セットを作れとか豪華キャストを並べろとか言うのではない。画面づくりの贅沢さだ。言い換えれば、画面の密度が濃いかどうか、という事だ。これは、ワンショットの中に含まれる情報量が多いかどうか、という言い方も出来る。二人が喋っているショットを、凡庸な監督が撮れば「ただ喋っている」だけでしかないが、市川崑のような凄い監督が撮ると、美術に凝り照明に凝りキャメラアングルに凝り衣裳に凝り芝居に凝る。これらはすべてショット内の情報量を増やしている。今夜の予告編で流れた某監督の作品など、情報量が少ないから、スカスカの画面で、実にお寒い限り。映画館の大画面には隙間風が吹きまくっていた。

 最近の監督(超ベテランを除く)で、この「情報量の多さ」に気づいた映画作りをしているのは、『絶頂期の森田芳光』『伊丹十三』『三谷幸喜』の三人くらいのものではないか。はっきり言って。このポイントが『映画以外の何物でもないもの』と『テレビでも充分じゃん、と思わせるもの』を分ける。如何に予算がなくても、ショット内の情報量を増やす工夫はいくらでも出来る。それは監督の演出術なのだ。それが出来ない監督は、映画なんか撮るべきではない。

 「黒い十人の女」は、僕は、全面的には大傑作だとは思えない。というのは、どうしても時の風化というものがあって、今の目で見ると、テーマの部分が「今更そんなに大上段に振りかぶらなくても……」と思えてしまうからだ。だって、今の世の中、男は充分弱くなってるし、コミュニケーションの難しさと言うことだって、みんな毎日骨身にしみているのではないだろうか。がしかし、このテーマを1960年の観客にぶつけた、という事は凄い。たぶん先端的すぎて当時の観客は実感も出来ないし理解もしがたかったのではなかろうか。だってこれから高度経済成長に向かうところで、みんな踊り狂おうとしているところだったんだから。

 だから、例えばこの作品をリメイクするならば、テーマの部分は、現代にあわせて脚色する余地がある。

 しかし、映像的には、モンタージュといいキャメラワークといい照明といい美術といい、そういう画面に映っているものに関しては、まったく古びていない。時の風化がまったく起きていない。そりゃ、テレビ局の機材とかスタジオの様子オフィスの様子は違うけれども、構図の取り方の大胆さ編集のシャープさ美術のカッコ良さは、時を経て、風格を帯びている。70年代80年代90年代を経てくると、60年代のアート感覚が実に新鮮だし美しく見える。それはたぶん時間の濾過を経て「スタンダード」「古典」もしくは「リバイバル感覚」的な存在かもしれない。

 その際たるものが、メイン・タイトルだ。メイン・キャストが、まるでプロマイド写真のようにこちらに向かってにっこりと笑いかける。このムード!下手に撮ると陳腐極まりなくなるだろうが、市川崑+小林節雄の黄金コンビ(市川崑+宮川一夫よりもスゴイと思う)は、実にモダンでシャープな感覚で見せてしまうから、観客としてはドキリとする。この映像感覚の物凄さ!これだけでため息が出た。

 望遠レンズを多用してセットを撮り、空間を凝縮して息づまる臨場感を出したり、シネマスコープの左右どちらかだけを使っての大胆な構図、突然ワイドレンズを使ってどーんと引いてみたり、と、このモダニズムには身震いする。今、こんなにキャラワークを駆使(というか酷使)して演出しきる力量のある監督がどれだけいることか。

 この作品は、女優陣の豪華さも凄い(山本富士子、岸恵子、岸田今日子、宮城まり子、中村玉緒……)が、僕は逆に、船越英二のうまさにほれぼれして見惚れた。うまい。巧すぎる。

 今も昔もテレビ業界の人々は独特の『軽薄さ』があるが、その『ヒラヒラ感』を、船越英二は見事に演じきる。これはもちろん演出の賜物なのだが。市川崑がテレビ創成期に日本テレビでテレビドラマの演出(演出指導も)をしていたが、その時出逢ったテレビ人種に対する辛辣な人間観察のおかげで、テレビ人種を抜き身の刀、という感じでズバズバ斬りまくっている。しかしそれは否定的に描いているのではないところが、並みの『直流監督』と鮮やかな一線を画すところなのだ。船越英二扮する「風松吉」という人物はヒラヒラしているが憎めない。逆に言えば妙に誠実でもある。今の目で見ると、男に縋ろうとして眉を釣り上げる女ども(自立している岸恵子と山本富士子を除く)がおろかに見えるほどだ。

 大回想で始まる構成と、全盛期の市川崑らしい「ばっさり切ったラスト」(近作では「映画女優」にその片鱗がある)の切れ味の見事さ。

 この作品は、絢爛たるテクニックが交錯し、登場人物の複雑な心理が交錯するので、完全に理解するには、1回だけの鑑賞では無理だろう。あと数回、上映環境に左右されないビデオで繰り返し見て、この作品(その意味ではフェリーニの「81/2」に匹敵するかもしれない)の巨大さに迫ってみたい、と思うのだ。