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遊ぴとしての鑑賞〜「障害」児の鑑賞教育の試み〜〔抄〕
大分市立金池小学校(現大分市立森岡小学校) 矢野加寿子
くはじめに>
本研究は、美術教育における遊びの概念を鑑賞にまで広げ、鑑賞を遊びとして位置付けた時、どのような姿となって現われるかについての研究である。造形遊びは材料と行為を契機にして成立し、子どもは遊びを通して見る力、つかむ力いわば世界を構築する力を獲得する。材料と行為による遊びの契機を「つくる」場から「見る」場へ転換させた時、見る場としての鑑賞では遊びがどのように展開していけるのかという可能性を「障害」児の鑑賞教育の実践を通して探っていく。鑑賞の場は、「開かれた作品」による美術館での作品鑑賞に求める。鑑賞教育については、表現と関連させてこそ意義があるという捉え方がある。また、知的レベルで文化を伝える側面を強調した鑑賞教育論もある。自己表現としての美術教育が見直されている中で鑑賞教育をどう捉えるかは差し迫った問題である。鑑賞教育重視の機運の中、造形遊びの拡大もさらに起ころうとしている。このような状況の中、遊びと鑑賞を関連させて考察していくことは、意義があると考える。
そこで、まず、「遊び」と「鑑賞」をどのように位置付けるのかから考察を始める。このとき「遊び」は、「身体による創造的な行為」としてとらえることができる。「見る」ことを「遊び」の行為ととしてとらえることで「遊びとしての鑑賞」という場を成立させる。次に、「遊びとしての鑑賞」の現れるべき方向と意義を鑑賞教育を取り巻く状況と鑑賞の構造から考察する。さらに遊びと鑑賞の基盤となる直観及び体性感覚に光を当て、鑑賞教育で果たす役割について考える。実践の場を「美術館での鑑賞」に求めていく。美術館での多様な美術との出会いを「遊び」の視点及び「障害」児教青の視点で考察していく。
1 遊びと鑑賞 ![]()
造形遊びは美術教育の学習観、作品観を転換させた。それまで、子ども自身の内面の願いや思いを「思いのままに」表現することを重要視していたのだが、この作品観による鑑賞は作者の制作意図や心情をくみ取るという一方向のものとなる。作者中心主義というべき鑑賞であり、小学校の低学年で独立した鑑賞学習が行われにくい背景ともなっている。造形遊びにおいては材料と行為を契機にしてイメージを形成し、材料や行為そのものを楽しんだり遊びの中で新しい意味を発見していくことを重視する。造形遊びの実践では、しばしば次のような場を体験する。「『もの』に身をゆだねること、あるいは『もの』を引き受けること、『身体』の持つ受動性と能動性の力学の中で、事物の持っ概念性が解体され新たな意味が立ち上がってくることを。」その時、造形活動はその身体性を基軸にした活動によって世界をリアルな事象として捉え返す重要な経験を保証する場となる。すなわち、場所や空間そのもの、また材料をふくめた「もの」と身体による創造的行為によって、子どもが対象を見る力、世界を構築する力を獲得する場の創出こそが造形遊びの意義であったのだ。
このように造形遊びに見られるような、「もの」に対する様々な行為に意味を見い出すという遊びの概念を鑑賞教育に生かすことで新しい鑑賞教育の展開が可能になるのではないだろうか。このことを考えるときに、「行為」としての「見る」を軸にしていくと、創造的行為としての「遊び」が「鑑賞」に繋がり「遊びとしての鑑賞」の場が成立する。鑑賞を「見る」という行為にしぼり込み、そこから出発することで鑑賞教育の一つの展開の仕方が可能になる。「見る」ことが「遊ぶ」ことと同様「対象を見る力、つかむ力、世界を構築する力」につながっていくに違いない。
2 遊びとしての鑑賞 ![]()
「見る」ことを軸にした遊びとしての鑑賞は、視覚を含めた「見る」という体験をベースに展開し身体的・触覚的感覚の参加により成立し、常に行為とのかかわりの中で、時間軸をも同時に視野に入れ「生成の過程」に着目しながら見ることを指向する。また、鑑賞の段階としては「直観として見る」段階に位置付けられ、鑑賞の最初の段階である。しかし、直観として見ることは、これなくしては鑑賞が成立しないといえるほどの重妻な鑑賞の一つの在り方だと考える。「直観」の有用性を二つの教育学の立場から考察する。
直観は概念的理解や分析的思考と比べて低いものと見なされがちだが本当にそうだろうか。今日の教育改革の起点ともいうべきJ.S.ブルーナーによれば、直観は間接的に推量された語っまり分析と証明という形式的方法の介在に依存している理解と対置された語であり、「自分が使える分析の道具にあらわに依存しないで、問題または事態の意味、重要性、または構造を把握する行為」と定義されている。また、分析的な方法論を批判するO.F.ポルノウらの精神科学的教育学は、直観は絶えずいわゆる精密な方法の誤りを正す働きを果たしながら一つの状況であるようなある判断をもたらしうる基礎的な道具であり、且つ本質的で純粋な生命の形式と捉え、芸術の仕事として直観への復帰を提唱している。
