ヴィレッジ
監督:M・ナイト・シャマラン
(試写)
「オチの衝撃」がシャマラン映画の見どころになっているが、その意味(悪い意味)では、夢オチに匹敵する。
既に映画評では50年代のB級SF映画に同じオチがあるが、という指摘もされている。僕が知っている類似のオチでも3つある。
とはいえ、この作品は、オチがすべてを決するようなものではない。
映画は全てが謎に包まれている。とは言え、この村に住んでいる住民にとっては、これが「当たり前の世界」だ。「トゥルーマン・ショー」の主人公のように。「謎に包まれている」と思うのは、観客の視点だ。
描き方としては、もっと村民、特に、この村で生まれ育った二人の男女(ホアキン・フェニックスとブライス・ダラス・ハワード)に寄り添った視点を持てばどうなったろうか。
「へんだぞへんだぞ」という煽りが随所に入るのはシャマラン映画故の事だが、そういう邪心を捨てて、この『19世紀のアメリカ東部の農村』の生活にぴったり寄り添ったらどうだったろうか。
いや、寄り添ってはいるのだ。収穫の喜びとか、自然に触れる生活の喜びは過不足なく描かれている。
でも、『森』と『森に住む彼ら』の存在が実に意味あり気に冒頭からホラー気味に描かれる。そりゃそういう映画とはいえ、村があまりに美しく造形されているから、それをもっと見たくなるのだ。
開拓民が開いた村らしく、村の政治は大人達の合議制だ。その会議の席に、好奇心おう盛な若者が来る。「森の外に行って見たい。外の世界を見たい」。
僕ならば、黒澤明が「蜘蛛巣城」で描いた『バーナムの森』のように、怪物とかそういうモノを思わせず、ただ森の妖しい佇まいを丹念に撮っていくだろう。でもそれは、シャマラン的には地味過ぎるしショッキングでもないし、観客をミスリードさせられないから、採れないのだろうが。
村に起きる怪事件。そして、ふとした事件で主人公・ホアキン・フェニックスが瀕死の重傷を負う。「外の世界にある薬を使えば助かる」。
かくして彼に恋するブライス・ダラス・ハワードが『村長』格の父親に特別に許されて、森の向こうの町に出かける事になる。
この村の成立のお話は、たしかにアメリカならありえるなあと思わせるリアリティがある。現実に何ヵ所かこういう村(コミューン)もあるんじゃないか。アーミッシュの村があるんだし。
この村が今後どうなっていくのか。勇気に満ちた『勇者』の体験はやがて伝説になり、彼は英雄になるだろう。そして彼を救おうと決死の冒険をした彼女も、勇者伝説のヒロインになるだろう。
この物語は、いかようにも発展させる事が出来る。森の外で出会った男に惹かれるようになる少女の話も出来るだろうし、真実を知ってしまった彼女の物語も可能だ。
以上、ネタバレさせないまま書く事が出来た。見た直後は「なーんだ、こんなオチか」と思って、否定的なことばかり考えていたが、時間が経つと、この物語の底にある悲劇と、村民たちの勇気に感動を覚える。そして、村を一つ作ってしまい、その村をとても美しく、かつ生活感溢れる造形をした美術スタッフの仕事に大いなる敬意を払いたいし、その見事な撮影にも感動した。
ホアキン・フェニックスは、兄リバーが演じた「スタンド・バイ・ミー」の主人公に通じる凛とした勇者というか清く正しい若者を実に清々しく演じていたし、ブライス・ダラス・ハワードもこれまた凛としたヒロインを好演している。
で……シャマランじゃなきゃ、もっとリリカルで詩的な映画になったんじゃないかなあ、と思ったのであった。