続・百人一首
各歌の解釈は、田辺聖子の「小倉百人一首」をベースにしました。(少々書き加えしている個所もあります)
ながらへば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ いまは恋しき 藤原清輔朝臣
<生きながらえていたら
またこの頃がなつかしくなるんだろうか・・・
辛いこと、悲しいこと、いやなことの多い この頃なのに・・・
辛いことが多かった 昔の
あの時代が いまは なつかしいのだもんな>
人生の中で、人それぞれ、必ず、辛いこと、悩むこと、悲しいことを経験します。
そんなとき、全てを投げ出してしまいたくなるようなこと、どうでもよくなってしまうこともきっとあるでしょう。
だけど・・・だけど、そういう辛いことですら、後々になってみれば、いい思い出だな、と思うようになれる日がきっと来ます。
そういうことを歌った歌です。
どんな逆境も、その人を成長させてくれる糧になるのです。
たとえ、今の自分が漆黒の闇夜の中にいるとしても、
いつか必ず、まぶしい朝日は昇ります。
明けることのない夜は、絶対にないのです。
ここから先、僕の友人のメールをしばらく引用 したいと思います。
>色々悩んで考えて、やっぱりだめで、でもまた浮き上がってくる浮沈空母みたいな人の事をどうして面白
>味がないと言えましょう?
>とことん傷ついて、悩んで、臥せって、やせ細って、
>ぐるぐる振り回されてね。
>きっと、どん底ってここらへんかしら・・・。
>なんて、分析し始めた位から、一筋の光明の光が見えてくるでしょう。
そう、そしてその辛い思いすらも、懐かしく思える日がいつか来るでしょう。
だから、どんなときでも、「生きる」のを投げ出しちゃいけない。
崩れ落ちて、もつれあって、浮んでは沈んで、もがき苦しみながら、
それでも人は生きていくのです、生きていかねばならないのです。
僕は、素敵な中年になりたいです。守るべきものを守って死にたいです。
そして、その死に場所を見つけるために、今日を生きようと思っています。
それが何かは、未だに見つけていません。でも、一生かけてでも探しだすつもりです。
いや、それを探しだすことが、僕の人生に置けるもっとも大きな目的です。
筑波嶺のみねより落つる みなの川
恋ぞつもりて 淵となりぬる 陽成院
<東国の歌まくら 筑波山
その峰々からしたたり落ちる 小さな流れも
積もり積もれば男女(みな)の川となるのです
私の恋も 次第につもって
いつしか深い淵となりました>
「恋心」が積もり積もっていつしか深い淵となる。恋にどうやって落ちるかも人それぞれ。
直感で恋におちる人もいれば、胸の中の想いがどんどん膨らんでいく人もいる。
僕は・・・、どちらかと言えばこの歌に共感できます。
最初は小さな「想い」が積み重なって、積もり積もって、
そして心の中でどんどん大きくなっていく感じなのです。
でもそんな僕だから、気が付いたときには時すでに遅しということが多くあります。
でも、This is also love. そんな気がします。
この歌は陽成院の妃綏子内親王に送られた歌です。
綏子内親王は陽成院の父、清和天皇のいとこであり、あるいは陽成院よりも年上の女性だったかも知れない。幼心に何となく好きだった、お姉さんのような女性への少年のあこがれが、成長するにつれて恋になったという歌ではないでしょうか。(久保田淳氏の解釈による)
切なすぎる切なすぎる 想い伝えたら
愛しすぎた愛しすぎた僕が分かるはず
眩しすぎる眩しすぎることを、 あなたと出逢いたい・・・
・・・この想い ・・・伝えたい ・・・この愛を
忘れない! I can I believe! 「BELIEVE」 LUNA SEA
LUNA SEAの曲ほど激しく、熱くはないけど、陽成院の歌はこの歌詞に通ずるものがあると思います。
陽成院は、この「セツなすぎる想い」を綏子内親王にどう伝えたんでしょうか。
この「想い」は、ちゃんと綏子内親王に届いたのでしょうか・・・?
綏子内親王は、陽成院の「想い」に、心の底から応えてあげたのでしょうか・・・?
恋の行く先はともあれ、これは僕のとても好きな歌の一つです。
積もりゆく「想い」と、押さえきれない感情が、歌の中に溢れかえっているような気がします。
一見、ほのぼのとした感じもしますが、陽成院の内に秘めた静かな激情が滲み出ています。そんな・・・歌です。