マレーナ

監督:ジュゼッペ・トロナトーレ

 手放しの、愛の讃歌。観た直後は、表層的なあれこれしか頭に浮かばずに、直感的に「ああ判るなあ!」と言う部分に反応して涙が出たのだが、じっくり考えると、この作品は、ラスト・シークエンスのためにあるのではないか、と思うと、また泣けてくる。
 すべての悲劇の始まりは、マレーナが南イタリアのシチリアの風土に合わないキャラクターだたからなのであって、美人なのかそうでないかは二の次だ。
 「寡黙な人間は腹黒い」という格言があるのかないのか知らないが、とにかくイタリア、特に南イタリアの人間はよく喋る。喋ることが自己の存在の証しであるかのように豊かな表情と大きな身振りで無限の言葉を繰りだす。
 でも、中には無口な性格の人間もいるはずだ。バスケやラップがヘタクソな黒人だっているように。
 マレーナが、お喋りな女で、街の広場に出ていってワイワイガヤガヤやっていたら、この悲劇は起きなかった。多少派手な服を着ていても、街の一員と認められていたら何の問題もなかったろう。しかし彼女は、同じシチリア女とはいえ、この街に嫁入りしてきた。知っているのは夫とその親だけ。
 たぶんマレーナは、無駄なお喋りをしているよりも家の中で本を読みラジオを聞きレコードを楽しむのが好きなのだ。多分、口べた。その代わり、タシナミとして、外に出るときは身だしなみに気を使う。
 あけすけな悪口が彼女の耳に届いていないはずはない。だからよけいに言葉を失くし、目を伏せて歩く。教養のない連中は、ほれみたことか、とより悪口をパワーアップさせる。
 マレーナが美人でも、ソフィア・ローレンみたいにガハハと大笑いできる女なら、「美人だから身持ちが悪い」「あれで男なしで暮らせるわけがない」「誰かいるのに決まってるだろ」ということにはならなかったはずだ。ポンポン言い返せばすむ話しだし。街外れに住んでいるのもよくなかったのかも。
 気の毒というしかない。これが北の方の街なら、こういうことはまったくなかっただろう。たぶん。
 
