タイタニック

監督:ジェイムズ・キャメロン

 第1期ロードショーが終わりそうになって、やっと駆け込みで見た。が、上映時間が3時間もあったの?と思わせる凄い出来で、圧倒された。

 大傑作である。アカデミー賞は、順当であった。この作品を滑ったの転んだのと貶す者はよっぽど根性の腐ったヤツに違いない、と確信してしまうほどの完璧な出来であって、僕には批判のひの字も浮かんでこない。

 舌を巻くとはこの事である。

 批評家と批評家モドキの言説には辟易するが、まあそれは僕個人の感想とはまったく関係がないから飛ばそう。

 

 僕は以前、「洞爺丸はなぜ沈んだか」という上前淳一郎の優れたノンフィクションを読んで、映画にしたいと熱望した事がある。市川崑が「戦艦大和の最期」を超リアリズムで映画化したかった、というのと同じ気持ちで。(市川氏はテレビドラマで実現したが、製作費の制約で『超リアリズム』には程遠く、監督の意図は果たせなかったろう)

 かねがね僕は、パニック映画や戦争映画の構成に腹を立てていた。戦争映画も広義のパニック映画として話を進めるが、『状況』を理解し変化させていくのは、「上層部・中枢部」である。兵士や一般市民や乗客というのは、ただただ翻弄させる存在である。ならば、話の最も面白くてサスペンスフルな部分は、市井の人々を描くのではなく、状況にたいしてヘゲモニーを握れる人物が動く部分である。そう思っていたし、今もそう思わないではない。

 というのも、一時の「二百三高地」などの東映戦争映画のかったるさに辟易していたからだ。たいして面白くもない農民や町民のあれこれをとってつけたステレオタイプな表現・ネタで描いたからといって、彼らが死んでいくシーンで悲しくなるわけではない。

 アメリカ映画はその点、うまく処理しようとはしているけれど、僕の好きな「大空港」にしても、そういう部分はメロドラマであって、『状況』だけを描いていると殺伐としてくる対策としての添え物扱いだ。日本映画はこういうのがヘタクソだから、「新幹線大爆破」にしても余計な部分(健さんがいかにイイヒトか、そのイイヒトがどうしてこういう犯罪を犯さざるをえなかったか、という言い訳の部分)にいたずらに時間を使っていて、映画全体がタルくなっていた。

 だから、僕は、「洞爺丸」では、乗客たちが織り成すメロドラマはカットして、彼らは状況に翻弄されて死んでいく気の毒な人たち、と割り切って、話の本筋は、洞爺丸の船長・函館気象台の担当官・青森側の船の船長・青森気象台の担当官、の4人に話を絞って「刻々と変わっていく気象」「船長の決断」を軸に、『真昼の決闘』のようなタッチで描いていくのがパニック映画の本道ではないか、と思ったし、これは僕の持論である。当時、ある高名なプロデューサーにこの話をした所「そりゃそうだけど、実際問題、観客が感情移入出来るキャラクターを用意しておかないと難しいよそれ」と言われてしまったのだった。

 が、僕の持論が既に実現している例として「日本のいちばん長い日」という大傑作がある。この作品は、主に日本の最高首脳の動きを追って終戦までの24時間を描ききったソリッドでタイトな超快作であるが、こういう展開の作品は、日本はもちろん、アメリカ映画でも例は少ない。

 

 で、この「タイタニック」である。

 あたしゃ、唸りましたね。達人がぴったり填まったキャストを使えば、『旧来』のパターン(すなわち僕が批判したパターン)は俄然光を放ち、途方もない感動をもたらすのだ。

 いや。この作品は、壮大なラブストーリーである。タイタニックは重要ではあるが、その舞台にすぎない。

 タイタニックを舞台にしたラブストーリーは映画だけでもたくさんあるが、その中でこの作品が抜きんでた理由は、

 

 ・老婆の回想

 ・一途な若い二人のどん詰まりのこのうえなく切ない恋愛

 

 の2点があったからだろう。

 

 『老婆の回想』については、大林宜彦の「さびしんぼう」という佳作があって、(老婆じゃないけど)うるさい母親に実はステキな少女時代があって恋愛があったのだ、というのが娘に判って、親の青春に興味のなかった若い観客は妙に感動し、親の世代の観客も、自分の若かりし頃を思い出して感傷的になり、これまた感動するという構造があった。僕はこの作品に大いに感動した。

 「タイタニック」の老婆も、穏やかな老後を過ごしていて、「うちのおばあちゃんにそんなドラマチックな大恋愛・超悲恋があって、過酷な運命を乗り越えてきたとは」と周囲は思い、本人も、長い年月、誰にも言わず自分の胸の奥に秘め続けてきた熱い熱い思いを初めて語るからこそ、その思いの大切さと熱さ、かけがえのなさが胸に染みるのだ。

