| 「カフカの『城』の不条理を考える」 投稿日:2008年05月18日(日) | 荻野 敏(国府病院) |
| フランツ・カフカ「城」(訳:前田敬作、新潮文庫)を読んだ。620ページというボリュームの小説である。たまたま、購読している雑誌の特集に著名人が選ぶ海外長編小説というものがあり、その第5位に位置付けされていたために興味があって読みはじめたのだ。就寝前に少しずつ読んでいたのだが、ボリュームもさることながら、文字自体が多くて(一人一人の会話が長いので改行がほとんどない!!)なかなか前に進まない。また、内容自体も取り立ててスペクタルなわけでもなく、淡々と事体が進行していくだけ。なぜこの小説が、著名人が選ぶ第5位に入ったのか不思議に思いつつも、読みすすめていくと、そこに現代社会との関連性がそこはかとなく見え隠れすることに気が付いた。 とにかく不条理なのである。フランツ・カフカといえば「変身」を思い浮かべる人が大多数だろう。この「城」という小説を読んだことがない人でも、「変身」は読んだことがあるという方は多いのではないだろうか。「変身」はフランツ・カフカが生前発表した作品で、数多ある短編小説の中でも相当に著名なものの一つとして挙げられる。この作品のすごさは、もちろんその内容もさることながらその引用の多さだろう。河本英夫先生も(「現実性の変容」春秋、第480号p15-18)引用されていた。そういえば、むかし大好きだった高橋留美子の漫画にも引用されていた覚えがある。もちろん「変身」も不条理だが、不条理さならこの「城」も決して劣らない。 測量師のKは深い雪の中に横たわる村に到着するが、仕事を依頼された城の伯爵家からは何の連絡もない。村での生活が始まると、村長に翻弄されたり、正体不明の助手をつけられたり、はては宿屋の酒場で働く女性と同棲する羽目に陥る。しかし、神秘的な“城”は外来者Kに対して永遠にその門を開こうとしない・・・・・・。職業が人間の唯一の存在形式となった現代人の疎外された姿を抉り出す(新潮文庫、フランツ・カフカ「城」裏表紙より)。 この小説の中に出てくる様々な不条理、それを様々なレベルでのメタファーとして捉えることができるのではないかと考えた。すると、現代社会だけではなく、リハビリテーションの世界、認知運動療法の世界にも当てはまるようなそんな空々しい寒さを覚えるような感覚が湧き出てきた。我々は何のためにこの世界に生きるのか。普段はあまり考えることがないような、あたりまえすぎることに対して疑問を投げかけることにより、フランツ・カフカが我々現代人に対して警笛(もしかしたら嘲笑)を与えているのではないかと思えてしまう。 第1のメタファー:リハビリテーション専門家が医学の世界に在るということ フランツ・カフカはあるアフォリズムの中で、存在することとは単に「そこに在る」ことだけではなく、同時に「そこに属する」ことを意味すると書いているそうである。つまり「そこ」という存在および所属の場所を「世界」と呼ぶならば、いかなる「世界」にも所属していない存在はないということになる。となると、存在しないことがないという無に帰するのであれば、所属しないことは無ということと同義である。医学の世界において、リハビリテーション専門家である我々は存在しているのだろうか。もちろん、小説の中に出てくる主人公Kは、外部から観察すればそこに紛れもなく存在しているといえるだろう。同様に推察するならば、医学の世界に外部観察として我々は存在している。しかしながら、医学を回復の科学という位置付けで再度省察すると、急激にその立場は危うくなる。 つまり、医学をどのレベルで捉えるかによって上記の提題は異論を内包する。例えていうなら(この例えが正しいかどうかはわからないが)医学を単なる生活空間への回帰とするのか、生物学的な回復のみとするのか、自己組織化された身体の回復として人間をシステムとして論説するのか、レベルをどこに設定するのかということである。生活空間への回帰であれば、そこに機能回復という視点は必要ではなくなる。畢竟、機能を代償する器具を用いればよいのである。