ベニスで恋して
監督:シルヴィオ・ソルディーニ
お話としては新味はない。松竹新喜劇みたいなもので、古典的ともいえる話を実にオーソドックスにやっている。
ならば、ツマらないのかといえば、さにあらず。これが実に素晴らしい珠玉の一品になっている。思えば、人間の感情というものはいつの時代もさほど変わらない。『松竹新喜劇』という名称をマイナスの象徴のように使ったけれど、逆に言えば、いつの世にも変わらない不変のネタを、脚本の腕と藤山寛美の名演技でよい舞台にしていたのが『松竹新喜劇』だったのだ。
で、この作品である。家族で参加したバス・ツアーで、ドジな主婦ロザルバ(リーチャ・マリエッタ……これぞ熟女の魅力が溢れ、素晴らしい)がトイレにイヤリングを落として手間どっているうちにバスは発車してしまう。このロザルバのドジぶりはたしかにイライラさせられる(男には)から、この段階では短気で粗野なダンナを責める気にはならない。迎えに行くからそこを動くな、とも言ってるんだし。しかし、妻をロバのように扱うあの口調は、女房に長年そういうふうに対してきたんだね、ということが判る。とくに鮮やかな描写ではないけど、手堅く短く描いていく。
電話でガンガン言われるのにムカついた彼女(そりゃそうだ。どうして待ってくれなかったんだ、家族なのに)は、ヒッチハイクして自宅に戻ろうとする。ずっと家族と一緒に暮らしてきた彼女にとって、久々の、二十年ぶりくらいの(いや、初めての、かもしれない)一人旅。
二台めに乗ったクルマのオーナーは、ベネツィアに寄ってもいい、という。親戚が近くに住んでいるのに、行った事がなかった『憧れの街・ベネツィア』。(この一家はペスカーラに住んでいる。冒頭のバス・ツアーがローマへの旅だったとしたら、あまり旅行をしない家族らしい。ペスカーラはローマからずっと東に行ったアドリア海に面した都市だ)
イタリア人もヴェネツィアに憧れるんだなあ、と素朴に思った。イタリア人がそう思うならば、外国人においておや。
ヴェネツィアという街が持つ魔力は、パンフにある文章の如く、百万語を費やすよりも行ってみれば実感するものだ。百聞は一見にしかず。昼のサン・マルコ広場もいいが、夜になるとその魔力は倍増する。広場のあちこちで楽団が様々な音楽を奏で、大勢の人々が三々五々楽しそうに歩いている。あの光景は極めて鮮やかに記憶に残るはずだ。たぶん、一生の想い出になるだろう。祝祭都市壱千年の歴史はダテではない。
とはいえ、この作品には、『いわゆるヴェネツィア』は出て来ない。ワンカットだけ運河から見たサン・マルコ広場が出てくるが、後は裏露地や観光客が入り込まない『ディープなヴェネツィア』だ。街全体が観光地のようなこの街にも、生活の場としている住民が在り、日常生活があるはずだ。当然ながら。この狭い島に魅入られた者としては、そういう部分を知りたい。
ロザルバは、そういう部分に入り込んでしまう。観光客としてヴェネツィアに行くのは容易いが、生活者として住み着いてしまうのは難しいだろう。
で、この『生活の場としてのヴェネツィア』には、悪い人はいない。いや、この作品には悪人は登場しない。ダンナにしても自分勝手な男だが悪人ではないし、頑固な筋金入りのアナーキスト花屋も情に脆い善人だし、隣人となる美人エステシャンも気のいい娘だし、ダンナに雇われるミステリーマニアの配管工も子離れ出来ない母親を持つ善人だ。
その中で、イタリア古典文学を暗記してイタリア語を覚えたアイスランド人ウェイター(ブルーノ・ガンツ)が秀逸。もともと名優のガンツだが、この役の設定が泣かせるから、しみじみしてしまう。内気で夢みがちなアイスランド人という一般的イメージを上手く使って(誇張してるけど)、その彼が、灰色に近かった毎日に色彩を与えてくれたヒロインを唯一無二に思う心の動きを心憎いまでにうまく表現している。
ペスカーラの家庭を離れたロザルバは、母親の役目から解放され、妻の役目からの解放されて、『本来の自分』に戻る事が出来た。それは、ドジかもしれないが音楽を愛し思いやりのある優しい女性。そして彼女は、魅力的でもある。
これはヴェネツィアの魔法なのか、ロザルバがもたらした幸福なのか。
自殺しかけるほど思い詰めていたアイスランド人は思い直し、頑固な花屋の爺さんの店は華やかになり、にわか探偵の配管工はエスティシャンと恋人になり……みんな幸せになる。
映画としては、これではなんの締まりもない。オチのないほんわかドラマでしかない。問題は残っている。ペスカーラの家庭だ。これを放り出したままでは、ヒロインが唯一の悪人になってしまう。
彼女は「私のヴァカンスは終わった」と帰っていくが、それはそれで彼女はとても残酷な事をした事になる。やっと生きる喜びを見出せたアイスランド人を見捨てたことになるではないか。彼女が活けた花が一つ一つ散っていくのを見ながら酒を飲む彼の姿は笑いを誘うが、とても切ない。
彼女にしても、とくに自分がいなくても家の中はなんとかなっている事を知る。
そこに、アイスランド人が花をもって現れる……。
ありがちなプロットだし、破綻はないし、見る側を決して裏切らない予定調和の世界。が、その、まさしく『松竹新喜劇』的な世界だから、いいのだ。
昨今は『癒し』ブームで嫌になるほどだが、この作品もそういう意味ではとても癒される作品だ。
何の親身もないのに、イタリアでは大ヒットして評価も高く、日本人の僕が見ても珠玉の一品たりえるのは、役者が全員魅力的なのと、丹念な生活描写、そして、ドラマを盛り上げるための作為的な仕掛けをしなかったせいではないか。配管工の探偵という仕掛けはあるが、これはドラマを展開させる触媒であり、この作品のミソだ。脚本家としては、この人物の設定と、ヒロインにどうやって一人旅をさせ『忘れていた自分を見出す』生活をさせるか、その原因を思いついたのが大きなヒットだったろう。
思えば、映画が進歩しすぎて、早いテンポに盛りだくさんなエピソード、名人芸的にうまい役者に鋭い演出、というモノばかり見過ぎていて、この作品のような、手作り感覚の、ゆったりのんびりしたのどかな映画が減っていた。
その意味で、この作品は、うまいし魅力的だけど超絶技巧的にうまくはないし夢中になるほど魅力的でもない役者を揃えたところが成功の一因のような気がする。
リーチャ・マリエッタは、見ようによっては、本当に、イタリアのありふれたオバサンのようでもある。しかし、一瞬見せるなんともいえないチャーミングさはどうだ。年相応の優美さに溢れているし、生きる喜びを発散している。こういう女優は日本にいないから、よけいに魅力的に思えるのだ。
今の日本は、どん詰まり感に満ちている。イタリアだってヴェネツィアだって、問題は抱えているだろうし喜びに満ちた毎日があるわけがないだろうが、彼らの明るさを見ると、これは映画だと思いつつも、羨ましくなってくるし、イタリアに住みたいと思ってしまう。イタリアの状態が今の日本より悪いとき(それはものすごく長かった)でも、彼らは人生を謳歌していたではないか。
あ。僕だってこういう映画を観ることが出来て、美味いものを食べられるのだから、日本での毎日もそう捨てたものではないのだけれど。