 この作品の主人公は、まだ半ズボンの、つまりまだ半人前のガキ。散髪屋で低い椅子に座らされるが長ズボンを穿いたら「こっちへどうぞ、シニョーリ」と言われるのが印象的だ。
 そんな彼の目でみた彼女が描かれる。視点の移動は一切ない。事実も妄想も思い込みも、すべて彼のものだ。だから、マレーナの内面はまったく描かれない。彼が想像するのみだ。
 彼は、マレーナを女神のように崇拝する。女を崇拝するけれど力を持たせない、というのがイタリアか。
 事実と空想がごっちゃになって映像になるのが面白い。いやこれは昔からよくある手法だが、いきなり彼の部屋に白い服を着たマレーナが現れる幻想のカットは衝撃的で、電気が走る。それから後の、映画のヒーローとヒロインがいつも主人公・レナートとマレーナ、という微笑ましいスケッチが幾つか積み重ねられていく。
 主人公の思いは募るが、彼女の周囲の環境は悪化する一方だ。夫が戦死し、経済的に苦しくなっていく。手に職がない若くて美しい女が出来ることといえば……。
 憧れの女神がもみくちゃにされ、堕ちていく。主人公の少年レナートにしてみれば、こんな残酷な眺めはない。しかし彼は、見ているしかないのだ。まだ子供だし。多分彼はこれで人生の過酷さを思い知ったのではないか。
 かねてより淫乱で尻軽でいろんな男を情夫にしていたマレーナが、ハッとするほど濃い化粧をして(これがまた美しい)髪を染めて街へくる。お客をひくためだ。
 それまでのマレーナは服には気を使っていても特に化粧はしていなかった。スッピンでもないが地味。「アデルの恋の物語」の時のイザベル・アジャーニを彷彿とさせる、清楚な美しさだが、娼婦になったマレーナも、これまた魅力的。押し隠していた色香を解き放ち、そのフェロモンはムンムンする。
 その初日、広場のカフェの椅子に座ったマレーナがタバコを取り出すと、周囲の男が先を争うようにライターを出す。これは象徴的カットだが、ここでマレーナが上目遣いにカメラ目線でじっと「こちらを見る」。この目が印象的だ。
 マレーナを演じるモニカ・ベルッチの目はとても魅力的で、この目をもつ女なら男はフヌケになるだろう、と思わせる。
 目の強い力、というのはラテン女の最終兵器ではないか。フランス人よりもイタリア人、イタリア人よりもスペイン人。あの情熱をひた隠すような目で見つめられたら、反応しない男はホモだけだ。で、モニカ・ベルッチの来日インタビューに添えられた写真を見ると、ご本人の目が、やっぱり強烈なのだ。
 僕は、この目をもっと見たかった。いや、一発だけ、強烈な目線を浴びてみたかった。彼女の(マレーナかモニカはもうどうでもいい)放射能のような物凄い目線に刺し貫かれてみたかった。しかし、映画の中では、そういうカットは、ない。なくても充分感動したのだから、これでいいんだろうけれど、僕としては、上記のタバコの時の上目遣いではなく、ハッキリ正面切って「じっと見つめる」目線を見たかったなあ。
 それはともかく。
 もんもんと悶え苦しむレナートの悩みを、父親は見抜いている。この父親が、実にえらい。すぐ叩くし、今の感覚なら暴力父だろうけど、躾に厳しいが、子供の事をよく理解している素晴らしい父親だ。「こいつの悩みは一発させればすぐ癒る」
 父親は娼館にレナートを連れていき、彼の相手になるのが……女神。
 夢がかなって最高の気分。あり得るとは思わなかった女神とセックスできる。しかも自分はお客だから、邪険にもされず大切にして貰える。しかし。ああこれは実に哀しいシチュエーションではないか。じゃあ他の女にすればよかったか、というと、ここはもうマレーナでしかありえない。ありえないんだけど、こういう形で彼女と結ばれたくはなかった。
 彼の情熱や熱い想いが通じたんじゃくて、親の金が彼女にそれをさせているのだから。
 哀しいではないか。
 しかし、だからこそ、レナートは彼女への思慕を棄てない。
 
 世界中で忌み嫌われるドイツ軍がシチリアにも入ってくる。同盟国なのにイタリア人はドイツ兵を嫌っている。彼らを客にするマレーナは、以前より増して憎悪の対象になっていく。カラダで食料や贅沢品を確保するんだから、そこらのオバハンにしてみれば、これほど目ざわりで不愉快な存在もないだろう。
 で、敗戦。パンフのストーリーにも書いてあるけれど、映画には、マレーナが占領してきた連合軍というかアメリカ兵の相手をするシーンはないのだが。
 パリ解放のニュース映像をみていると、ドイツ兵と仲良くしていた女たちが道に引きだされて頭を刈られて晒し者にされているのがあった。そういう女たちを主人公にした映画もあった。
 まあしかし、マレーナがリンチされるシーンは、凄惨で、正視に耐えない。レナートがなにも出来ないのが彼をより傷つける。
 このシーンが酷ければ酷いほど、ラストが生きるんだけど、可哀想でならないのは観ている側が完全にレナートと一体になっているからだ。
 ボロボロになった彼女は、列車で去って行く。
 そこへ、戦死したはずの夫が、片腕を失って帰還する。
 これほど残酷な帰還もない。戦場ではきれいなカーチャンの事だけを思い、案じ、彼女のために生きてかえろうと誓っていたはずなのに、街を歩くと、「マレーナのダンナだ」と後ろ指差される状態。男共には嘲笑されるし、これほど酷い仕打ちもない。おまけに家は避難民の宿舎になっている始末。
 失意のどん底にいる夫に、レナートは、手紙を投げる。「彼女はあなたの事だけを愛していました……」
 