 この作品は、まったくルーティーンな『身分を越えた大恋愛』『大事件で実る事なく悲恋に終わった大恋愛』という、時代がかった、悪く言えばアナクロな設定とお話を、現在の感覚に耐えうる大感動なお話にし得たのだ。

 ラスト、老婆のイルージョンで、『タイタニックの死んでいったみんなに拍手で迎えられながら、最愛のジャックと再会して熱い抱擁をする』シーンは、老婆のイルージョンだからこそ、84年を経た尊い思いだからこそ、胸を打つ。このシーンに、こういう設定に笑うものは、大恋愛をしてみんさい、と言いたくなる。

 

 『一途な若い二人のどん詰まりの切ない恋愛』については、これは、キャストの力が大きい。僕は男だから、ディカプリオよりも、ケイト・ウィンスレットの魅力にほれぼれした。彼女は、とても説得力のあるキャスティングだ。この役は、コスチューム・プレイの多かった彼女以外に考えられない。

 映画の開幕そうそうは、「金持ち娘のワガママ」と思えないこともない彼女の気持ちも、だんだんに(カタキ役がこれまたうまいからだが)理解出来て、切なさが込み上げて来る。彼女の凛とした表情が、また、いい。パニック・シーンで水の中をにげまどうストロボカットで見た彼女の凛とした横顔の魅力的な事!

 女性ファンなら、ディカプリオが海の中に消えていくあのカットに涙するだろう(男の僕も涙しましたからね)。

 

 この作品にはリピーターが多くて、それが興行成績を押し上げた理由らしいが、ここまで古典的な『障害ある恋愛、それは悲恋に終わる』を正面から正々堂々と描ききったものは最近、ない。作れないからだ。出来るとしたらシェイクスピアものか、時代物だろう。キャメロンが『ご存じタイタニック』を映画にするのに、軸にしたストーリーがこの大悲恋、というのは大正解だった。

 他の乗客にも様々なドラマはあったろう。それをグランド・ホテル形式でまんべんなく描くのではなく、この二人にエピソードを絞りこんだのは大正解だった。

 そして、僕の持論の描き方では、男性映画としてはそこそこ成功したかもしれないが、あまりに直球過ぎて膨らみに欠け、感動を呼ぶものになったかどうか。

 

 というわけで、この作品でキャメロンがとった方法論は、これしかない、と言うものであったと思う。文句があるならお前作ってみろ、である。僕は、大脱帽である。

 

 キャメロンの演出は、大づかみではあるがドラマ(感情の襞)の撮れる監督だなあ、と大いに感心した。男女の事になると、からっきしダメで、どう見ても中学生の恋愛ゴッコしか撮れないようなスピルバーグとは違うところだ。

 キャメラがやたら大移動してタイタニックの巨大さを強調するカットが何度も出てくるが、必要な場所に登場するから気にはならない。大事なドラマ部分では不要な移動は一切していないから、キャメロンは『判っている』のだ。

 

 巨大なフルスケールのセットを作ったのも大正解。「スピード2」みたいなやわな結果にならず、スペクタクルが単なる見世物ではなくドラマと有機的に結合しているから、CGだけでは得られない『実物大の迫力』が各所にふんだんに溢れ、それがリアリティを増し、映画に深みを与えている。

 

 もっと言えば、キャメロンは極めて戦略的だったのかもしれない。

 観客は、タイタニックの故事を知っているし、沈没のスペクタクルを見に来る。その時、やたら複雑な『新しいドラマ』を入れるのは逆効果だ。話を追う努力が必要だとスペクタクルの快楽を阻害する(客観的に見てしまうから)し、スペクタクルの快楽を求めてきた観客にはお話が邪魔になる。

 しかし『ご存じ悲恋もの』であれば、プロットはよく判っているパターンだから、観客はディティールを追えばいいし、ディティールを追うということは、いつのまにか二人に感情移入してスペクタクルを『自分の身になって、本心から味わえる』という効果を産む。

 ましてや、キャメロン自身が、こういうお話が大好きなのだとしたら、作家側の嗜好と作品が要求するスタイルが完全に一致したわけで、これは、作品にとってこの上ない幸福な一致といえるだろう。

 

 今後、『タイタニックもの』だとこの作品の名前がまず第一番に挙がる事だろう。

 

 撮影中から悪口に悩まされ、公開直前には駄作失敗作の烙印を押され、製作費は高騰するわギャラは返上するわで、キャメロンとしてはひどい環境の中で製作したのではないかと思う。見る前から悪口を書いた評論家・評論家モドキには筆を折ってもらいたいし、その重圧を跳ね返して、歴史的興行成績をもたらし、アカデミー賞を大量受賞したキャメロンの精神力には感嘆するしかない。

 キャメロンは、すごい。