OUT
監督:平山秀幸
20世紀フォックス映画配給。日本映画にあのサーチライトとアルフレッド・ニューマンのファンファーレがつくとは思わなかった。私事だが、「史上最大の作戦」「ミクロの決死圏」「猿の惑星」「パットン大戦車軍団」「ポセイドン・アドベンチャー」などの超弩級フォックス映画で映画の醍醐味を知った俺は、いつの日かこのマークのついた映画を監督してみたいという夢を持った。でもそれはアメリカ映画を撮らないと果たせぬのだから諦めたのだが……こういう形で実現してしまうとは。(大昔、バンツマの映画をユニヴァーサルが配給した事はあったけど)
ま、それはそれとして。
原作は読んでいないし、好評だったテレビドラマ版もごく一部しか見ていない。なので、純粋に、この作品のみを論じたい。
「出口のない閉塞感で発狂しそうなほどの世界も、意外な事であっけなく風穴が開く」「一人じゃ無理でも、数人の団結と友情があれば……」
というのが、この作品のコンセプトのような気がする。実際、脱出口が無くて絶望的だと思えた日々から、実は、思いがけず逃れられたのだ。そういう爽快感を中心に、映画は疾走していく。
バカラ狂の暴力夫(生きている資格なんかない)を思わず殺してしまう山本弥生。リストラにあってこそこそ現実から逃げている夫と接触を完全に拒絶している息子を抱えて一人働く香取雅子。夢も希望もない日々を忘れるためかブランド・ショッピングに狂う城之内邦子。亡き夫の母親の介護に明け暮れる吾妻ヨシエ。この4人にそれぞれ芸達者を配したキャスティングがまず成功している。特に、室井滋。彼女のガラにぴったりハマった結果、この作品のドタバタ一歩手前といってもいい笑いとテンポの良さは、室井のリードによるところが大きい。バカで思慮が足りずみんなの足を引っ張ってしまいながらもジコチューで行こうとする迷惑な女を実に好演している。役自体も面白くて一番の儲け役だったのだが、室井が演じる事で、役のニュアンスがより深まった。解体現場を目撃して、ゆっくりとその意味を理解していく絶妙な表情が素晴らしい。リアルだし、おかしくてたまらない。
事件の発端を作るDVに犠牲になる若妻を演じた西田尚美も、うまい。腹が立ってくるほど呑気で無責任な「殺人者」。
一方、上記の2名に人生をかき回される「真面目組」の雅子は、A型長女タイプの典型で、すべてをきちんとしておきたい性格。しかも有能だから、ダメ亭主にはすっかり煙たがられ(クビになって再就職もままならない時に、毎日「これからどうするの」と責め立てられ問いつめられたら逃げたくもなるか)、息子にはウザがられて完全に拒絶されている。亭主や息子の言い分もあるだろうが、ここは雅子側から描いているので、彼女一人が頑張ってこの家を切り盛りしてるのに男どもは揃ってダメばかり、という印象を短いエピソードで植え付ける事に成功している。この状態は、雅子ならずとも地団駄を踏みたくなる。きっとこの一家の家計は、雅子のパートでなんとかやりくりしているんだろうと思うと、気の毒になる。この描写で、この役は成功した。映画は短時間でキャラクターを確立させねばならないから、このくらいの交通整理をしなければならない。で、原田美枝子がますます美しくなって(原作者にとても似ていると思ったが)登場する。若いときより数倍魅力的だ。
老人介護で人生のいい時期の最期を終えてしまうのかという焦りを奥に秘めたヨシエは、この4人の中で一番まともで常識人だ。そして人生経験豊富だからちょっとの事では動じない。その貫禄を倍賞美津子が、さすがにうまく出している。
バブルの時代が、男の華だった。絶頂期だった。巨額の金を動かし、ニッポンの男は世界に冠たる存在だったのだ。で、そのお零れに預かり、または便乗し利用していたのが女だったのだ。マネー戦士をセックスで休息させるような……。
しかし、世は移り変わり、バブルが弾けて以降、男はすっかり元気を失い去勢されたも同然。そうなるとねばり強く生命力に溢れた女が強くなる。まだバブルの余韻があった88年当時でも、ヨーロッパを一人旅している女はどん欲で活動的でバイタリティに溢れていたが、世の中がこうなると、女が余計に光り輝く。この作品でも、出てくる男は全員、敗残者ばかりだ。まあ、男がダメだから、しなくてもいい苦労を女が引き受けているのだが。
で、映画は、ともすれば真っ暗になりそうなお話を、室井滋の調子良さと西田尚美の無責任さが明るくして、コメディ寸前だ。
