ラヂオの時間

監督:三谷幸喜

 三谷幸喜、堂々たる監督デビュー作である。90年代は三谷の時代だと言っても過言ではないだろう。純粋に、彼のファンとして、彼と同時期に生きている幸福を思わざるをえない。

 劇作家として、テレビの脚本家としての彼の大ファンであるから、どうしても点は甘い。どうにも、身内のような気がして、客観的に見られないのだ。あの名作舞台「東京サンシャインボーイズの『罠』」の力も大きい。西村雅彦がどんどんスター街道を驀進しても、三谷幸喜の活躍の場が広がっても、この場合は嫉妬すら起きない(年齢の近い才能に対しては嫉妬するのだよ、僕は)。

 映画を見るということは今やイベントと化した。わざわざ映画館に足を運び金を払って観る。その時、スクリーンに映し出されるものが貧相であると、観客の心は冷えきってしまう。この映画を選択したことに後悔し、こんなものに時間を浪費してしまった事に後悔し、ソレを決めた自分に腹が立って来る。いや、こういうことは、映画が大衆娯楽の王者だった頃も同じだったろう。

 貧相な映画はいけない。罪悪ですらある。

 貧相な映画とは、金がかかっていない事が丸出しになっているモノの事であり、スタッフの才能の無さが無残にも露呈してしまったモノの事である。才能のあるなしの判断は時に難しいが、映画の場合、映像を見る訳であるから、画面の貧相さは即座に判る。撮り方がザツであったり、画面がスカスカであったり。

 日本映画は、金も時間もない事が多いから、そういう画面を見せられることも多い。これは、ぜいたくな洋画(なんのことはない、異国の風物が写っているからザツさやスカスカさがよく判らないだけなのだが)を見慣れた観客には許せない事である。金の使い方は難しい。どんなに予算があっても、金の使い方が判らなければ、あの「キャッツ・アイ」のようにスカスカで寒い映画になる。もともと金がなければ尚更だ。

 しかし、頭のいい才能ある監督・スタッフは、限られた資源(時間を含む)を最大限に活用して実にリッチな世界をスクリーンの中に構築する。市川崑のATG一千万映画「股旅」など、あんな予算で撮られた事がどうしても信じられないほどリッチな絵づくりに成功している。タランティーノの諸作もしかり。才能ある監督は、金がない時間がない事を失敗の理由にしない。

 で、「ラヂオの時間」である。この作品は、その意味でも、大成功作だ。まず、ラジオ弁天のスタジオのセットが実にリッチに出来ている。この作品のメイン舞台がこのスタジオなのだから、このセットが貧相ではお話にならない。それが、実にセンスよくカッコよく、リアルなものになっている。「大統領の陰謀」のワシントン・ポスト編集局がセットだと知って驚いたり、「細雪」の冒頭の料亭(遠景に山が見えていたりする)がセットだと知って信じられなかったりした、あの映画ならではの魔法が使われている。映画はまず、こうでなくっちゃいけない。

 最近の監督は、セットで映画を撮らせてもらえないから、セットの使い方が下手な人が増えてきた印象がある(と書くと僕が生きる日本映画史のようなジジイみたいだが)。しかし、三谷監督は、リッチなセットを使いきっている。

 そして、実に個性的な顔ぶれ。最近の『キャスティングの魔術師』は伊丹十三だが、それに匹敵する。お久しぶりの布施明の、あの無責任な笑顔。これが引き出せただけでもこのキャスティングは大成功である。監督自身が「この世代ではもっともうまい(人間の二面性を演じきれる)役者なのに怪優扱いされている」と惜しむ西村雅彦を、舞台以外ではもっとも使いこなし、その才能を引き出しきっている。長年のコンビだけの事はある。

 鈴木京香(この人は「王様のレストラン」以降良くなったのではなかったか)も、唐沢寿明もモロ師岡も藤村俊二も井上順も素晴らしい。

 で、ここで、ちょっとマイナス部分を。映画館のせいか、冒頭しばらくはセリフがよく聞き取れず、音自体が『うるさい』感じがした。もしかしてこれは演出なのかもしれないが、なんかザラザラした録音で印象がよくない。

 それに影響されてか、映画自体もスタートしばらくはエンジンのかかりがうまくない。もっと簡単明瞭に状況説明をしてしまえなかったのだろうか。舞台版では実に簡潔に出来ていたのに。

 お話は、「ラヂオの時間」と「ショウ・マスト・ゴー・オン」の合体。生放送のドラマにしたことで、「なにがあっても続けなければならない」という軸が生まれたが、このテイストは「ショウ・マスト……」のものだ。従って、西村さん(役者をさん付けするのは希有な事だが)の役どころはスーパーマン的な舞台監督の部分が合体しているとみた。この工夫はうまい。

 ただ、時間経過が、最初の頃はけっこうシビアに描写されているのに、後半はルーズになっている。この生ドラマには時間枠はないのか?という感じさえした。CMだって5分も10分も流せないのだし、『場繋ぎ』『タイムリミット』のサスペンスはもっと出せたに違いない。『これ以上穴埋めで放送するものはない!』というギリギリの状況の中でドタバタが繰り広げられるべきだ。このへんの感覚が薄かったのは残念。これがあれば、『細川俊之連れ戻し』にもサスペンスが加わり、ラストをどうまとめるのだ!というスリルも出たのではないかと思うのだが……。あまりにめちゃくちゃな放送なので中断させようという動きが出てきて、スタッフキャストがスタジオに立て籠ったり主調整室を乗っ取ったり、というネタの展開も出来たはずだが……。

 舞台版だと太田黒が何でも引き受けて実現不可能、というルーティーンギャグがあったのだが、映画版では擬音作りのためにあのキレイなスタジオがガラクタでいっぱいになる、というギャグも可能だったのではないか。たぶん賢明な三谷さんは、そういう事も考えた上で現行の表現を採ったのだろうと思うが。

 とはいえ、井上順のガラを生かした使い方は秀逸だし、モロ師岡のいかがわしさも捨てがたい。だけど……布施明の脳天気でなーんにも考えてないぼわーんとした笑顔には負けてしまう。ああいう表情を救い撮ったのは凄いのではないか。布施明といえば、ラストのクレジットタイトルに流れる彼の朗々とした歌。てっきり僕は、映画のテーマ曲として無難なラブソングを布施明に歌わせたのだと思い込んでいた。しかしその実体は……。この仕掛けは物凄い。ZAZチームやモンティ・パイソンのチームが、エンドクレジットまで遊んでギャグにしていたのに匹敵する。エンド・テーマがあんな曲だなんて。ちょっと聞いたら名曲風なのに(^_^;)。

 お遊びといえば、西村さんと奥貫薫(可愛いね、この子)の大ラブシーン。突如スローモーションになるのは凄くおかしかったのだが、このあたり、ただの廊下にしないで『どういうわけか・花が咲き乱れていたり』『どういうわけか・幻想的なイルミネーションが輝いていたり』というアメリカ映画でよくあるナンセンスなパターンを使ってほしかった。あの廊下だけはちょっと寒かった。

 と、書いたけれど、この作品の完成度は相当なものだし、日本のコメディの地位向上にも必ずや役立つと思う。願わくば、是非この映画がヒットして、伊丹十三のようにどんどん映画が作れる環境を三谷さんが手にしてほしい。

 三谷さんなら絶対に面白い映画をコンスタントに作れる。アメリカ映画のリズムが好きでビリー・ワイルダーが好きなのなら、舞台の映画化を離れてオリジナル映画作品を作って、映画的空間を撮りきってほしいものだと思う。