 恥ずかしいことに、観た直後は、この手紙の意味、力、というものが判らなかった。センチメンタルな慰めでしかない、と思ったから。過去はもう戻ってこないし、やり直す事も出来ない。多少の慰めにはなっても、だからどうなるというのだ。
 というのは、実に浅はかな、なにも判っていない者の感想でしたね。
 夫は夜汽車に乗る。すべてに絶望した彼は、妻もいない悪意に満ちたこの街を棄ててどこかに行くんだろうと思った。
 しかし。
 輝くべきラスト・シークエンス。別にファンファーレも鳴らないし華麗な事はないのだが、これほど力強いラストがあるだろうか。
 夫は妻を探し出し(きっとどこかの街で娼婦になっていたのだろう)、彼女の愛を信じ、許すもなにも戦争がすべてをめちゃくちゃにしたんだから、これはもう天災と思うしかない。ヴィヴィアン・リーの「哀愁」のような展開だけど、あっちはヴィヴィアン・リーが自殺してしまう。しかし、こっちはそうではない。もう絶対離さないというように夫にしっかりと寄り添って、まっすぐ歩いてくる。あれほど憎悪に晒されたこの街に。
 実に崇高な、気高いワンショット。
 そしてもっと感動することに、主婦・マレーナに戻った彼女が、街の露天マーケットに行く。相変わらず、「よく帰ってこれたわね」という陰口にさらされるが、一言「ボンジョルノ」と言ったとたんに、形勢は変わる。マーケットのオバハンは無理やり彼女に古着を押しつけて「お代は今度でいいよ!」と言い、人々も口々に挨拶してくる。
 象徴的なシーン。マレーナがあまりにも無口で挨拶もしないから、みんな他者として拒絶してきたけど、少しでも心を開けば、あけっぴろげで情に脆いシチリアの女同士、今までの事がなかったように仲良くなれる(かもしれない)。女たちも、今まで苛めすぎたと内心忸怩たる思いもあったのかもしれない。映画の冒頭で、悪ガキたちが凸レンズでアリを焼き殺して罪悪感に駆られるシーンがあったが、あれがある意味が、ここにある。
 手提げにいっぱいのモノを貰い、帰って行くマレーナはその手提げからオレンジをこぼしてしまう。
 映画の始めからずーっと彼女を見つめつづけている(たしかにウォッチャーだ)レナートは飛んでいってオレンジを拾ってやる。
 彼は彼女の事で心を痛めたけれど、彼女は彼の事を知らないようだ(どこかで逢ったような……という表情を一瞬するが)。それがまた、切ない。彼女にとって思い出したくもないであろう場所でお客になった、とは言えないではないか。戦争中アンタの世話になったと言ってくる男もいるだろうが、それは醜いおやじだ。
 ナレーションにあるように、彼は、オレンジをかつての女神である彼女に手渡して、自転車で走り去る。まさに、自分の少年時代に決別するかのように。
 
 画面に出てくるものがすべて論理的に意味をもって、かっちりと組み立てられている。その精密さにため息が出る。しかも画面は流麗で、流れるような移動、クレーンの積み重ねが夢のようなほんわり感を高める。実に丁寧なカットの積み重ね。
 そして、その画面の動きにぴったり寄り添うようなモリコーネの甘く切なく美しい音楽!
 テクニックはもう、なにも言う事はない。
 モニカ・ベルッチは、この役はこの人しかいないと思わせる存在感だし、レナートがこれまた自然でうまい。彼のお父さんも愛すべき存在で、素晴らしい。
 
 あんまり映画に淫するのもナニだなあと思うし、一生船から降りなかったピアニストってのもナニだなあと思うけれど、この作品は、まったく文句ナシ。完璧。パンフに書いてある監督の言葉を見ると、涙が滲む。
 
 この作品は、抑制された表現ゆえに感動が深まる。抑制されているからゆえに、省かれたり排除された要素も多いと思う。
 その、もっとほかの可能性を考えると、この作品をモチーフにすれば、いろんなヴァリエーションが生まれる。戦争という事を抜いても成立するお話が幾つか思い浮かぶ。感動して観賞しながら、一方では「こういう話も出来るな」と思っていた。こっちも作り手ですからな。