辛辣。身も蓋もない。実に『イギリス』なお芝居。
翻訳劇特有のクサさが抜けきっていないが、それはマイナスにはならない。事実、だんだん気にならなくなった。訳を、もっと熟れたものにすれば抵抗感はなくなるだろう。
宣伝では『タラティーノやオリバー・ストーンを思わせる映画監督』ということだったが、この図式化というかカリカチュアでは、この二人の監督はあてはまらない、と思った。タランティーノもオリバー・ストーンも、暴力を扱った映画は撮っているが、暴力に付いての考え方は、「商売になる、映画的に効果的だ」というような直流な見方はしていないはずだ。パンフを読むと作者のベン・エルトンは「ナチュラル・ボーン・キラーズ」を嫌っていて、そこからこのストーリーのインスピレーションを得たようだが、かと言って、オリバー・ストーンの『思想』を分析し批判しているわけではない。タランティーノに付いては余計にそうだ。
この映画監督ブルースは、むしろこれまでのハリウッド全盛期の職人監督のカリカチュアではないかと思わせる。彼のセックス感、暴力感を知るに付け、そう思わざるをえない。
この芝居のストーリーやテーマ、面白くなる要素を考えると、そういう単純明快な監督像の方が便利なのだ。判り安いし、後の展開がラクだ。
シニカルな笑いが得意な作家が、このストーリーを思いつく過程は、なるほど、と思わせる。僕がこの芝居を見たいと思ったのも、その着想が面白いと思ったからだ。
基本的なアイディアは、黒沢の「天国と地獄」みたいなものだ。つまり、他人の子供を誘拐しても、富豪に身代金を要求出来るという、巧妙なロジックのすり替え。この芝居では、連続衝動殺人を犯しているミッキーとマロリーそっくりな二人組の悪党が、罪を逃れるために「俺たちが犯罪に走ったのは、あの映画のせいだ。あの映画の影響を受けて俺たちはこうなったのだ」と主張しようとする。
テレビや映画の『悪影響』というものは、今に始まった事ではないのは周知の事実。あのボニー&クライドも自分たちの事が新聞に載ってワルノリし、もっと悪いことをした、という事もある。シリアル・キラーたちも、先人の影響や映画の影響を受けてより凶悪になったフシもある。パンフにもあったが、昨今のバタフライナイフ事件の続出で、掴まったバカモノが「テレビの影響だ」と誰の入れ知恵か判らないが主張したという。
だから、お芝居としては、それだけでは成立しない。エルトンはより意地悪く、そういう風潮を助長するのは大衆であると断定。その責任を客席に向かって告発する。極めてシニカルに。
テレビ中継させて「これ以上のエスカレーションを望まなければテレビを切れ。お前らが見続けるなら、オレはこいつらを殺す」と言い、視聴率メーター(ってこういう形状をしているのか?)を見て「視聴率が上がった!」と叫んで発砲するのだ。
終幕の「後日談」は極めて辛辣で、アメリカ社会をメッタ斬りしている感じだ。関係者がお互いの責任を告発して訴訟が乱れ飛び、「結局誰も責任を取りませんでした」。
取れないのである。たぶん、一番悪いのは、無責任に愉しんでしまう『一般大衆』なのだから。
というわけで、エルトンの鋭い視線はまったくの正解なのだが、ここまで真っ向から「お前ら自身が悪いねんで。暴力はイヤだ殺人は嫌だと他人事みたいに言うとるけど、こういう世の中にしたんはお前ら自身やねんで」と言われると、一般大衆は大いにたじろいでしまう。
朝日新聞の劇評担当者は、自分には関係のない事、と鈍感にも割り切って愉しんだのかもしれないが、多少とも『心ある』観客は、責任を突きつけられる、という宿題を背負って劇場を後にせざるをえない。
『暴力』という正解を見つけ出せない問題を考えさせるには、一番いい手法だが、エンターテインメントとして考えた場合、どうなのか。
ロンドンの舞台では、どういう処理をしているのだろう。イギリス人の感性と日本人の感性は違うし、同じことをやり同じ台詞を喋っても、これが白人キャストで英語で喋り字幕が出ると、我々日本人観客は、完全にエンターテインメントとして割り切って楽しめたと思う。無責任に。スクリーンが現実との遮断装置になるのだ。
しかし、日本人キャストで日本語で上演されると、コトはリアルになる。拳銃を使った事件こそまだ少ないが、刃物を使った事件は日本でも続発しているのだから。