しかし、それは患者が本来持っている希望そのものであるといえるのか。患者は自己組織化能力と自己形成能力を内在した身体を望むことはリハビリテーションの世界に生きているならば痛切に感ぜられることであろう。ならば、単なる生活空間への回帰を医学と呼ぶことは可能であるかという疑義に立ち塞がれる。生活空間への回帰のみを目的としているリハビリテーション専門家は医学の世界に在るということができるのだろうか。故に、リハビリテーション専門家は病院や施設の中で本当に存在しているのだろうか。 第2のメタファー:リハビリテーション専門家の持っている理は他の世界でも理として通用するのか 「城」は、主人公Kが他の国から城のある村へ到着する場面から始まる。Kは測量師として村(正確に言えば城の伯爵府)に招聘されて、いわば望み望まれて村に到着するのである。深夜にようやく長旅を終えて村にたどり着くも宿泊する場所はもちろん決まっていないために、仕方なく酒場の隅でわらぶとんに包まって就寝しようとする。そこに、城の領主である伯爵さまの許可なしでは城の所有である村に宿泊することはまかりならん、と伯爵府からの使者に忠告を受ける羽目になる。そこでKの執った行動はその忠告を撥ね付けるというものであった。さて、我々の常識から考えればこの行動は至極常識的なものとして受け取ることができる。城から招聘されているのであればそれ相応の態度で迎え入れられるべきであるし、況や客人を招いておいてここに留まることはまかりならんと突きつけられれば、そのような不条理はないと思われる。しかし、この城が統治するこの村には他の国の人間が理解できないような法律や決まりごとがあるのである。つまり、村人には常識的に映る出来事がKには不条理に、Kには常識的に映る出来事が村人には不条理となるのである。法律は、その世界の住人にとっては自明の約束であるが、他の国の人間からしてみたら未知であり不可解な規則の体系として映る。この村の規則は絶対服従を要求し、かつ逆らうことは論外として描かれている。つまり強制的な命令である。Kは規則・法律・掟に対しての解釈と理解を試みる。また、自分に対する不条理を訴えつづけるがこの世界(つまり村)以外の法律は合理的な普遍的な妥当的なものではないために不合理の体系として取り扱われてしまう。この論点のズレは、小説の最後まで引きずられつづける。 リハビリテーション専門家の持つ知識は、基本的には学校教育の中で教授される。3年もしくは4年という修業年の中で、徹底的に教え込まれる。もちろん、目標である国家資格に向けてその教育は形作られていることは否めないであろう。昨今の脳科学、いやそれだけではなく生物学を含めた人間理解に関する様々な知見が膨大に存在していることは疑いの余地はない。もちろんその真偽や内容は多くの批判的な知見をも含有しているだろうが、いずれにしても有史以来の謎であった人間に対する疑問は少しずつその謎解きをし始めているといえるだろう。意識などのハードプロブレムはまだまだ難しいが、ミラーニューロンの発見など以前は単なる「気のせい」や単に「環境」と思われていた症状が少しずつ科学のメスにて解き明かされつつある。例えていえば、自閉症は以前では母親の態度による影響と考えられており、自閉症を持つ母親は謂れのない差別的視線を浴びつづけなければいけなかった。しかしながら、脳科学の発展に伴い、ミラーニューロンの機能不全などの解明が少しずつではあるが紐解かれてきている。そうなると対処法としての治療も何らかの進展の可能が出現してくるだろう。科学は進展する。 リハビリテーション専門家の知識は進展しているか。私がリハビリテーション専門家を志し、養成校に入学したのは昭和の終わりである。あれからすでに20年余りも過ぎている。しかしながら、その養成校で得た知識を現在でも十分に使おうと思えば使えることは、どういう意味性を内包しているのだろうか。「リハビリテーションの知識はすでに20年前に完成されており、現在の科学的知見はその裏づけをしているに過ぎない」といえるのだろうか。否、そうは思えない。