双方とも直観を重視しており、直観として見る力を子どもたちの能力として育てることは看過できない。さらに「直観として見ること」を支えるものとして、広い意味の触覚つまり体性感覚(触覚、圧覚、温覚、冷覚、運動感覚)を基本とした諸感覚の統合による共通感覚がある。共通感覚は個別の感覚を越えた全体的な直観であり、直観として見ることの基盤を形成する。「直観として見る」ことを成り立たせるためには、視覚だけで見るのではなく触覚に代表される体性感覚による感覚の統合の方向を目指していく。実際の鑑賞の姿として「見る」行為の拡大が図られるべきであり、触覚により見る、身体そのもので見る、空間にたたずみ浸ることにより見るなどの姿となって現れるであろう。またその場で様々な行為として展開されるわけではないが、手触りや手応え、筋肉感覚、運動感覚をよみがえらせながら見ることにもなるだろう。造形遊びで見られたように、見るという行為を楽しみ、見ることの意味を考えたり、見ることにより意味づけられたことを他者と繋いで考えたり、自己と他者の繋がりを考えたり、自己の有り様を省みるなどの活動に発展するであろう。この「見る」の活動は「対象をつかむ力、世界を構築する力」に繋がっていく。
このような「見る」の実際の姿を実践の場を設定して考察していく。
3 遊びとしての鑑賞の実践の場 ![]()
実践の場として美術館等での鑑賞を設定する。美術館教育ではここ数年、学校での学習の枠を越え美術の様々な姿に対応した鑑賞学習が試みられている。遊びとしての鑑賞につながるような遊びの要素をふんだんに取り入れた意欲的なワークショップも展開されている。学校での造形活動からは想像もできないような自由でとらわれのない活動が試みられる例も多く、思い切った教材設定も可能である。教材上ここでは、「学習材」による学びの姿としては、「手で見る展覧会」などが最もポピュラーであろう。触覚による鑑賞は多彩な展覧会により実施されており、『DOME』誌上には、遊びとしての鑑賞に類似の試みが数多く紹介されている。感覚と行為を軸に見ることを問直し多様な美術の在り方を提示し、遊びにつながる企画での鑑賞は市民権を得つつある。しかし、知的「障害」児及び「情緒」障害児による鑑賞の資料は少ない。「魂の対話工一ブルアート展」や「兆し徴し癒しの造形展」などの「障害」に光を当てた展覧会では、「障害」が可能性を示すものとして、美術の流れの中で新たな意味を持ち始めていることを示している。「子どもの美術」の発見と同じように「工一ブルアート」には見落としてきた何かがあるのではないかという思いと「障害」を持っ子どもたちを美術館という場所に誘いたいという願いを持ち「美術館の遠足」という場を設けた。そして、一人ひとりの子どもの姿から可能性を探り、「障害」を持つことから発信できるものを求めて実践を始めた。
初めに大分市美術館準備室企画の「大分の現代美術シリーズ」を教材とした。作品が「開かれた」構造を持つことにより、多様な鑑賞が可能になるからである。造形遊びは、多義的な解釈が遊びの主体者にも鑑賞者にも存在している。造形遊びの遊びから出発している本研究は「開かれた作品」を鑑賞するという場が必然的に設定される。「開かれた作品」では作品と鑑賞者が相照らしあい、多様な読み取り行為そのものを重要視する。作品を作者の意図や心情から見るのではなく、鑑賞行為と作品の多様な構造との合作によって「作品」そのものが成立するという作品観を基盤としている。このような鑑賞者中心の鑑賞の一つの方向が「遊びとしての鑑賞」である。作品が子どもにひき受けられる時に「鑑賞遊び」の姿となる。「鑑賞遊び」が成立するためには次のような条件が考えられる。「作品が多様な視点からの読み取りを可能にする構造を備えていること。材料の色、形、質感、動き、構造等の造形要素そのものを遊びの契機にしていけること。視覚だけで見るのでなく触覚を始めとした体性感覚を覚醒させながら見ることが展開できること。新しい見方を次々に可能にするような教師のはたらきかけ」等である。実践で学習の主体となった子どもたちは、「美術館の遠足」での作品との出会いにより、様々の「鑑賞遊び」を体験することになる。
4 実践と考察 ![]()
常木新二展では、作品そのものが周りの風景を取り込み、見る人をも作品の一部としてしまうような意外性があった。どのような見方をも許容するどころか、期待する懐の深さがあるということが、どの子にとっても「見る」ことを享受することにつながる。子どもは瞬時のうちに空問に入り込み、影遊びを楽しみながら様々な感覚を働かせた。様々な見方を前提にして作品が開かれている時、どの子にとっても遊びとしての鑑賞が保証されていると言える。
