笑の大学

監督:星護

 一言で言えば、「舞台の方がよかった」。
 僕は96年の初演を見ているが、実に感動的な公演で、後日NHKが放送したものよりも素晴らしかった。
 役者の力で言えば、西村雅彦/近藤芳正と役所広司/稲垣吾郎はほぼ互角だ。しかし、完成形である舞台版を映画にするために付け加えられた部分がほとんどすべて蛇足になっている。唯一意味があったのは、青空貫太の実際の『実演』を見せた事くらいか。長い長い廊下は、画面としてキレイだが、あまり意味を感じないし、エンド・クレジット・タイトル部分のゲスト出演部分は全く不要。
 この作品のキモは、ロジックとギャグだけで話を紡いでいくところだろう。というか、それさえあればいいのであって、他の要素は蛇足でしかない。
 そこのところが、舞台版では肉を削いだタイトな出来上がりになっていて、ドアとデスクと椅子だけのシンプルな舞台美術とあいまって観客の想像力を刺激した。
 だから、映画にする難しさを監督自身が一番よく判っていた、というのはとても頷ける。舞台版をそのままカット割してフィルムで撮影しても『映画』にはならないから、映画として成立させるためにあれこれ工夫しなければならない。その『工夫』の部分が蛇足にしか見えない。これは極めて残念な事だ。
 舞台の感動が強すぎて、今でも西村雅彦の涙が目に浮かぶ。近藤芳正の真っすぐな青年作家ぶりが脳裏に焼きついている。
 映画版を作る難しさは察するに余りある。しかし……検閲官・向坂をあんなに走り回らせて、それをキャメラが円形移動車で追う必要があったのか?いやいや、そもそも、映画にする必要があったのだろうか?
 映画にするエネルギーがあるなら、三谷幸喜と西村雅彦をなんとか和解させて、また一緒に仕事をしてもらうほうがよほど有意義であると僕は信じる。
 
 と言ってしまうと、まったく身もふたもないのだが……。
 星護の演出は、実にフジテレビのドラマ的画面構成で、凝っているけど、どこまでいってもフジテレビのテレビドラマ、という匂いが消えない。
 あえて映画文法というかルーティーンに反して、相対する二人の切り返しショットを、人物の顔面の前に空間を作らず詰めた形でフレームを切って切り返している。これは如何なる意図だったのか。息詰まる緊迫感を出したかったのかもしれないが、僕には異様なフレームのとり方でしかなかった。
 
 否定的意見に終始してしまうが、あの完全な舞台を、あえて映画にするのだから、もっと新しいアイディアが投入されて、「なるほどこれは映画だ」と思わせてくれるものがあるのかと思っていたので、それがとても残念だ。
 
 とはいえ、向坂が「検閲ではなく台本直し」のようにギャグの欠点やご都合主義を指摘してより笑えるものに練り上げていく姿には笑いながら感動したし、作者・椿の「テキが示してくる条件の中で最高のものを書いてやろう」という意気込みと情熱と才能に泣いた。しかしそれは舞台でも同じ様に泣いたのだ。
 
 この「笑の大学」は完全な戯曲だと思うが、これに類したモノは確かあったはず。古い日本映画だったのか昔のテレビドラマだったのか、それとも舞台だったのか思い出せないが、ここまで昇華したものでもなかったし、「軽演劇」「喜劇」についてのものではなかったかもしれない。でも、原形のようなものはあったはずだ。舞台を見て感動しながら、「何処かで見た気がするなあ」と思っていたのだった。でも、その原形があったとしても、原形をはるかに凌駕するのが「笑の大学」だ。
 椿の『笑い』に対する心意気と情熱と愛情は、等しく僕にもあるもので、共感するとともに、笑いの尊さと言うものまで考えさせてくれる。そして、笑いを作り出すことへの誇りと自信を感じさせてくれて、同時にハッパもかけられている。
 映画のパンフの中で三谷幸喜は、椿のモデルはエノケンの座付き作者の菊谷栄であるとハッキリ言い、菊谷を神だと思っていると語っている。
 その意味では、僕にとっての神は、ベティ・コムデン/アドルフ・グリーンだが、検閲がない(事もないのは事実だが)現在、向坂のような存在は、プロデューサーであり監督であり、編集者だ。彼らの指摘や命令を受けて、如何により良いものを書いていくか。
 その姿勢を椿の生き方から大いに学んで、そのガッツを真似ていかねばならない。
 96年の舞台を見てから現在までの間で、「安達瑶」としては、次第に『笑い』の要素が評価されるようになってきた。やっとここまできたか、と思うが、これからも、椿、いや、故・菊谷栄氏の意志を学んで(遺志を継いで、などという大口を叩く気にはなれない)、もっと精進していかねばならぬ、と思う。