理由は簡単である。すべての患者が回復していないからである、それも機能回復が。リハビリテーションに脳科学的な知見を持ち込むと「難しい」とか「関係ない」とか言われてしまう。つまり、脳科学的な知見というある種「法律」的な物事の理をリハビリテーションに持ち込んで考えることを良しとしない、しようとしない風潮がそこにある。科学が反証可能性を内在するものとするならば、反証すら行っていない(可能性のある)リハビリテーションの世界は科学といえるのか。数多ある科学はリハビリテーションを科学という仲間に入れることを良しとするのか。脳科学的な知見の理を、リハビリテーションの理では非常識という不条理に当てはめてしまっていることはないだろうか。リハビリテーション専門家の持っている理は他の世界でも理として通用するのだろうか。 しかしながら、これを愚とすることは明らかに危険性を伴う論理であるということに留意すべきである。なぜならば、我々から見た世界と他者から見た世界では、世界の捉え方そのものに違いが在る可能性があるからである。我々は認知理論に立脚した物事の解釈を試みる。だが、他者とはその立脚している理論背景の違いにより、意見や論考にすれ違いが発現する可能性がある。つまり他者そのものではなく、その意見や論考のすれ違いを愚とするのならば、我々もその愚の一端を担っているといえる。これはカール・R・ポパーの弟子であるウィリアム・W・バートリーが正当化主義と表現したことに近いと考えられる。我々が正しいと思うこと(正当化主義)と他者が正しいと思うこと(正当化主義)、つまり正当化主義同士の議論は決して有意義な結論を生み出すことはない(小河原誠:討論的理性批判の冒険、未来社)。相容れないことは簡単に言えば現在の日本で言うところの「ねじれ」であり、ちなみにイタリアでは「pareggio」と呼ばれている。正当化主義同士の議論の帰結は、お互いが傷つかないところに着地するか、まったく着地点を見出せないかどちらかである。いずれにしても理論を進展させるためには科学的視点を用いる必要性が示唆される。ウィリアム・W・バートリーはそこに非正当化主義という概念を持ち出した。つまり「私はこう思うが、この考えは間違いかもしれない」という非正当化された考えを議論のテーブルに置き考察していくことであるといえよう。互いを非正当化することは難しいかもしれない。他者が非正当化してくれなければならないからである。しかし、正当化主義同士の無意味な論考から抜け出すことは可能かもしれない。そのためにはなぜ論説の相手は○○という立場をとるのかということを念頭に入れる必要がある。「他者が解ってくれない」のではない。立場を変えると相手も「解ってくれない」と考えているのである。 第3のメタファー:我々は機能的人間でないと言えるか、また機能的人間を作っていないと言えるか 「城」の中に出てくる人間はほとんどが職業人間として描かれる。職業人間とは、あとがきの中で訳者の前田敬作が述べているもので、ただ社会のメカニズムが命じる機能的役割を忠実に果たすだけで一片の良心も持たない、と表現されている。むしろ良心を持つこと自体を許さない風潮があり、命じられたことをただ粛々と実行していく。Kには二人の助手が城から与えられる。助手二人はKが望んだものだが、助手を指名したのは城である。この助手は、城にいるときは掟の忠実な履行者であり村にくると烏合の衆となる。良心はない。命じられたことを淡々と行う。城から命じられて助手になった二人は、今度はKから命じられたことを淡々と行う。しかし、考えて物事を行うことはない。良心がないために責任も持たない、つまり責任ある行為を遂行することはない。これを訳者の前田敬作は「機能的人間」と表現した。 責任ある行為を生み出さない、命令されただけの行為を行う人間を機能的人間と表現したことは大変示唆に富む。行為という言葉を用いていいかどうかすらも疑問に感じられてしまうが、いずれにしても我々人間は機能的人間かどうかと問われれば、決してそうではないと大多数の方がいうだろう。