山出淳也展では作品との応答そのものを楽しんだ。「大切な場所」を問い、人々とのコミュニケーションを顕にして見せる「プロジェクト」や「わたしだけのMUSEUM展」につながる「美術館」をテーマにしている作品では、「美術館」が大切な場所になりえるかを問われた。美術館は「障害」を持つ子どもにとって必然性のあるものとなるのか、あるいは美術館での鑑賞の意味は何なのかを一人ひとりの地平に立って考えていくことが「作品」の鑑賞であった。新しい「もの」との出会いの意味、「行為という言葉」の可能性を感じたのだが、美術館がかけがえのないものになるのかはこれからの課題であろう。それは「障害」を持つ子どもにとって、美術館に次の機能を期待するからである。一つは広義の言葉の育成の場である。遊ぶことを基盤にしながら作品の全体的表情を捉え、受け取ったものを可能な限りの「行為」「表情」などの「言葉」で表現していく過程は広い意味の「言葉」の獲得という機能である。もう一つはコミュニケーションの主体育成の場である。鑑賞者の存在を前提とする作品の鑑賞では、受け手は単に受容者ではなく対等なコミュニケーションの主体であり、遊びに内包される全感覚が統合された形で機能することができる。「共生」という視点から見ても、作品との相互浸透、相互影響によりコミュニケーションが成立するためには主体が形成されなければならない。美術館での作品鑑賞は、広義の言葉の育成とコミュニケーションの主体育成の立場から、子どもたちが今必要としているものとして捉え直すことが大切であろう。その捉え直しにより、美術館がかけがえのないものとして機能し始めるであろう。
鑑賞遊びの場として学校外の展覧会「NEWAGEARTSHOW」をそのまま学校に移設させる
試みもした。作品が学校空間に置かれることで子どもたちによる多様な鑑賞遊びが成立した。見立て遊び、内と外から不思議な見え方を楽しむ遊び、安心することを楽しむ遊びなどである。特に情緒「障害」児学級の子どもたちに多様な活動が見られ、行為そのもので大らかに作品を「見る」ことが確認された。このことは、子どもたちが求めている活動が展開できたからではないかと思われる。それは、遊びとしての鑑賞で安心感が得られるのではないかということである。鑑賞遊びによる「癒し」の可能性である。ここでの癒しの機能は、芸術療法としての「造形的表現をイメージ表出と見て、それを治療的操作により精神療法的アブローチに利用する」ものではないだろう。ェディス・クレイマーのいう「創造的行為による心的葛藤が再経験化され解決され統合される」姿として機能する。芸術による現実と空想、無意識と意識の統合による癒しの姿である。鑑賞行為による癒しを期待しすぎてはならないが、作品との照応による遊びの行為を「象徴的言語」として位置付け、言語活動の困難さを避けるものとして機能させることが癒しの方向であろう。
癒しの機能を別の視点から見ることもできる。比喩的な意味で、作品という「空間」との接点を求め続け、行為による鑑賞遊びを通して自分の方法で見つけた「位置」で初めて鑑賞の主体となりえる。決して借りたり教えられたりして得られるものではなく、自分の鑑賞の仕方を全感覚を働かせて見つけた時、直観で見ることが成り立つ。子どもは、作品と自分自身の方法による照応により安心できる場を得ることができる。遊びとしての鑑賞はこうして直観での鑑賞を成り立たせ、作品との照応による癒しをも感じることにつながっていく。
「交流学級」での鑑賞遊びでは、次のようなことが明らかになった。低学年からの独立した鑑賞学習が可能であり、大きさや形、動き、質感、構造などの多彩な視点から作品を見て楽しむことができる。また、それを言語化して伝え合うこともできる。子どもの「見る」ことの中にすでに、「触る」活動としての手触りや運動感覚を呼び覚ます働きがあり、「見る」ことは静止した色や形を見るだけではない。実際に「歩く、座る、たたずむ、触る」などの活動を取り入れることは、連動感覚、筋肉感覚、皮膚感覚、聴覚などの感覚を統合させて「見る」ことにつながり、身体的な関わりがあると多彩な「見る」が展開され、一挙に遊びが広がり、直観での見方が広がったり深まったりすることが確かめられた。造形遊びにおける見立ては鑑賞遊びとしても有効に働く。見立ては通常「形、色、動き、機能、材質」などから成立するがさらに自らの身体的な行為により体性感覚が働くことにより、質的な変化が見られた。
くおわりに〉 ![]()
鑑賞において「直観として見る」ことは、触覚を始めとする体性感覚を基底とした感覚の統合の方向で成り立つが、遊びの要素によるアプローチだけでは不十分である。鑑賞遊びは直観として見ることに至る一つの方法である。直観で見ることにはすでにそれを成り立たせるそれまでの経験が含まれている。経験が高められ学習が積み重ねられることで「直観として見る」鑑賞の段階が深められていく。しかし、「直観として見る」ことを経なければ、分析も意味がない。共通感覚を働かせた「直観で見ること」は、知的なアブローチ、身体的な行為によるアプローチの統合された鑑賞の姿として捉えたい。そのためには、鑑賞の系統性やテーマ性の問題を考慮していかねばならない。
今後の課題として、授業として成立させる要素と授業過程を一般化する方向性、「障害」児教育の視点をより明確にすること、学校外の施設や組織とどのような連携ができるのか等がある。これらを検討しつつ「遊びとしての鑑賞」の可能性をさらに追求していきたいと考える。