これほどグロテスクなものはないはずの死体解体シーンも、ディティールを細かく描く事で、どこか滑稽に見えてくる。水着に東京都指定ゴミ袋とシャワーキャップをまとった姿もそうだし、「あんた20個持っていってよ」「嫌よそんなの」「じゃあ17個でいい」というリアルな会話も、あまりに即物的で現実的だから笑ってしまう。この計算は、脚本と演出の大きな勝利だろう。いくらでも悲惨隠惨なモノに出来たのに、それを避けた平山監督は、とても優しい心の持ち主なのだろう。
この死体解体シーンの成功が、全体のトーンを決めた。救いようのない絶望的なお話が、どこか希望の見いだせる「生きる力が沸いてくる」物語になってしまうのだから。
その花を添えるのが、町金融の十文字。本当はどうなのか知らないが、町金融と言えば裏でヤクザと繋がっているというイメージがある。が、香川照之は、誠実でまっとうな男として演じている。ヤクザといってもインテリ・ヤクザで、インテリだからこそその教養が邪魔してトコトン悪になれず、失敗してしまう。テレビ版では哀川翔がVシネのイメージのままに登場してコワモテというか不気味に演じていたが、香川照之はひたすら真面目に演じる。だから、圧倒的暴力の権化である佐竹にあっけなくやられて敗北してしまうのが哀しい。サラ金に頼って金を返せないバカ女ばかりを相手にしている中で、雅子のように「出来る女」と出逢うと、その印象は極めて鮮烈で、一瞬で恋してしまうのも判る。歯応えのある女が颯爽と出現して、公私ともにコンビを組む事を夢見て熱くなる心の動きがよく判るのだ。
4人の女たちが、思いがけない方法で出口無しの苦しい日々から脱出出来そうになったのに、それを阻むのが、闇カジノの経営者で前科者の佐竹。この男が4人と1人の夢を叩きつぶす。
この作品は殆ど欠点がないと思うのだが、キーになるはずの人物・佐竹が、脚本や演出の想定に反して、怖くない。それが唯一の欠点か。
コメディアンが突然、猛烈な悪を演じると、とてつもなく怖いのだが、今回の間寛平は、残念ながら、怖くない。無表情で十文字を痛めつけるのは怖いし、ヨシエに何度も刺されても表情が変わらないのは凄く怖いのだが、この役はもっと怖いはずだ。なんせ4人の日常にはけっして存在しない、完全に黒い世界の人間なのだから。テレビ版では柄本明が演じていて、あの人は日頃から不気味なキャラクター(善人を演じていても、どこか虚無を感じる)だから効くのだが、間寛平の場合は、もっと工夫が必要だったのではないか。印象的な出番をもっと増やすとか、関西弁を喋らせるのなら、もっと怖い関西弁を言葉少なに口にさせるとか……。ヨシエの家をバットで破壊するシーンは怖いし不快なのだが、間寛平の持ち役の「止まると死ぬじいさん」がステッキを振り回している映像がチラチラして困った。
ここで原作に触れるが、聞くところでは、この佐竹、原作ではもっと恐ろしい事をやって女たちを震え上がらせるらしい。邦子を殺してその死体を解体させるとか。これは実に怖い。テレビ版では雅子の夫も惨殺するらしいが、これもかなり怖い。そういう事をしないと、間版の佐竹は怖くない。……ヨシエの家の中でバットの先で空き缶を転がしながら待っている、というのは怖いのだが、彼女たちの想像を絶する暴力の世界の人間である、ということを、もっと押さえていたら、もっともっと怖くなったろう。十文字の右手首がドアにぶら下がってる、というのだけじゃあ……。
映画への不満と言えば、メイン・タイトルの出し方。この作品では、ああいうふうにおどろおどろしく「OUT」と出さず、そっけなくさっと出してしまった方が映画全体のトーンに合うと思った。
それと、音楽。オーケストラの重くて暗い悲劇的な音楽が流れるが、これは映画のトーンにそぐわない。ここは、妙に明るく軽快なコンボ・ジャズが対位法という意味でも映画の明るいトーン的にも合ったと思う。閉塞感いっぱいの日常の描写に流れるあっけらかんと明るいジャズ。それが4人の女たちの虚しさをより強調させると思うのだが。ましてやラストが「明日に向かって撃て」的な余韻を残したんだから、余計に。
この作品は「元気が出る映画」として作られたとおぼしい。そうだとすれば、大成功だ。原作をここまで大胆にアダプテーションしたのは成功した。
小説と映画は違うから、小説に忠実に映画化したら、もうユメもキボーも失って見終わった後、世を儚んでしまうかもしれないし。
現実がフィクションを追い抜いてしまったことも大きい。主婦が大量殺人をする時代なのだ。
原作のシビアな世界に浸りたければ、原作を読めばいい。テレビ版を見るのもいいかもしれない。この作品は、原作にインスパイアされた、別のもの、と言ってもいいのかもしれない。あのラストを見ると、雅子と邦子がアラスカで喧嘩している光景が見えてきそうだもの。