つまり、我々は命令されただけでは動かないし、物事を考えながら行動していると反論するだろう。もちろんそうである。しかしこの意味を二つのレベルで考えてみる。まず一つ目は、我々リハビリテーション専門家が機能的人間か、それとも機能的人間ではないかということを確かめてみる。確かに命令されただけの事しかやらないわけではない。考えて行動している。しかしながら、第2のメタファーで取り上げたように、以前に教えられた知識が正しいと思いこみ、それを批判的吟味もせずに繰り返しているとするならば、雲行きは俄然怪しくなる。確かにそこに何らかの疑問を見つけ、新たなる知見を取り入れて改新し、刷新していくことは機能的人間ではないのかもしれない。だが、リハビリテーションの世界はそうには見えないと感じてしまう。そこには責任を伴うということが感じられないのだ。今のリハビリテーションは、良くも悪くも医師のもと、医師の監督のもとに存在している。つまり、何らかの重大事件が出現してもそれは医師の監督責任となることが多い。リハビリテーション専門家が責任を請け負うことは少なく、故に大きな問題を孕むこともない。ここに最大の矛盾点が存在する。責任もない、命令されただけの行為をするだけでもない、しかし医学の中で存在感を出そうとしている、果たしてそんなことは可能だろうか。リハビリテーション専門家が専門家ならば、それ相応の責任を負うはずである。機能の回復を獲得できなければ、なぜなのかと叱責されるのが当然である。しかしながら、現在のリハビリテーションではそのようなことはほとんどない。叱責され、責任を追及されるならば、より良い、より効果的なリハビリテーション体系を創り上げようとする筈である。我々はもっと社会から叱責されなければならないし、その叱責を甘んじて受けなければならない。本当に我々は機能的人間でないといえるか。責任のある行動をとっているといえるか。 もう一つのレベルは患者を機能的人間にしていないかどうかということである。患者は外界に対して問いかけをして世界と対話しながら環境世界を生きている。環境世界を脳の中に創り上げているのである。歩いている途中にもし段差があれば、その段差をいとも簡単に我々は超えることができる。視覚を使ってもできるし、体性感覚でも可能である。もし、世界と対話しなければならないという責任を放棄していたら、即、転倒するだろう。故に、ここに責任という視点を持ち込むことができる。もし我々が何の変哲もない普通の道路や廊下で転倒したとする。それは明らかに我々の責任である。そこに注意を向けていなかったということであり、失笑を買うことは容易に想像がつく。そうした責任を常に履行しているために環境世界とうまく対話することができるのである。それは健常者だからであるが、では患者はどうか。病院内で転倒した場合、責任は誰が取るのか。歩行を指導したリハビリテーション専門家かそれとも病棟の責任者かそれともやはり医師なのか。よしんば責任の所在が明らかになったとしよう。ではその保護をこれからもずっと続けて行くのか、患者が退院した後もずっと。そうするとやはり話が不透明となる。退院して自らの責任のもとで歩くのであるならば、責任は患者自身となる。この場合、責任を自らが取っているとするならば、患者は決して機能的人間ではない。とすると機能的人間を作り出していないことになる。ならば問題ない。ではリハビリテーション専門家は果たして機能的人間を作り出さない方法を用いていたのか。否、そうともいえない。身体と精神が相互作用ユニットとして世界の認知に向けられている、これをPerfetti先生は昨年出版された写真集「Il Corpo La Storia La vita」の中で「認知神経人間」と表現している。 ヴィラ・ミアリの訓練室は、学習の場、感じる場、話す場である。研究の場でもある。患者とセラピストがお互いを変えてゆく場である。認知過程を働かせることで、現実との関係を作り出してゆこうとする場である。動かしているのは腕、脚、指であっても、すべての身体、ヒト全体がそれを「支えている」のである。身体と精神が相互作用ユニットとして、世界の認知に向けられているのだ。