身近な題材で、身近な幸福、というようなものを描くのが今の小演劇の潮流ではないかと思う。三谷幸喜もその流れからははみ出せてはいない。が、エルトンは、ドタバタの手法を使い、大きな問題を扱う事に成功した。その処理に付いては、日本の観客に対する場合、成功したかは別にして。
こういう辛辣で鋭い芝居を観てしまうと、小市民的な日本の芝居に食い足りなさを感じてしまうのですなあ。
連続殺人犯・ウェインは、登場する人物の中で最も頭がいい、と思わせる。天才級の論理性を持ち、いろんな事も知っている。世間の『常識』を根底から覆すコトの出来る頭脳を持っているのだ。またそれを言語化出来る能力もある。日本では、このレベルの人物は『優秀この上ない』ことになる。勝村政信の熱演はその印象をより強くする。彼の演技は極めて優れていた。こういうシリアルキラーが出現したら大変な事になるだろう、と思う。彼の持ち味である柔らかなユーモアと優しい部分がうまく作用していて、このキャスティングは成功だ。
小島聖のスカウトも、正直言って彼女がここまで達者に演じきれるとは思っていなかったので、大いに感心したし、彼女の実力を正当に評価したいと思う。
西岡徳馬。この人は芸達者で、うまいし、この年齢の俳優の中ではとびきりの人だと思う。コワモテも出来るしコメディも出来る。それが不自然ではない。で、この役・ブルースも、多彩なテクニックを駆使して、じつにうまく演じきっている。この人あってのこの舞台であろう。このハイテンションを開幕から終幕まで維持するのは大変な事だと思う。また、この人が演じたから「俺の映画がどんな影響をもたらしたかについて、責任は取れないだろうがっ!」という『作り手』の主張も説得力が出る。
ブルースの『悪妻』・久世星佳も、そのアクの強さで、この三人に拮抗して大いに存在感を強調している。
その他のキャストは、この四人の強烈な存在感に負けてしまって、少々影が薄い。村上里佳子はこの役のニュアンス(ヌードが売り物の肉体派から『女優』にステップアップしようとしているけれど、周囲はそう見てくれない)をうまく演じていたと思うけれど、戯曲のせいか演出のせいか、後半、埋没してしまった。
テレビ・クルーの二人は、本来、テレビというメディアの無責任さを代表して体現しなければいけない役回りのはずだが、セリフが沈んでしまい、存在も完全に負けてしまってただの脇役になってしまっている。これが惜しい。この芝居の展開上、後半1/4は彼らがもっと活躍して、テレビメディアないしテレビ報道の在り方にも作者の刃が向いているのだから、こういう『現場の下働き』程度の存在ではいけないはずなのだ。特に、女性ディレクターはもっともっとアクの強さを発揮して、テレビ報道の論理を主張し展開し、この芝居の方法論として論理的に考えると、犯人たちの行動をエスカレーションさせなければいけないはずだ。これは戯曲の弱さと演出の弱さなのかもしれないが。
この芝居のメインプロットを色々考えると、幾つかのやり方が考えられる。
まず、「最初はスラプスティックで大いに笑いを取り、後半、だんだんとブラックな恐さを盛り上げて、ぞっとさせる」という方法だ。筒井康隆が好んで用いて優れた短編にしているパターンだが。こうすれば、見終ったあとの後味の悪さは凄まじく、劇場から帰る観客の足どりは物凄く重くなるに違いない。
もしくは、「すべてをパロディ化して笑い飛ばし、観客も最後の最後までげらげら笑い続け、家に帰って、あれ?と思ってしまう」というパターン。これにするには後半に手を加えないといけない。まず、テレビクルーの存在を増し、水着で出てきた女性ディレクターをもっと大きな役にしなければならないし、クルーもたった二人では弱いからもっと大人数にして『メディアの論理』がメインの人物たちを圧倒しなければならないだろう。その為には、舞台での芝居では限界があるかもしれない。映画にすれば可能だろうが。
もしくは、ブルースが、もっと直流の暴力礼賛トンデモ監督、という設定にして、その作品の申し子であり、作中人物が体現化したようなウェインとスカウトという二人組と対峙する、というもっとシンプルでもっと論理が剥き出しになる対話劇にする、という方法もある。
というように、いろんな料理の仕方を考えさせる、極めて示唆に富んだ作品で、エルトンの着想の鋭さに感心する。僕はこういう系列の作品が大好きだから、自分なりに咀嚼してみたい。