そこには人間というシステムを構成する要素のすべてが関与している。ヴィッラ・ミアリの訓練室は、新しい人間、認知神経人間を構築養成しようと試みる場なのである(写真集「Il Corpo La Storia La vita」 訳:小池美納 p79より抜粋)。 フランツ・カフカの「城」を訳した前田敬作があとがきを記したのは1971年2月1日である。「変身」を書いたフランツ・カフカ、その小説「城」を訳した前田敬作が今から40年近く前に「機能的人間」と表現したのは偶然だろうか。自らの行動や行為に責任を持つことができる「認知神経人間」に患者はなるべきである。表現してしまえばこんな簡単なことなのだが。しかし「認知神経人間」になるための方法論はまだまだ一般的に認められていないし、我々もすべて掴んでいるとはいえない。我々は本当に機能的人間を作っていないと言えるか。 第4のメタファー:理解せずに従うことを我々はしていないと言えるのだろうか Kは城の規則・法律・掟に対して可能な限りの譲歩もみせる。しかしながら、その譲歩に対する城の返答は常にNoである。測量師として村にやってきたはずのKは、心ならずも学校の教師の小使という立場で村に留まることができることになる。もちろんKは最終的に測量師としての自分の立場を確立してゆるぎないものとする野心がある。だが、教師の小使を引き受けることでKは授業の準備や教師の昼食まで用意することとなる。Kは真冬の村で雨風をしのぐことができる家がなかった。成り行きなのか、偶然なのか、意図なのか、意図されたのか、わからないが酒場で働く女性と同棲することなり、しかも女性が住んでいた住居も追い出されたために、しかたなく教師の小使として屈したのだ。小使として雇われた後、どうなるのか。あまりKは真剣に考えていない。すぐにでも城から助けの手が差し出されるだろうと楽観的な面さえ見受けられる。訳者の前田敬作は「ここにカフカの危険がある。というのは理解せずして服従するという不可知論は、政治的にはファシズムへの屈服を意味するからである」と述べている。 認知運動療法では筋力強化訓練や動作訓練は行わない。これは我々認知運動療法を施行しているリハビリテーション専門家には良く知られた事実である。しかしながら、この筋力強化訓練や動作訓練は行わないという言葉が、多大なインパクトと影響力をもってリハビリテーションの現場に降り注いでいると感じられてならない。 「この観点に立つならば、患者の観察方法を変え、感覚や筋収縮を個別に対象とするのではなく、空間的な意味を与える訓練を計画すべきである。個別の要素についての言及を減らしてゆこうということであるが、これは決して個別の要素をなおざりにするということではない。個別の要素の特質のうち、我々の興味の対象である特性を創発させることができる特質が重要性を帯びるということである」(認知運動療法、p53、協同医書出版、1998)。 筋力強化訓練や動作訓練を行わないということ、この意味することはいったい何なのかということがどれだけ理解されているのだろうか。もちろん、そのことを今話題にしている自分自身も良くわかっていないかもしれない。それを百も承知で述べている。「認知運動療法では筋力強化はしません。だから私も筋力強化はしません」この発言を、あるリハビリテーション専門家がした場合、認知運動療法を良く知らないものが「なぜ」と問うのは至極普通である。その時にどのような理由付けを述べるのか。そこに確固たる根拠が存在していれば良い。しかし「しないものはしない」「なぜ理解してくれない」などの、相手を省みない無理押しは終には決裂という結果を迎え入れることになる。ここに危険性が孕まれているのである。 現在のリハビリテーションは動作訓練などが主流となっていることは周知の事実である。その流れに逆らおうとしているグループ、つまり機能回復を目指す我々がいる。しかし、その流れに逆らうにはそれ相応の理由付けがないと理解されない。そこを棚に上げて「認知運動療法では○○だから」という発言は多大な誤解を生み出す可能性がある。なぜなのか、理解した上でその理論を仮説に生かすことが必要である。認知運動療法とファシズムを同列にしているのでは決してない。その誤解はしないで欲しい。ここで論点として挙げたいのは、我々はどこまで理解した上で発言をしているのかということである。歴史的に見て、理解せずに服従すること、それは悪意ある言葉で表現すれば屈服である。認知運動療法を理解すること。理解した上で理論に則り治療を組み立てる。理解したかどうかを確かめるには、他者に説明できるかどうか試みるのも一つの方法かもしれない。そしてまた、その理論を用いて治療すること、つまり仮説反証して患者の機能回復が得られるかということも一つの方法かもしれない。いずれにしても理解をすること、これを続ける必要がある。決して理解したと思って安心してはいけないのだろう。それは思い込みだといえるのかもしれない。再度問いたい。理解せずに従うことを我々はしていないと言えるのだろうか。 第5のメタファー:我々はリハビリテーションが職業であると本当に言えるか 「城」の中で問いつづけられること。それは、職業が人間の唯一の存在形式であるということである。我々も職業が一つの存在形式であることを認めることはできる。しかしながら唯一と言い切るにはそこにためらいを感じる。リハビリテーション専門家であり、家族の一員であり、友人の中の一人でありと様々な存在形式を思い浮かべることができる。「城」のKは測量師であるはずだがその測量師としての存在を否定される。生きるために測量師という職業を一度置き、教師の小使を引き受ける。しかしながらその小使も全うすることはできずに再び職業がぼやけ始める。職業を得ることができなければ給料を貰い受けることができない。そうなると生活基盤そのものが揺らぎ始める。我々はもちろん職業が一つの存在形式ではあるが、その職業を失うと家族・知人・友人などの存在形式まで怪しくなってしまうこともあるだろう。しかしながら、Kは異国の地から来た異邦人なのである。故に職業を失うことはKの存在形式を失うことなのだ。果たしてKはその職業を見つけることができたのか。小説の最後でKは初めて村の住民である酒場のお内儀さんに求められる事柄がある。それは測量の仕事とまったくかけ離れたものだが、その事柄がもしかしたらKのこの村での存在形式、つまり職業となるのかもしれない。となると、Kはそれを望むのだろうか、それはKにとって良いことなのだろか、村にとって良しとすることなのだろうか。 我々はリハビリテーション専門家である。そこで求められるのは患者を治すことである。それを求められなければ、存在形式を失う。我々は常に考えなければならない。本当に病院に求められているのだろうか、患者に求められているのだろうか、社会に求められているのだろうかと。もし求められなくなれば、その瞬間に職を失う可能性がある。そうなると、社会で生きていけなくなる。収入がなければどうしようもないからだ。あたりまえのようにある仕事が、明日もあたりまえのようにある根拠はどこにあるのだろうか。存在形式を失わないためにも、機能回復を目指すべきである。果たして、我々はリハビリテーションが職業であると本当に言えるか。 小説「城」の主人公Kは自分の職業を、自分の存在そのものを求めてさ迷い歩く。自分の立場を他者に認めてもらおうと躍起になり、自分の正当性を必死になって他者に説こうとする。Kは自分のことしか省みず、自分の法で物事を解釈し、他者を敬わず、他者の都合を考えない。雑誌の特集の中に書かれている書評で、詩人であり作家である小池昌代さんは「わたしはKに通常の意味で人間的魅力を覚えないし、一貫して遠い人であるにも関わらず、Kとは私自身だと思う」と述べている(考える人:特集 海外の長篇小説ベスト100、p54、2008年春号、新潮社)。私もまったく同じ感覚を持った。私はKを好きになれない。しかし、Kは私自身だ、と。 ご意見・ご批判をお願いいたします。 |
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